episode7 第22話

「そういうわけだから、事情は大体分かっているわ。こっちは引き受けたから、武蔵ちゃんはナナコちゃんを頼んだわよ」

「お、おお」

 超速理解ってレベルじゃねーぞ。

 展開の速さに若干の違和感を覚えつつも、今はここから離脱することが先ケツだ。

「行くぞ!」

 ナナコの手を引いて走ろうとするも、ナナコはまだ正気を取り戻していなかった。なので、半ば強引にお姫様抱っこをしてエレベーターを目指す。

「そのまま帰すと思っているの?」

 怜子が、俺たちの前に立ちはだかるように仁王立ちしていた。

「押し通るさ」

 ナナコを抱いたままタンカを切る。

「ママには、ちょこまかと逃げ回っていた癖に、女だからって舐めていると痛い目を見るわよ」

 ニヒルな笑みを浮かべると、怜子はレスラーみたく派手に白衣を脱ぎ捨てた。スーツ姿になっても体のラインが綺麗だと分かる。引き締まったボディの持ち主のようだ。

「へっ、あんたの方こそ――」

 台詞の途中、眉間に強い衝撃を受ける。

「いってー」

 目の奥に閃光が走ったように、眩い筋が伸びて見える。目がチカチカする。焦点が定まらず、俺は何度も瞬きをした。

「何が起こったんだ?」

 どうにかこうにか視界を取り戻し、顔を上げると、怜子が俺を見下ろしていた。

 腕の中にいたはずのナナコが俺の足元で転がっている。

「言ったでしょ? 舐めると痛い目を見るって」

 ようやく俺は、自分が地面に尻もちをついているのだと気付く。そして、それをやったのが、モデルのような体型をした怜子だと理解した。

 立ち上がると、ナナコをこちらへ引き寄せて立たせてやる。フラフラと安定しないが、ナナコは何とか自立した。

「確かに、舐めていたよ」

 怜子に向き直ると、今度は油断しないようにファイティングポーズをとる。

「まだまだ、こんなものじゃないわよ。次は本気でいかせてもらうわ」

 そう言うと、怜子は眼鏡を外して上着の内ポケットに仕舞い込んだ。それから、息つく間もなくこちらへ突っ込んで来る。

 ――速い!

 一瞬でこちらまで間合いを詰めて来たかと思うと、すれ違いざまに顔面目がけてパンチが飛んできた。

 ガードしていなければ、まともに食らっていた。さっきはこれでやられたのか。俺は改めて両手で顔を覆い、しっかりと急所を隠す。

 ジャブ、ジャブ、ストレート。

 手の甲にめり込む怜子の硬い骨。

 一撃の破壊力はそれほどではないが、プロのボクサー並みの速さと手数で圧倒される。

「くそっ!」

 このまま防御に徹していてもらちが明かないと、片手のガードを解いて反撃する。と、拳を突き出した途端に、連打の雨あられ。集中豪雨が垂直ではなく水平に襲ってきているようだ。

 再びガードを固める。反撃したくても、ガードを外すわけにはいかない。

 それに、闇雲に攻撃してもおそらく通用しないだろう。蝶のように舞い蜂のように刺すと言う言葉を体現するように、フットワークも随分と軽やかだ。ガード越しに、引き締まった二本の足が美しい旋律を奏でてステップを踏んでいるのが見える。にしても随分と綺麗な足だ。

 足?

 そうか、何も怜子のスタイルに合わせる必要なんてないんだ。怜子に対抗しようと、手技ばかりに意識がいっていた。

 こちらも足を使えばあるいは……。

 不言実行とばかりに、ガードしたまま怜子の足元を蹴りつける。だが、怜子はスッと一歩後ろに下がってそれをかわした。

 当然の結果だ。

 あれだけのスピードで動けるんだ。反射神経だって並みではないだろう。回避されるのはおり込み済みだ。

 本命は、この後ろ回し蹴りだ! 俺はすかされた左足を地に付け軸として、右足を思い切り回転させて怜子のわき腹に叩きつけた。

 確かな手ごたえを感じる。

 ――やったか?

「何?」

 不動明王のように直立した怜子は、ガードする所か、俺の右足を自らのボディで受けて抱え込むと、逆に俺の無防備になっている腹へとパンチの連打を叩きこんでくる。

 怜子の体に食い込んだ右足を離して一旦引こうとするも、怜子の腕と腹は万力のように右足を挟んで離さない。

 拳が腹に突き刺さる。片手はまだ俺の足をホールドしたままなので、パンチが手打ちになってはいるが、それでも数を貰えばかなりのダメージになってしまう。

 くっ!

 耐えきれない。たまらずガードを下げる。その瞬間、

「そこよ」

 抱え込んでいた足を解放したかと思うと、怜子は見るからに腰の入ったパンチを俺の顔面に叩きこんだ。

 ツーンとワサビの塊を口に含んだみたいに、鼻の奥が痛み、目から涙が出る。

 しまった!

 とっさにガードを上げるも、今度はボディへと渾身のパンチをお見舞いされた。

 体がくの字に曲がる。

 土下座するようにひざから崩れ落ちる。

 何てこった。これでも、オヤジに一通りの格闘術は教わっているので、並みの男程度の強さなら寄せ付けない自信があったのだが、女性相手に全く歯が立たないとは……。

「全く、お話になりませんね」

 仰向けに這いつくばる俺に言い放つ怜子。

「並の遺伝子の持ち主じゃ駄目ね。話にならないわ」

「そりゃ、あんたの遺伝子は、よっぽど優れてるんだろうな……。研究所の所長にもなれる頭脳と、それだけ動ける肉体を持っているんだからな。でも、もうピークは過ぎてるんじゃないか? 歳には勝てないだろ?」

 体で勝てないなら、せめて口でと、嫌味交じりの台詞を吐き出す。

「歳? 何のことかしら?」

「年齢のこと言ってんだよ。あんたが、あの子の母親なら、少なくとも、さんじゅう――。ガハッ!」

 背中を踏みつけられ、肺が圧迫され一瞬呼吸が止まった。

「私の体は、二十歳の頃のものよ」

「あんた、まさか……。自分自身に、遺伝子操作を……」

「再生医療ってやつね。クローン実験の副産物を利用させて貰ったわ。だから、私には肉体の年齢なんか関係ないのよ。若返りついでに、メダリストの選手たちの細胞で、肉体も強化済みよ」

 グリグリと踵を背肉へと押し込む。

 ――ありがとうございます!

 何て、冗談言ってる場合じゃねえ!

 強さのカラクリはそれか……。どうりで怜子の肌は若々しくピチピチしているわけだ。それに、あの尋常ならざる強さにも合点がいった。

「それじゃあ、これは頂いていくわ」

 俺の背中から足を離すと、怜子はナナコを小脇に抱えて背を向けた。その後を追いたくても、体が言うことをきかない。

「おい! 目、覚ませ!」

 ナナコに呼びかける。立ち上がれないどころか、叫ぶだけで全身に激痛が走った。

「お前、ここに何しに来たんだよ!」

 這いつくばったまま、痛みを我慢して叫ぶ。

 しかし、ナナコは動かない。一体、どうしたと言うんだ? 怜子が現れてから、すっかり大人しくなってしまって。オヤジが言っていた、愛情なんとか症候群ってやつの影響かよ? これじゃあ、本当に魂の抜けた人形じゃないか。

「そいつのこと、殺すんじゃなかったのかよ!」

 当然のようにナナコはピクリとも反応しない。その代わりに、怜子が振り返る。

「こいつは傑作ね。そんなこと出来るわけないじゃない。創造主たる私に手をかけるなんて、天に唾するようなものよ」

 怜子の腕に力が入る。メキメキとナナコの華奢な体が悲鳴を上げて軋む。

「止めろ!」

 思い切り右手を地面に叩きつける。その反動で、痛みが全身を稲妻のように走り抜ける。

 とりわけ、胸の辺りがズキズキと痛んだ。

「だからって、何をしてもいいって言うのかよ! 何が創造主だ。その子はあんたのものじゃない!」

「ものよ。これは私が作った、“もの”でしかないわ」

 まただ。背筋が凍りつくような冷たい瞳で俺を見下ろす怜子。ともすれば、この女の方がナナコよりも人間味のないように思えて仕方がない。

「数限りない無限の遺伝子のパズルを組み立てて優秀な人間を作り出す。頭、手、胴体、足。無数のパーツを組み立てて作るロボットと同じよ」

「なっ――!」

 言葉もなかった。

「生憎とそのための材料――遺伝子サンプルは毎年入って来るしね」

 ここの生徒は優秀なDNAを持った人間が多いから楽だわと、怜子は付け加えた。

「そうか、そのために学内の健康診断を利用してるってわけかよ」

「あんなのは、ほんの一部よ。遺伝子のサンプルの入手は、この大学病院内だけじゃなくて、ここの医局全てで扱われる人間から採取しているのよ。それを使って、遺伝的に優れたものだけを抽出し、能力の高い人間だけを生み出す」

「そんなことして、種の選別でもしようって言うのかよ?」

「そう……。世界は変わる。選ばれた人間たちの世界の始まりよ。手始めに、この子を使ってあの人を取り戻す。そして、私は今度こそあの人と共に、選ばれし者の世界を作り出すのよ」

 フフフと笑ったその顔は醜い餓鬼のようだった。

「想像していなさい……。必要な者だけが生きる世界。愚かで害のある不必要な人間のいない世界を……。一流のスペシャリスト達が、競い合い、更なる高みを目指す。そうやって、世界をどんどん素晴らしいものへと変えていくのよ。最高じゃない」

「なら、その世界であんたは何者だ! 神にでもなったつもりか!」

「その通り、私は神よ。そして、これは儀式なのよ。新しい世界を生み出すためのね」

「そんなの認められるか!」

「私はあなたに認めて貰う必要も、理解して貰おうとも思わないわ。それに残念だけど、これ以上、あなたと不毛な議論を続ける気もないの。それじゃ、さよなら」

 そう言い残すと、怜子は回れ右をして、ナナオの水槽の脇。怜子が現れた場所へと足早に向かった。

「待て!」

 立ち上がって追いかけようにも、まだ完全に力が入らない。俺は何とか動かせる腕を使って、ほふく前進で怜子の後を追った。

 しかし、無情にもその距離は詰まることはなかった。

 ――行くな!

 そう叫びそうになった時。

「もー。世話が焼けるわね」

 俺の脇を颯爽と駆け抜ける一陣の風。

「どっせーい」

 気合い一発。エサに飛びつくゴリラが如く、怜子へと飛びかかるオヤジ。

 大上段から繰り出されるパンチが怜子を襲う。怜子は片手を上げてそれをガードする。しかし、完全にダメージを殺しきれず、体が大きく揺れる。体重の軽いナナコはその手を離れて宙を舞った。

「ナナコちゃんは返して貰ったわよ」

 ナナコを全身で受け止めると、オヤジは歯を見せて笑った。

「あなたは、さっきのオカマ。ママはどうしたの?」

「ああ、あなたのママなら」とオヤジは、水槽を背もたれにして気を失っているママを指した。

「ちっ、使えないわね。だから、異種交配研究なんて駄目なのよ。互いの種の個性を潰しかねない駄作だわ」

 怜子は侮蔑の眼差しをママへと向けた。

「それにしても、あなた……。ただ者じゃないわね。一体、何者なの?」

 オヤジは、ナナコをそっと脇の壁際へと座らせて、怜子へと向き直る。

「アタシは、コンドー、むな志! ただの探偵よ」

「コンドーム、なし……?」

「危険な匂いがするでしょ?」

 いぶかしげに見やる怜子に、ニヤリと口の端を上げて挑発するオヤジ。

「また、コンドーね。コンドームが二つに増えた所で何の役に立つって言うの?」

「確かにコンドームは何も生み出しはしないわ。その代りに望まれない命も生み出しはしない」

 オヤジはママを悲しげな瞳で見つめて言い放つ。

「命はね、意思なのよ。小さな命の中に沢山の喜び、希望を持って生まれてくるべきなのよ。だけど、一方で悲しいことに、憎しみや嫉妬、負の感情も生み出してしまうわ……。でも、それでも命は素晴らしいもの。奇跡みたいなものなのよ」

 迷いのない瞳。それがオヤジには確かなものがあるのだと言うことを物語っている。

「それをあなたが、そんな風に何の考えもなしに生み出し続ければ、不幸しか生み出さないわ。命ってものは、行為で悪戯に生み出されるんじゃない。命は、子は、愛をもって自らの意志で生まれてくるのよ」

「あなた……」

 オヤジの言葉に何か感じるものがあったのか、怜子はオヤジを真面目な顔で見つめる。

「あなた、一体何が言いたいの?」

 全身の力が抜け、俺はおでこを地面に打ち付けた。

 真顔で訊き返している怜子は、本当にオヤジが言いたいことが分かっていないみたいだ。

「要するに、無理が通れば道理が引っ込むってこと。大きすぎるインボーは、他人を傷つけるだけじゃなくて、自分をも傷つけてしまうのよ」

「何が陰謀よ。弱者は生き残れない。弱い者は強い者の踏み台になる。弱肉強食。これは生き物の真理よ」

「真理?」

「そこのコンドーが、あなたの子供がいい証拠よ。女の私にさえ手も足も出ない弱者じゃない。そんな人間に、生きてる価値なんてあるのかしら?」

 痛い所ついてきやがる。どんなに正しい理論でも、力なくしては説得力を持たない。例えるなら、学歴のない奴が、学歴社会を否定するのを咎められているような気分になる。

「いいえ。この子は強い子よ!」

 腹からの叫び声に、俺はうつむきかけていた顔を上げる。

「武蔵ちゃんは、オナニー野郎じゃない。あなたのような、他人の力を自分のもののようにひけらかしたりするような弱い人間じゃないわ」

 うつ伏せにダウンしている俺を見下ろす怜子に、オヤジはタンカを切った。

「全く。いつまでお寝んねしてんの。やりたい盛りなのは分かるけど、大地にまで発情してるんじゃないわよ。地球に正常位でもしているつもり? まさか、勃ってるから、立てないんじゃないでしょうね」

 プププとイヤラシク笑うオヤジ。

「うっせー。ここからの眺めを楽しんでいただけだ。だけど、やっぱ俺のタイプじゃねえな。一ミリも勃つ気配がないわ」

 わざとらしく怜子の股の間を覗きこんで、立ち上がる。まだ体は少し痛むが、オヤジの長い話のおかげで十分に休ませてもらった。何とかイケそうだ。

「確かに、似た者親子みたいね……。幼稚で、無礼で、品がなくて、最低な人種だわ」

 癇に障ったのか、怜子は眉をピクピクと苛立ちをつのらせている。

「あなたたちと同じ空気を吸っているなんて考えただけでも吐き気がするわ」

 そう言うと、怜子はスーツの内ポケットから小さな薬のようなものを取り出し、ママに向かって投げつけた。

「私が相手をするまでもない」

 錠剤はうまい具合にママの口元へ転がって行き、ママは最後の力を振り絞り、芋虫のように這いつくばって、それを口にした。

「モオオオオォォォォ――――!」

 途端、今までのダメージなんてなかったようにママは立ち上がり、怒髪天を衝く。全身の毛が逆立ち、尋常じゃなく目が血走っている。

「皆殺しよ」

 怜子の命令に、オヤジへと突進していくママ。

「何度来ても同じよ」

 オヤジはママを受け止めると、力いっぱい押し戻す。しかし、先ほどとは違い、オヤジは徐々に後退していく。

 まさか、あのオヤジがパワーで押し負けているとでも言うのか?

「さすがは、飲むドーピング剤。一粒飲めばパワーアップする魔法の錠剤よ。しかも、時間が経つほどに、その効果は倍増だから、あなたにもう勝ち目はないわ」

 怜子はそう言って、オヤジを煽る。

「フフフ。そうこなくっちゃ。いいわね。ゾクゾクするわ」

 強がりなのか何なのか分からないが、オヤジは妙に嬉しそうだ。

「にしても、あなた、いい乳してるじゃない」

 セクハラまがいの言葉を吐きながら、片方は頭部の角を、もう片方の手は胸ぐらを掴んで、ママの頭部を脇で抱え込む。そして、腰を落として力ずくで抱え上げた。逆さまにさせられ、ママは足をバタつかせている。

「この技、一度試してみたかったのよね」

 あの体勢はブレーンバスターだ。

 逆さまのまま堅いコンクリートの地面に、ドスンと脳天から落とされる巨体。

 あれは痛い。受け身も出来ず、全体重が自分のダメージとして返ってくる。重量感のあるママの悶絶ものの痛みを想像すると、ちょっと同情したくなる。

 白目をむいて、ピクリとも動かないママ。

 瞬殺かよ……。

 あの巨体を抱えるとは、全く、化け物じみた野郎だ。人間の域を越えてやがる。しかも、倒れている相手の腹目がけてエルボーで追い打ちを食らわせる。容赦ねーな。

 いきなり大技を食らわして、勝利のドヤ顔を決め込むオヤジ。

「全く、期待はずれね。アタシをあまり舐めない方がいい」

 腰に手を当てて、ガハハと笑うオヤジに、

「舐めているのは、あなたの方だわ」

 冷めた顔した怜子が指差す。

「ナニ?」

 背後からママがオヤジ目がけて突進する。虚をつかれて一瞬オヤジの反応が遅れた。

 飛び散る鮮血。

「オヤジ!」

 思わず叫び声を上げる。

「大丈夫。かすっただけよ」

 オヤジは脇を押さえて笑う。

 再び突進するママにガチンコでオヤジはぶつかった。がっぷりよつに組み合う。

 だが、今度は明らかにオヤジが押し負けている。

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