episode7 第23話

「モオオオオォォォォ――――!」

 ママが鼻息荒く吠える。

「さあ、そいつを引き裂いてやりなさい」

「モオオオオォォォォ――――!」

 怜子の命令にママはうなずくようにして叫ぶ。その口の端からは大量にヨダレが流れ落ちている。目の焦点も定まっていないのか、瞳がグルグルと回っている。

「大人しく寝ていればいいのに……。子供のためとはいえ、健気な人ね」

 ママに押されながら、オヤジは悲しげに呟いた。

「ホント、タフね。きりがないわ」

 オヤジは不敵に笑うと、「武蔵ちゃん。あれを使うわ」と鼻の下をこすってみせる。

 あれ……か。必殺の、あれ、だな。

「ふっ。加減しろよ」

 うなずいて、俺はオヤジから離れるように距離をとる。巻き添え食っても嫌だからな。

「それは、出来ない相談ね」

 オヤジは大股開きになって、「全力全開!」と大地を踏みしめる。それから、臍下丹田に力を込め、

「はあああああああああああああああああああ」

 溜めたものを一気に爆発させる。

 ぼふぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああ――!!!

 大音響が木霊し、少し遅れて風圧がフロアに波紋していく。

 俺はそれを鼻を塞いで防御する。頬を駆け抜ける生温かい風。

 無防備な怜子は、「この匂いは!」と咄嗟に右腕で口元を庇った。

「ふぃ――――」

 オヤジは、「やったわ」と妙に垢ぬけた顔で、大きく息を吐き出している。

 ドスンと音を立てて、オヤジの足元に転がる巨体。ゼロ距離で食らってしまったママは、仰向けに倒れ、ピクピクと痙攣して、本当に失神しているようだ。

「今度こそ、立ち上がれないようね。感覚を鋭敏にし過ぎたのが逆に仇になった――。まさに、墓ケツを掘った、というわけね」

 お尻ペンペンと、オヤジは自らのデカ尻を叩いて見せる。

「まっ、最臭屁ー器ってとこかしらね」

「なんて下品な……」

「ウンちゃ砲にならなくて良かったわ。この技。必殺なのはいいんだけど、力みすぎると実も出る可能性がある、もろ刃の剣だからね」

 ハンカチで口元を拭う怜子に、オヤジは豪快に笑ってみせる。

「って、なーに? そっちはまだ済んでなかったの? 女だからって手加減でもしてるんじゃないでしょうね? 何なら、手、貸しましょうか?」

 右手でピストン運動してみせるオヤジに、

「大丈夫だ。問題ない」

「そう? なら、任せたわ」

 そう言ってウィンクをすると、オヤジは背中を近くの水槽に預けて座り込んだ。わき腹が若干濡れているように見える。黒いレザー生地なのでどのくらい出血しているかは分からないが、額ににじむ汗までは隠せない。

「ああ。任されたよ」

 だから、今は少しだけ休んでいてくれ。

 怜子へと振り返る。自然と力がみなぎってきた。信じてくれる人の前に情けない姿は見せられない。だから、俺は負けられない。

 そんな俺の決意を、首を横に振って否定する怜子。

「あなたには絶対無理だわ」

「どうかな? どんなことでもやってみないと分からないさ。この世の中、『絶対』なんてことは、絶対にないんだから」

 得意の軽口で、それをかわす。

「矛盾してるわ」

 抑揚のない声色。ナナコとよく似た顔をして、冷たい台詞を言い放つ怜子。

「ああ。分かってる。でも、それが俺だ」

 先手必勝とばかりに、怜子へと突っこんでいく。様子見の軽いジャブを片手で軽くいなす怜子。身構えるも反撃はなかった。今度は足元を払う。怜子はそれを軽くジャンプしてかわした。

「そこだ!」

 空中では自慢のスピードはいかせまいと、思い切り宙に浮いた怜子を蹴った。

 手ごたえはまるでなかった。それどころか、サンドバックでも蹴ったかのように、逆にこっちの足裏が痛んだ。何て腹筋の持ち主だ。結果として、怜子をほんの少し蹴り飛ばしただけだった。

 完全に舐められていた。俺の攻撃なんて自分には効かないとでも思っているんだろう。その証拠に、怜子は口の端を上げていた。

「気が済んだかしら? もう諦めなさい。あなたでは勝てない」

 額に手を当てて残念そうに首を横に振る。

「誰が誰に勝てないって? 教えて貰おうじゃないの」

「いいでしょう。それじゃあ、忘れないように外科手術で体に刻み込んであげるわ」

 怜子は五本の指を握り込み重心を低くしたかと思うと、

「ただし、麻酔なしでね!」

 思い切り渾身の右ストレートを叩きこんできた。ガードの上からでもその威力の凄さはうかがい知ることが出来る。そして、再び始まるパンチの連打。止むことのない集中豪雨が俺を襲った。

 また同じパターンだ。

 駄目だ。抜け出せない。左右に頭を振って急所に狙いを絞らせないようにしているが、このままではこちらが攻撃することが出来ない。

 ガードをしている手が痺れて、徐々にガードがこじ開けられていく。急所を晒すのも時間の問題だ。

 ――やられる!

「ナニ硬くなってんのよ、大切な部分はフニャフニャの癖に」

 うるさいくらいの雨粒に紛れて声が聞こえた。ガキの頃から聞きなれているせいか、本来なら聞きづらいダミ声のくせに、俺の耳にはよく入ってくる。

 その声は怜子の耳にも入ったのか、連打が止んだ。

「誰がフニャチンじゃ!」

 思い切り後ろへ飛んでその声の主を睨む。

「ガチガチになっちゃって。それじゃあ当たるものも当たらないわよ。抜いてイキなさい」

 フフフンと、アゴに手を当てるとオヤジは微笑む。ったく、こんな時に冗談をイッている場合かとツッコミを入れようとした時、俺は瞬間的にオヤジの意図を理解した。

 ガチガチに硬い? だけど、大切な部分はフニャフニャ?

 ――そうか!

 あの鋼のような肉体にダメージを負わせられなくても、その内部になら……。

 俺は右足のつま先を地面につけて、トントンとノックした。そして、つま先を軸にして軽く回してみる。

「チン蹴り、でいくか……」

 確かめるように呟く。

「チン、げり?」

 怜子は首を傾げる。そして、鼻で笑う。

「オカマが好みそうな技ね」

「あ、いや~」

 否定しかけてやめる。馬鹿正直に、相手に自分の技をばらすのもしゃくだ。

「そんな攻撃、私には通用しないわ。人を見て言いなさいよ。それとも、この私が男にでも見えるのかしら?」

 冷めた目を向ける怜子。意識しているのか無意識なのか、両腕を胸の前に組むと、大きな胸がひしゃげたように潰され更に強調される。

 やはり、怜子は勘違いしているみたいだ。なら、そのままにしておこう。認めたくはないが、怜子は強い。ブラフをしかけるのも戦術の内だ。

「さあね。おんな男がいるくらいだ。おこと女がいても不思議はないさ」

 わざとらしく虚勢を張ってみせる。

「なら、試してみればいいわ」

 チン蹴りを受ける気満々だと、怜子は両手を広げた。この人は絶対的に自分の強さに自信を持っている。それゆえ自ら俺の技を受け止め、完全な勝利をものにするタイプだ。だが、それが命取りになることを証明してやる。

「言われなくても!」

 怜子に向かって真っ直ぐ突っ込む。

「いっっけぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ! 必殺! チン! ゲリ――!」

 オヤジは思い切り恥ずかしい必殺技を叫ぶ。

 左足裏が怜子の股間目がけて直進する。怜子は待ってましたとばかりに、左右の上腕二頭筋に力を込めて両の手のひらでそれを受け止めた。

「とったぁ!」

 防御されるのは想定の内だ。

「これで終わりよ」

 怜子は受け止めた足をそのまま掴みにかかる。

「いや、終わるのはあんたの方だ」

 俺は怜子に受け止められている左足を軸として、反時計回りに体をひねる。同時に、右足で地を蹴り更に勢いをつける。

 ヒュッ――。

 風切り音と共に俺の右足が怜子のチンの先端を滑るようにかすめる。

 力の一号(むな志)、技の二号(武蔵)。精密な打撃は俺の十八番だ。

「なんですって……」

 怜子はよろけながら後退し、背中を水槽につけた。

「騙したわね。チンげりなんて嘘じゃないのよ」

「悪いが俺は何も言ってない。あんたが勝手に勘違いしただけだ」

 スマートな勝ち方ではないので、何となく目を逸らしてしまう。

「チン違いって所かしら。ボクシングで言う所の『チン』って、ここのことなのよ」

 いつの間にか俺の背後に立っていたオヤジは、自らの『チン』、つまりは、アゴを指し示していた。

 キッと怜子は俺を睨みつける。

「だけど、こんなの効いちゃいない――」

 怜子は預けた背中を放ち自立しようとするも、力なくその場にヘナヘナと崩れ落ちる。

「何よ……。これ……」

 必死に立ち上がろうともがく。

「ダメージなんて全然ないのに、何故動けないのよ」

 頭で考えていることが実行出来ず、不機嫌な声色をあげる。

「全く、どうしたって言うのよ……」

 可哀想に思えたのかオヤジは、自分に何が起こったのか分からず、ただぼう然と尻もちをついていた怜子に種明かしする。

「チンに打撃を受けるとね、人は脳が揺さぶられて軽い脳震盪状態になるのよ。だから、意識はしっかりしていても、しばらくは動けないわよ。どんなに肉体を強化したって、急所だけは強化出来ないってことよ」

「そんな馬鹿な……」

「いいボディは手に入れたみたいだけど、人を倒す知識までは手に入れられなかったみたいね」

 ウィンクをしてみせるオヤジ。怜子はガックリとうなだれた。



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