episode7 第16話
意外な結末に俺は息を飲んだ。
ブーンとキッチンの方で冷蔵庫が音を立てる。
「アタシは家族にはなれなかったのよ」
そうだ。この話がハッピーエンドなら、その人は今もオヤジの側にいるはずだ。なのに、俺は彼女を――オヤジの大切な人を知らない。
「とある事件に巻き込まれてね……。彼女はいなくなってしまったの」
弱々しい横顔。その表情は、永遠の別れを悼むものだった。
「ようやく家族になれると思っていた人と出逢えたっていうのに……。アタシはそれを失った。全てを失って目の前が真っ暗になった。もういっそ、死んでしまおうかとも思ったわ……」
オヤジは、眉間にシワを刻んで目を閉じる。
「でもね、その暗闇の中で聞こえたのよ。泣き声が。オギャーオギャーってね」
ゆっくりと開かれる瞳。
「冷たい地面の上、武蔵ちゃんは凄く泣いていた……。生きたい生きたい。俺を生かせって、うるさいくらいに叫んでた」
「何だよそれ……。ただ泣いていただけだろ」
「そうね……。でもね、アタシには確かにそう聞こえたのよ。だから、アタシは今、ここにいる。彼女を守れなかった罪滅ぼしのつもりだったのかしらね。とにかく、武蔵ちゃんを生かすためにアタシは生きた」
軽口も叩けないほど、自然と顔がこわばる。
「それから、アタシの第二の人生が始まった……。別れを悲しむ暇なんてなかった。童貞もとっくの昔に捨てたおっさんがよ、何もかもが初体験の連続で、武蔵ちゃんには悪いけど、正直何度も投げ出したくなったわ」
オヤジは冗談交じりに笑ったが、俺は笑えなかった。俺はこの人がそんなことをする人間じゃないことを知っていたから。
「いざ子育てを始めたのはいいんだけど、最初は、武蔵ちゃんが何をして欲しいか分からなかったし、自分が何をすればいいのかも分からなかった。だけど、毎日毎日分からないなりに、オシメをして、ご飯をあげていく内に何となく武蔵ちゃんの気持ちが、して欲しいこと、しちゃいけないことが分かるような気がしたわ。そうやっていく内に、気が付いたらいつの間にか武蔵ちゃんも一丁前の男になっていたのよ」
「ホント、あっという間だったわ」とオヤジは続けたけど、そんなはずなかった。
年輪のように刻まれた目じりのシワ。染めきれていない短い白髪が目に入る。それは、オヤジが長い間生きてきたという証拠で、俺をその手で育ててきたという何よりの証だった。
そうまでして、何故、何のために? 俺に何の価値があると言うのか。
この人にとって、俺とは一体何なんだろうか……。
そう思うと俺の胸はズキンと痛んだ。
痛みと共に蘇える記憶。
物心付く前の俺を抱きしめていたのは、普通の子らが知るようなふくよかな胸なんかじゃなかった。
憶えていないけど、どことなく覚えている。頭が憶えていなくても、体が覚えている。赤ん坊の頃、固い腕の中で揺られていた俺は、どこか安心感を覚えた。守られているって思えた。
そうだ。俺はこの人に育てられたんだ。
ずっと一緒にいて、当たり前のはずなのに、何故こんな大切なことを忘れていたんだ……。
「なんて顔してるのよ。武蔵ちゃんのおかげで毎日充実していたし、アタシは、いい経験をさせてもらったと感謝しているわ。子育てなんて一生出来ないと思っていたのに、それが出来たのよ。それどころか、父としての誇りと、母としての喜びを同時に得られたんだから」
その言葉に、俺はオヤジがオカマなんかをやっている理由に初めて気付けたような気がした。
「俺には守ってもらう価値なんてないのに……」
目を逸らして漏らす。
「ううん。守って貰ったのはアタシの方よ」
「何言ってんだよ。俺はあんたに何もしちゃいない……。昔も、今も……」
「あの日、武蔵ちゃんは、『生きたい』と泣いた……。そして、同時にアタシに『生きろ』って叫び続けてくれたんだと思う。あの日、あの時、武蔵ちゃんがアタシを呼んでくれなければ、アタシは今ここにはいなかったかもしれないわ」
「そんな大層なものかよ」
「でも、アタシはそう信じている。意味なんてないと思っていたアタシの人生にもう一度生きる意味をくれた。悲しみで引き裂かれた心を繋いでくれた。人としての温もりをくれた。そう……。少なくともアタシの命をこの世界に繋ぎ止めたのはあなたよ」
そう言うと、オヤジは目を細めて俺を真っ直ぐに見つめた。
「武蔵ちゃん。あなたがアタシを変えたのよ。彼女の側にいて分かりかけていたものを、あなたがはっきりと形にしてくれた……。家族をアタシにくれたのよ」
「…………」
唇がワナワナと震え、胸の奥からを熱いものが込み上げてくる。それを奥歯を噛んで締め耐え忍ぶ。
視界の向こうのオヤジが歪んで見える。世界そのものがユラユラと揺れている。
「それが今、アタシがイキている理由よ」
ニカッっと、白い歯をむき出して笑い、
「アタシは、近藤むな志。避妊の出来ない、生まれながらにして子を持つ運命なのよ。『コンドームなし』ってね」
――プッ!
堪え切れずに噴き出してしまう。
「ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ」
笑いと同時に決壊する涙腺。
何てバカなオヤジなんだ。『コンドームなし』で子供が出来たって?
そんなどうしようもなく下らない発想に、あり得ないくらい涙が溢れて止まらなかった。
自分がオヤジの本当の子供ではないと知ってから俺は涙を失っていた。その、今まで溜まりきっていた涙を流しているんだと思った。
でも、俺がいつも泣かずにいられたのは、オヤジがこうして笑わせてくれたおかげなんだと思うと、なおさら泣けて、笑えてきた。
「はぁ――、はははははははは」
腹筋も崩壊しそうだった。
「ヒュー。はぁ……。はぁ……。はぁ……。はぁ……」
酸欠で死にそうになる。
すーはーと深呼吸を繰り返して、全身に酸素を送って、自分が生きている実感を得る。
どうやら俺はまだ生きたいらしい。
背中をさすっている手に軽く触れ、大丈夫だと目元を拭う。
目から鱗が落ちると言うか、赤玉でも飛び出したように晴れやかな気持ちだ。
「ったく、締まらねーな」
照れくさくて、わざとおどけて見せる。
「誰のシマリが悪いって?」
俺の尻を叩いてニヤケ面をこちらへ向ける。
この人は俺の中にある暗闇を、底抜けの明るさで照らしてくれたんだ。
「まっ、オヤジの場合は、イキ過ぎって感じもするがな。たしかに、あんたは毎日楽しそうだ」
「そうね。でも、当然よ。こうやって、笑い合える家族が一緒なんだもの。毎日幸せよ」
オヤジは、フフフと笑った。俺も、ハハハと笑った。
こうやって、笑い合うことが出来る存在。笑いだけじゃない。オヤジが自らの恥ずべき過去を話してくれたように、自分自身の痛みや悲しみも、全てをさらけ出せる存在。何もかもを投げ打ってでもその人のために尽くしたいと思える存在。
それがこの人にとっての、家族なんだ。
そんな温かな家族に、俺はずっと守られていたんだ。
「全部、出逢いなのよ。アタシが彼女に、武蔵ちゃんに出逢えたように、家族になるべき人は、どこかにいる」
「家族になるべき人? それは家族とは違うのかよ?」
「そうね~。この広い地球、どこ捜したって家族なんて見つけられないんだと思うわ。いるのは、その候補となる人だけ……」
その視線の先には白いおむすびがあった。
「家族は捜すものじゃない……。なるものなのよ……」
二つの並んだ、いびつな形のおむすび。オヤジと、俺のもの、だけだ……。
「…………」
俺は何故かそれを寂しいと思っていた。
「だけど、あの子はどうなのかしらね。心から笑い合えるような、家族と呼べる人がいるのかしら?」
それが真実にしろ嘘にせよ、自分を人工的に生み出されたクローン人間だと言ったナナコ。自らが生きる時間を停めてまで世界を拒絶したんだ。到底、家族や絆なんて、そんなもの信じてはいないだろう。
それに、何よりあいつは笑うような奴ではない。愛情遮断症候群だか何だかのせいか分からないが、あいつには喜怒哀楽というものを一切持ち合わせていないように思える。
「肉親って言っていいのか分からないけど、自分を生んだ母を殺して、あの子の世界が変わるのかしらね……。ただ失うだけじゃないのかしら? そして、今度こそ本当に一人になってしまうんじゃないかしら」
オヤジは皿の上からおむすびを一つ取り上げると、それを大口を開けてかぶりつく。モシャモシャと口を動かす。
ゴックン――。
「おいしかったわ」
オヤジから贈られる感謝の言葉。だけど、それを伝えるべき人間はもういない。
別に俺が追い出したわけじゃないのに、何故か胸の奥がチクリと痛む。
いや、追い出すも何も、あいつは本当にここにいたのか? 互いに心を通わせるでもなく、俺たちはもともと離れていた。近くになんていなかったんだ。
「俺は最後まであいつのことなんて分からなかったんだ……」
皿の上に残された、ただ一つのおむすびが悲壮感にくれている。
「なら、これから知ればいいんじゃない? あの子が考えていたこと、これからやろうとしていることをね」
「これから知る? あいつが考えていたことを……?」
「言ったでしょ。全部出逢いだって。その出逢いを生かすも殺すも、ただの他人のままで終わらせるかどうかは自分次第なんじゃない?」
「俺、次第……」
オヤジは俺たちの出逢いを意味あるものだと言った。
けど、俺はどうだ? ナナコとの出逢いに意味を見い出したか?
いや、それどころか、今まで出逢う人出逢う人、無意味なものだと車輪を回すように、後ろへ捨てて生きてきたんじゃないだろうか? それは自分の手で、自分自身の価値を無意味にしているんじゃないのだろうか?
そうだ。俺はいつだって自分のことばかり考えて。世界を斜めから見下ろしたような気になって、分からない。見つからないと嘆くばかりで……。
俺はあいつのことを理解しようとしていたのか?
「まだきっと間に合うわ」
その言葉に、心臓がドクンと跳ねる。
俺は願っているのだろうか……。
あいつのことを……。
ナナコのことを……。
ナナコと、笑い合いたいと願っているのだろうか……。
部屋の隅には、ナナコが着ていた猫のパジャマが抜け殻のように横たわっていた。
――やっぱり、私は野良猫でいい
そう告げたナナコの想い。痛み。悲しみ。覚悟。
俺には分かるはずもなかった。
やっぱり俺は飼い猫だ。ヌクヌクと着飾り、むさぼるように食らい、怠惰に眠り続けてきた、どこにでもいるただの飼い猫だ。
俺とあいつはあまりにも違い過ぎている。そんな俺が、それを知りたいのだろうか? あいつのことを、これからあいつがやろうとしていることが、理解出来るのだろうか?
皿の上に鎮座している真っ白い米粒が、素っ気ない少女のことを思い出させる。
あの小さな手のひらで、これを握ったというのか……。一生懸命、慣れない手つきで作ったというのか……。
俺たちのために……。
その光景がうまく想像出来ず、気が付いたら、俺はそれに手を伸ばしていた。
そして、それを口に放り込み、乱暴に噛み締める。
「こんな――」
柔らかな白米を引きちぎり、噛み砕き、すり潰す。
「不味いもん――」
塩が目に染みてきやがる。
「作りやがって――」
しょっぱ過ぎてうまく飲み込めないじゃないかよ。
右頬、左頬。そして、また右頬。口の中で、おむすびをお手玉でもするように、ネチャネチャとそしゃくする。
唾液の消化酵素が白米のでんぷん質を化学反応によって糖質へと変えたのか、噛み締めるほどにそれは甘みをましていった。
口の中が、甘塩っぱい変な感じになり、俺はそれを無理やり飲み込む。
「しょっぺえな……」
しょっぺえよ――俺。
後味も最悪だ。まだ、口の中が塩辛くて、やけに喉が渇く。
コップに入った水を一気に飲み干す。だが、まだ俺は満たされず、何かを探し求めるようにズボンのポケットをまさぐる。
だが、それは見つからず。両手を思い切り奥まで突っ込む。ナニかに触れる。違う。これじゃない。
ムクムクと俺の中で大きくなるイラ勃ち。
と、スクーターの鍵が宙を舞う。
俺はそれを両手で受け止めようとしたが、ズボンのポケットに入れたままではその望みは叶わず、顔面でそれを受け止めた。
「イク、んでしょ?」
さすがはオヤジ。長い突き合い――もとい、付き合いだ。俺が考えていることは、手に取るように分かるらしい。
「勘違いすんなよな。こんな不味いもん食わせやがった奴に、一言文句言ってやんなきゃ気がすまないだけだ」
「ええ。分かってるわよ。あの子へ、ツッコミに行くんでしょ?」
塩にまみれた自身の指を、ペロリと舐めるオヤジ。
「イってらっしゃい」
手塩にかけて育てたムスコの尻を叩いて追い出す。
「イってくるぜ」
ニヤリと笑うオヤジを尻目に、俺はコンビニを一人飛び出した。
迷い猫捜しの――再開だ!
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