episode7 第15話
塩辛い口からこぼれ落ちたそれは、どこにも消化されず留まり続けた。
うつむいていると目に入って来るのは暗い影ばかり。どんなに年を重ねようと無くならない、濃く重苦しい吹き溜まり。
二人きりの薄暗いリビング。明るい蛍光灯に照らされてはいても、どうしても闇になってしまう場所がある。
影……。
陰……。
カゲ……。
「おむすび――」
オヤジが呟く。
「おむすびの漢字ってどう書くか知ってる?」
「え……」
唐突な質問にどう答えていいのか考えあぐねていると、
『お結び』
チラシの裏に達筆な文字が書きなぐられる。
「『縁結び』と同じ意味の『結び』って書くのよ」
そう言うと、オヤジはもう一度それを確かめるように、節くれ立った指でなぞる。
「人と人は、むすばれるために生きている」
「?」
俺は顔を上げてオヤジを見つめる。
「もう随分と昔の話になるんだけど、アタシにもね。大切な人がいたのよ。その人がアタシに言ってくれたのよ。『あなたはひとりじゃない。人と人は、むすばれるために生きている』ってね」
オヤジは自らの過去を探るように目を細めた。
「大切な人?」
「そっ……。アタシの初めて出来た大切な人……」
その人のことを思い出したのか、両の目じりに深いシワを刻んで、優しげに笑うオヤジ。
「武蔵ちゃんに話したことあったかしら? アタシが孤児だったって」
「いや……」
初耳だった。と言うか、そのことに限らずオヤジはほとんど自分の過去を話したがらないので、その告白にはかなり驚かされた。
「両親のいないアタシは、まるでその辺に落ちている紙屑をゴミ箱へと投げ入れるみたいにして、当然のように施設に預けられたわ。そのせいで……。なんて言い訳でしかないんだけど、かつてのアタシはいつもイラついていて、飢えたように何かを求めていた。そして、求めるが故に他人のものを奪い、傷つけてまわったわ。心も体も荒みきっていて、人の優しさや絆なんてものが信じられなかった……」
それは、今のオヤジからは想像の出来ない光景だった。いつも冗談交じりで馬鹿ばかりやっているオヤジ。そのオヤジが、そんな風に負の感情を抱いているなんて今まで思いもしなかった。
「同じ境遇のはずの、施設の子たちからも煙たがられてね……。居場所なんてどこにもなかったわ」
「うん……」
自然と俺はうなずく。その気持ちは何となく理解出来るような気がする。一人でいる時の孤独よりも、大勢の人の中にいる時の孤独の方がより深い。
「まっ、アタシの方も他人と交わるなんて煩わしいだけだったから、その方が良かったんだけどね。だから、アタシも施設にはあまり寄りつかなかったし、誰とも顔を合わせないでいいように学校が終わってもフラフラとその辺をかっ歩して、帰りはいつも深夜だった。そんな荒んだ毎日だったわ」
そんな過去の自分自身に愛想を尽かしていたと言うように、ため息を大きく一つ吐き出す。
「でもね、ある日、消灯時間が過ぎて帰って来ると、食堂のテーブルの上に置いてあるのよ。おにぎりが。飾り気のない塩むすびに、海苔で巻かれたもの、カラフルなふりかけをまぶしたおにぎりがね。アタシのためのものだって思ったわ。深夜に帰って来るのなんてアタシしかいなかったからね。それで、おにぎりは、次の日も、そのまた次の日も。けな気に用意してあるのよ。だけど、アタシは、絶対食べるかって。そう決めていたはずなんだけどね」
俺は何も言わず相づちを打った。
「そんな不毛な日が続いて、いつだったか他校の生徒とケンカになって、ボコボコにやられて帰った日。いつもは素通りしていたんだけど、その日だけは色々と弱気になっていたのか気が付いたら、テーブルの上のおにぎりに手を伸ばしていたの。で、口の中に入れたはいいけど、切った傷口に染みるのよ、塩が」
思い出したようにオヤジは噴き出す。「ホント、あり得ないくらい痛かったのよ」と、目に涙を溜めて笑った。
「でもね。痛み以上に、そのおにぎりはおいしかったの。冷めているはずなのに、何故かそのおにぎりは炊きたての白米で作ったみたいに口の中で熱く思えた。カアアアっと胸の奥から何かが込み上げて来て、自分の意思なんて無関係に頬を涙を伝っていたの。それで、そのおにぎりを誰が用意しているのか気になって、次の日隠れて見ていたら、消灯時間ぎりぎりになって彼女が現れた……」
「どんな子だったんだよ?」
「何の変哲もないただの女の子。小さくて地味で、別に綺麗でも可愛くもない顔で、胸なんて服の上から見て少し膨らみがあるだけの、多分次会っても見分けのつかないような、ただの女の子だったわ」
ふ~ん。それにしては、よく見ているんだな。
「でね。アタシ、おにぎりを作ってる理由を訊いたのよ。そしたら、『人は食べなければ生きてはいけないから』って笑いながらはぐらかして、またおにぎりを作ってくれたのよ」
オヤジは喋り過ぎて喉が渇いたのか、俺と自分用に、グラスへと水を入れてテーブルへ置き、自らのために注いだ水を一気に飲み干した。
「かぶりつくと、アツアツのおにぎりでね、やっぱりおいしかったわ。アタシはいつも独りで冷たいご飯ばかり食べていたから、なおさらそう思えたのかもね。だから、つい、『おいしい』って口にしてた。そしたらね、彼女ね。『ありがとう』だって……。お礼を言わなきゃいけないのはこっちの方なのにね。それから、何が面白いのか分からないけど、おにぎりを食べているアタシを見ながら笑っていたわ」
気を許しているのか、その表情は和らいで見えた。
「それでその子のこと、好きになったってわけか?」
「まさかぁ! アタシはそんな軽い女じゃないわよ」
「はいはい」
肩をすくめて呆れる。
「そりゃ、もちろん多少感謝はしていたけど、彼女はアタシとは違う世界の人間よ。目立つようなタイプじゃなかったけど、誰にでも優しく人当たりも良くて、きっとどこかの誰かと幸せを掴むことの出来る人間。そうやって、いつか本当の家族に巡り会える人だって思っていたからね……」
オヤジは手の中の、空っぽのグラスを凝視した。
「だけど、アタシは違う。アタシにはアタシだけだった。自分の力しか信じられなかった。だから誰にも頼らず、誰からも頼られず、高校を出たらそんな仕事がしたくて警察官になることを決めた。当時からやっかいになっていた清水さんの勧めもあったのだろうけど、とりあえず体を動かしていればウサも晴らせると思ったしね」
違う世界の人間……か……。
そうだ。この世界には二種類の人間がいる。幸せになれる人間と、幸せにはなれない人間だ。そして、オヤジは自分自身を後者だと思っていたのだろう。いや、オヤジだけじゃない。俺も、そして、もしかすると、ナナコもそんな風に思っているのかもしれない……。
「結局、アタシはただ家族というものを捨てたくて警察官になった。だけど、試験にパスして、警察学校に押し込められて不自由な生活を送る内に、色々と溜まっていたのかしら。何だか無性に彼女のおにぎりが食べたくなってね。生憎と彼女は頼みもしないのに、手紙をくれていたから住所は知っていたしね」
と言うか、オヤジは元警察官だったのか? なるほど、それで直ぐに釈放されるのか……。しかし、このオカマがあの制服を着て勤務をしていたとは、何だか想像出来ないな。
「けど、わざわざ手紙をくれるなんて、愛されてるな」
「そんなわけないじゃない。彼女はそういう人なのよ。施設で出会った人全てに連絡をしていただけだって思ったわよ」
「だけど、もしかしたら……。なんて考えただろ?」
「鋭いわね。まさにその通りで、何だか無性に気になってね。で、一度気になりだしたらもういてもたってもいられなくなって、警察学校を卒業したその日に深夜バスに飛び乗って彼女の所に駆け付けたってわけ」
そんな手垢のついた青春ドラマの主人公のようなオヤジを想像して、ニヤケてしまう。
「彼女の部屋には大量のおにぎりが準備してあって、アタシはそれを食べまくった。で、『やっぱりお前のおにぎりが一番美味しい』って言ってやったわ。そしたら言うのよ、『おにぎりじゃないよ。おむすびだよって。これは、『お結び』で誰かと誰かを繋ぐ縁結びなんだよ』って」
「おむすび……?」
「そう……。このおむすびこそが、彼女にとっての絆だったのよ。いなくなってしまった両親とのね……」
テーブルの上の白いおにぎりが、照明に反射してキラキラと輝く。
「彼女の両親は共働き、二人とも同じ職場で、帰りはいつも深夜。その両親のために、幼かった彼女は毎日おむすびを作っていたんだって。その日も、彼女はおむすびを作ってその帰りを待っていた。けど、両親は帰って来なかった……」
声のトーンを変え、オヤジは話を続けた。
「交通事故、だったそうよ。酔っ払い運転の車と正面衝突。そして、彼女は天涯孤独の身になってしまった」
死別……か……。
そうか、それで心にぽっかりと穴が開いたその人は、もう帰らぬ両親のため、オヤジにおむすびを作っていたのか……。
「亡くなったお父さんに似ているんだって。このアタシが。お兄さんとかお姉さんじゃなくて父親よ。アタシはそんなに老けてないって怒ったわよ……。そして、気が付いた。怒るってことは、自分が彼女に認められたがっているんだってね……」
確かにそうだろう。本当に興味のない人へは、喜怒哀楽の感情は向かないものだ。やっぱり、オヤジはその人を意識していたんだ。
「だけど、彼女は、『ごめ~ん』って謝りながら、怒ったアタシの顔を見て言うのよ。『やっぱり似てないね』って」
フッっと、自嘲気味な笑いが紅を引いた口から漏れる。
「アタシと言う人間はたしかにここにいるのに、アタシはどこにもいなかった」
整えられた両の眉尻が左右に上がる。
「自分自身が見えなかった。特にやりたいこともなく、ぼんやりとした形のない自分。そんな自分の将来なんて到底信じられなくて、アタシは孤独だったのよ。だから、あの頃のアタシは何かにイラついて、あてもなく自分自身を見つけようとしていた。だけど、毎日喧嘩に明けくれても、施設を出ても、就職して社会に出てみても、結局は見つからずじまいだったわ」
「オヤジ……」
それは俺が初めて見る、男の顔をしたオヤジだった。
本当の顔を隠すように塗りたくられた化粧が、今の俺には何だか物悲しく映る。どんなに手入れをしようとも、アゴ先に伸びたヒゲだけは覆い隠せないでいた。
「でもね、彼女はすぐにこう付け足したわ。『あなたは、あなたね』って。アタシの口元に付いた米粒を取りながら、そう言ったのよ」
オヤジは、じいーっと俺の目を見つめていた。
「白米を口にふくんで微笑む彼女の瞳の中、アタシはアタシを見つけた……。心底楽しそうに笑うアタシを、ずっと捜していた本当の自分自身をね……」
恐る恐るその瞳を覗き込む。
「もしかしたら、彼女が見ているアタシは父親の影を重ねたアタシだったのかもしれない。でもね。それでもいいって思えた。アタシにとっては偽物でも、彼女にとっては本物のアタシだから……。そしたら、何だかね。笑えて笑えて、泣けてきた。アタシは何にこだわっていたんだろうって。自分が手に入れたい答えはこんなに近くにあったんだって」
俺の瞳に映ったオヤジは、目をキラキラさせながら顔をほころばせていた。
「アタシは自分ばかりを見過ぎて他人を見ようとしないどころか、そのせいで自分自身がいつの間にか、誰の目にも映らない透明人間になっていたのね。もしかしたら、彼女はそれを伝えたかったのかもしれない。アタシは独りじゃないって、こんなアタシの帰りを待っている人がいるんだって……」
そう言ったオヤジの顔は、俺が知っているいつもの表情だった。
「で、気が付いたら言ってた。好きだって、お前とひとつになりたいってね」
いやいや、それはいくらなんでも飛躍し過ぎじゃないのか?
ど直球な恋愛観に辟易する。
「そう言葉にしてみたら、なーんか気が抜けたって言うか、ある意味覚悟出来たって言うのかしら」
「覚悟? 何の?」
「男の子にとって大切なものを捨てる覚悟」
大真面目な顔をしてそう言い放つオヤジ。
「ひとりでなくなる覚悟。彼女を守る覚悟。そして、家族になる覚悟……かな?」
「そっか」
自然と頬がゆるむ。オヤジにも掴めたんだ。幸せが、家族が……。そう思うと何だか、自分のことのように嬉しく思えた。
「だけど、アタシは彼女を守れなかった」
「え……」
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