episode7 第6話

 歓迎会、翌朝。

 カーテン越しに差し込む日差しに俺は目を覚ました。

 寝ぼけまなこに映る薄汚れた天井。

 この家で過ごしてきて十八年。見慣れたはずの景色のはずなのに、俺はいまだに自分がどこにいるのか分からない。

 四角く狭い部屋に寝そべり天を仰ぐ男が一人。

 フワフワと現実味はなく、自分がこの世界にひとりなんじゃないかと錯覚してしまう。

 ――トントントン。

 だが、すぐにそうではないのだと気が付く。

 ――トントントン。

 規則正しいリズムが耳に響く。微かに聞こえる、包丁がまな板を叩く音。味噌汁の香ばしい匂いが、脳を活性化させる。

「ふぅ~」

 溜まっていたものを大きく吐き出して、目覚まし時計に手を伸ばす。

 八時前か……。

「そろそろ起きるか」

 誰に聞かせるともなく呟くと、俺はベッドから飛び出した。



「おはよう」

 寝癖のついた頭をかきながら、キッチンに立つ背中に声をかける。

「あら、武蔵ちゃん。おはよう。昨日はよく眠れた?」

 エプロン姿のオヤジが振り返る。

「ああ。お陰さまで」

 テーブルには既に、食パン、ベーコンエッグに、バナナが用意されていた。

「おっ、早速バナナが用意してあるじゃん」

「まあねん。昨夜は失敗しちゃったからね。だけど、最近の子供の好きなものって分からないものね。手巻きだと、自分で具材を選べるから、いいと思ったんだけどね」

 確かに、昔に比べると、多種多様な食べ物があるがゆえ趣味嗜好は人によって様々で、難しい時代になったのかもしれない。一昔前なら、ハンバーグとか、カレーでも用意していればOKだったんだろうけど、今のガキんちょは色々と好みがうるさそうだ。

「その点、武蔵ちゃんは、何でも食べたからそんな苦労しなくても良かったわ~。ホント、あの頃は、素直だったんだけどね~」

 遠くを見つめてしみじみと呟くオヤジ。

「悪かったな。ひねくれまくって」

「あら、そんな意味で言ったんじゃないのよ」

 ホホホとオヤジは、笑って誤魔化す。

「それよりも、ナナコちゃん。そろそろ起こしてきてくれる?」

「俺が? なんで?」

「そうよ。あんたが行かなくちゃ誰がやるのよ。アタシは今忙しいのよ」

 味噌汁をかき交ぜて、忙しさをアピールするオヤジ。

「ったく」と、ため息を吐きながらも、仕方がないので俺はそれに従う。

 リビングを出て、あの子が寝ているであろう客間の扉の前で、一旦立ち止まる。

 トントン――。

 控え目なノック音。だけど、反応がない。

 トントン――。

 ちょっと強めに扉を叩く。やはり反応はなかった。

「…………」

 跳ねた後ろ髪を掻いて、「入るぞ~」と、俺はおそるおそる扉を開いて部屋へと侵入する。

 と、その瞬間、ギョロリと白い目がこちらをとらえる。

 布団の中、真っ直ぐに仰向けになっている少女。顔をこちらに向けず、目だけを俺へと向けているので、何だか怖い。

「よ、よう。起きてたか?」

 枕を覆い隠していた長い髪の毛が前後に揺れる。

「そろそろ朝食だから起きて来いってさ」

 ナナコが、むっくりと上半身を起こす。

『漢(おとこ)!!』と胸に刻まれたトレーナーが、その華奢な体に全く合っていない。

 ボリュームのある黒髪がもっさりと顔にまとわりついて鬱陶しいのか、首を左右に振ってそれを振りきる。すると、どうしたことか、さっきまで跳ねていた髪の毛が、形状記憶合金のように納まりよく、ナナコの頭にフィットした。

「何?」

 首をかしげた拍子に、前髪がおでこの上を滑る。

「あ、ああ。朝食の用意が出来たから。呼びにきたんだよ。それじゃ、リビングで待ってるから」

 俺は言いたいことだけ伝えると、逃げるように部屋をあとにした。



「おはよ、ナナコちゃん」

 のっそりとのれんをくぐって顔を出すナナコに、いち早くオヤジが声をかける。

 俺も読んでいた新聞を畳んで――。

 げっ!

 さっきは分からなかったが、ナナコはトレーナーしか着ていなかった。そのせいで、肉づきに乏しい白い太ももが露わになっている。

「オヤジ、下は!」

「下?」

 自らの股間を凝視するオヤジ。

「おお。今日も元気よ」

「この子のだよ!」

 俺はナナコの下腹部を見ずに、指し示す。

「ああ。そっち?」

 そっちだよ。誰がおっさんの下半身の話なんてするかよ。

「アタシのズボンじゃ、ちょーと大きくてね」

 何が、『ちょっと』だ。変な見栄張ってないで、何とかしろよ。

「いいじゃない、大切な部分は隠れてるんだから。それに、家族なんだし、仮にパンツくらい見えたって別にいいでしょ? 春のパン祭りならぬ、パンツ祭りってね。サービスサービス」

「何のサービスだよ! シールでも付いてんのかよ!」

 それでいいのかと当の本人を見ると、特に気にすることもなく、テーブルの上のバナナに視線が注がれていた。

「ナナコちゃんには、特別に、『D○le』シールがついたやつ、食べていいわよ」

 オヤジのそこ言葉に、ピクリとナナコの眉が動いた。

 チン――!

 トースターが、音を立てて、こんがりトーストを吐き出す。

「あら。丁度いいタイミング。パンも焼けたみたいだから、朝食にしましょうか」

 オヤジは、パンにバターを塗り塗り。

 ナナコは、バナナを剥き剥き。

 各々、朝食を摂りながら談笑する。

「何だって? 他に着る服がない?」

「う~ん。パンツやシャツはコンビニにあるやつで何とかなったけど、服に関しては失念していたわ」

 ペロっと下を出しておどけるオヤジ。

「でも、まあ、その件に関しては今日中になんとかするから大丈夫よ。問題ないわ」

「問題ないって……」

 そりゃ、あんたはいいかもしれないがと、当の本人はどうなんだと、そちらを見た。

「ごめんね。ナナコちゃん。今日はちょっと不便だけど、我慢してね?」

 コクリ――。

 ナナコがわずかにうなずく。

 う~ん。この子は何でも受け入れる傾向にあるらしい。

「だから、二人で猫捜しに行ってらっしゃい」

「はい?」

「猫捜し。まだ見つかってないんでしょ? 丁度いいから、二人でイってらっしゃいよ」

「丁度いいって、何でそうなるんだよ?」

 いやいや、意味が分からないから。



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