第十九話 はぐれものたち
―――穢れすら、日の前では稚児と同じなり。日光の化身が岩戸開け、眼にやき付け照覧あれ。
「神儀一蹴、金烏来光!」
すさまじい光が岩の中を照らす。それらは岩戸でも押しとどめられず、ついには厚い岩を突き抜けた。
天照大御神が叫ぶ。
「行け! 人の子よ。かましてやれ!」
「はいっ!」
砂埃が晴れるのを待つことなく転げ出る。目の前は一寸先すら見ることのできない暗闇だった。
地面を蹴る。それだけで体が飛ぶように動く。
「にお、う。におうぞ。にんげんの、じょうとうなちのにおい」
「ああ、くおう。くってしまおう」
「ゆびをはじからかじってしまおう。のこったあたまもだいじにたべよう」
もちろんタダで行けるなんてことは思っていない。今にも体に触れようとする悪鬼の手を潜り抜け、彼女からもらった物を後ろに放る。
「今は構ってる暇なんてないのっ!」
それは竹の櫛。国を作り神を産み、そして黄泉の国から逃げ帰った最初の神。彼が逃げる際に使ったとされるもの。
からんからんと落ちた竹の櫛は瞬く間に筍へと変わる。悪鬼は突然目の前に生えた筍に夢中でかぶり付いた。
後ろを振り返らずに、そのまま走る。走る。走る。
感じるのだ。向こうからか細い神様の気配。私をずっと守ろうとしてくれていた不器用で退屈嫌いの神様。
今にも途切れそうな気配を必死にかき集め、私は彼の名前を口にする。
瞬間、切れそうな糸が急激に息を吹き返すのが分かった。
※※※
「………なんで」
呆然としている神様の姿は私が出会った頃よりも小さく、私が初めて見た時と同じ蛇の姿をしていた。白い鱗は黒く浸食され、呼吸は荒い。今にも消えてしまいそうな痛々しさ。
彼を捕らえたままの禍津日神は、一瞬呆気にとられながらも私を笑う。「今さらなんのようだ」と、そう言いたいのだ。ただの少し力が強いだけの人間が一体何をできるのか。
そうだ、何もできないだろう。神と言う力の前に人間はすべからく無力だ。
だけど、だから何もしないという理由にはならない。だって私は今猛烈に怒っている。勝手に私に忘れさせた神様に、神様を傷つけた禍津日神に。
そして何より、今までずっと自分なんていらないと思い続けていた自分自身。
何がいらない存在だからだ。何が仕方がないだ。ずっとずっと、私は神様の愛を受けていた。ずっと生かされていた。
自分一人じゃない。私は守ってもらっていたのに。
彼らに向かって振りかぶる。
「水月を、離せぇぇぇぇぇぇぇぇっ‼」
私の手から離れた球体はまっすぐに怒りのまま禍津日神に吸い込まれるようにしてぶつかる。もちろん物を投げただけで倒れるほど私の肩は強くない。だが、投げたものが重要なのだ。
「ぐっ―――っ⁈」
せせら笑うかのような表情が崩れ、水月を戒めていた拘束が緩む。そこから滑り落ちるように蛇が抜け出すのと、禍津日神が膝をつくのは同時だった。
「なんだ、何故お前がこんなものッ!」
「正直半信半疑だったんですけど本当に効くんですね! 桃って!」
そう、桃。これももらった物の一つだ。黄泉の国から押し寄せた軍勢を蹴散らした退魔の実。果物を投げるのはどうなんだとか思ったけれどばっちり効いたようだ。
地面に横たわったままの水月を抱えながら、悶え苦しむ禍津日神を見て思う。
「どうして、ここに。……しかもその力。もしかして術が」
「神様。私、すごく怒ってるので」
「は、はい?」
確かに守るためだったのかもしれない。事実私はこの年まで妖怪にも神様にも襲われずに生きてこれたのだから。
だがそれとこれとは話が別だ。にっこりと笑みを向けながら私は神様に言う。
「ここを出たらたーっぷりお話しましょうね。ええ」
「………ひょっとして本気で怒ってる?」
「久しぶりです。ここまで怒ったの。水月に追いかけまわされた時以来かも」
記憶が戻ったことを確信したのか、蛇の目から涙が落ちる。顔をしとどに濡らしながらも彼は何度も「ごめん」と言い続けた。
ぐったりとした体を持ち上げながら私は言う。ずっと言えなかったことをだ。
「私は、忘れたくなかったんですよ」
「うん」
「なのに水月は私のため私のためって。私に何も言わないで」
「……ごめん」
「すごく怒ってます。でも、感謝もしてるんです」
ずっと守ってくれて、愛してくれてありがとう。諦めないでくれてありがとう。
少し気恥ずかしい言葉を言えば、感極まったように蛇の尾が私の銅を締め上げる。
「あいだだだだっ! 締まって、水月、締まってる……っ!」
「僕、そんな、こと言われる価値なんて、ない」
一度君を手放した。間違った選択であの頃の君を壊してしまった。彼はそう言ってまた泣いた。暗闇の中で反射した雫が手の甲を濡らしていく。
「君から、いろいろなものを、取り上げてしまった」
「……結果としてはそうなのかもしれません」
確かに辛い思いはした。急に胸にぽっかりと穴が開いたようになり、幼いころを共にした理解者を無くした。力の目覚めは私から普通を奪い、友を奪った。
無視もされたし幻滅もされた。けれどそれは水月のせいじゃない。抵抗を諦めた、目指すことすら諦めてしまった私の責だから。
少し強引抱けれど、彼だって守ろうと必死だったのだ。
「だけど! 怒ってはいますからね! ……だから、ちゃんと戻ろう」
「――――――」
「私のためにどうなってもいいなんて、そんなこと二度と思わないで」
力を籠める。何度も使った浄化の力はもう息を吸うように使うことができた。穢れを外へ押し流す。ざあっと押し出す様な感覚と共に彼の身の内から黒いものが飛び出していった。
とりあえず動けるようにはなっただろう。だから今は、できることをするだけだ。
「あぁっ、ぐ、そぅっ! 人間‼」
もだえ苦しむ中、ゆっくりと禍津日神は身を起こし始めていた。
※※※
「水月」
「分かってる」
ゆっくりと人の姿へと変じながら水月は目の前を見据え、手を伸ばす。手のひらの上にボール状の水が一つ浮かんだと思えば、その数は瞬く間に増えていく。
「殺しちゃ駄目。ごめん、わがままかもしれないけど、二人とも引っ張り出したい」
「了解。うまい具合に拘束するさ」
目を閉じる。途端に咆哮が上がった。
「ああ、お前はいいよなあ。裏切っても見捨てても、最後には必要とされるんだからさぁっ!」
「妬いてもいいぞ。寂しがりが」
弾けるような水の音に、それをかいくぐって距離を詰める足音。私の鼻先を霞めた手はばちんという音と一緒に遠のいた。水の匂いがする。甘く湿らせる水の匂い。それらを一気に吸い込んで、私は意識を集中させた。
真っ暗な中に手を入れる。意識を滑り込ませていく。
意識がだんだんと遠のいていく中、別の声が私の耳をうった。
「――――んで、拙は」
彼が言っていた。「月読はずっと目の前にいる」という言葉。あれは決して間違ってはいなかった。確かに中身は禍津日神に違いないが、その奥にもう一つ魂がある。
前も後ろも分からないような暗闇の中、彼はうずくまっていた。ぼんやりと、その周囲だけを月の光が照らしている。
「月読さん、ですよね」
「――――――………」
「迎えに来たんです」
私の声に反応したように彼が顔を上げる。その目は虚ろで何も映してはいなかった。近づいても身じろぎ一つしない。ただぼうっと月を眺めている。
「帰りましょう。お姉さん、心配してましたよ」
「………拙は、いい」
ぼんやりとした口調だった。悲しんでいるようにも泣いているようにも見える表情のまま、月読さんは私を拒む。
ぎゅうっと握りこぶしに力をいれたまま、彼は動かなかった。
「どうしてか、聞いてもいいですか?」
「………だって、拙は、いらない。どうでもいい、神だ」
月読さんはぽつりぽつりとつぶやくように話し始める。それは私に聞かせると言うよりも独り言に近かった。
「拙、は。忘れられる。姉様も、弟も。二人とも輝かしくてりっぱなのに」
夜は人々が恐れる時間だ。太陽は必要かもしれない。だが月はどうだろうか。
自分が歩けば夜が付きまとう。姉の太陽を覆い隠す存在。
逸話のない自分は影が薄く、忘れられる。そこにいるのに透明になってしまったように、誰も月読命に気づかない。
それはまるで輝かしい光故にできてしまった影のように、月読はいつも彼らの影に立つ存在だった。
だから彼は思ったのだという。
「拙は、いてもいなくても、同じなんだ」
ころりころりと、球状の涙があふれていく。雫が頬を伝い落ち、月の光を内包したように光った。表情を全く変えないまま、彼は「けれど」と続ける。
「拙と同じ奴がいた」
「それが、禍津日神なんですね」
穢れから産まれた神と、夜を司る闇の中の神。災いを呼ぶ神は必要とされず、力に固執し現世へ侵食しようとした罰で閉じ込められていた。
禍津日神は彼に言う。「いらないならくれよ」と。
月読命はその言葉に素直な嬉しさを感じていた。自分を見て話してくれる嬉しさ。こうして彼は姿かたちを持たぬ禍津日神へ体を明け渡した。その時に禍津日神の気持ちが分かったのだと彼は言う。
「あいつは、居場所をほしがっていた」
必要とされない神同士は惹かれあい、月読さんは自身の体の中で息をひそめているのだと言う。
放っておいてくれと彼は言った。けれど私は引き下がるわけにはいかない。彼を待っている神様がいると知っているから。
「本当にいなくても同じだと思いますか?」
「現に、拙の中身が変わっても誰も気にも留めなかった」
「でもあなたのお姉さんは違った」
ぴくり、と肩が動く。最高位の神でありながら彼の姉は、月読さんの中身が違うことに気づいて、怒っていた。
「聞こえていましたか。弟をどうしたって、怒ってる声が」
「………」
「私思うんですよ。どうでもいいと思っていることに、怒ることはできないって」
本当にどうでもいいのなら、感情を動かさずに放っておけばいい。けれど彼女はそれをしなかった。
「それに私は月読さんは必要だと思います」
「……同情か?」
「確かに夜は暗くて怖いし、太陽のように照らし活気づけることは難しいかもしれない」
けれど夜は必要だ。夜に危ないものが騒ぎ立つのなら、夜を治める彼はいなくてはならない存在だ。
「夜があるからみんな休めるんですよ。明るい昼間との区別をつけて、生きていくことができる」
安息の闇。夜は深く恐ろしいこともあるだろう。けれどそれと同じくらい必要なんだ。夜が来るから眠る。暗闇があるから目を閉じれる。
「だって、ずっと明るいなんて疲れちゃうじゃないですか」
昼の賑わいがあるように、静かな夜は皆の心を休める。静けさに身をゆだねることができるのだ。私はこちらを見つめる夜の化身に重ねて言った。
「私は夜も、あなたも必要ないなんて思えません」
「拙、拙、は――――」
「少なくとも一人、あなたを待っている神様を私は知っています」
戻りましょう。そう続ければ彼の手が恐る恐る手を取った。と、同時に中から引っ張り上げられる感触がした。
※※※
「水月、でたよ!」
はじき出されるように意識が体に戻ってくる。見ればぐったりと横たわる月読さんの隣に黒い塊が這いずっていた。
「禍津日、いい加減っ、大人しくしろ!」
「――――なんで、なんでなんで! どうして俺の邪魔をするっ!」
水がすかさずとらえようとするものの、塊は悲鳴のような声を上げながらそれをかいくぐった。
どうして、なんで。そればかりが積もっていく。
「昔に戻るだけだ! 神の力が満ちた昔に戻るだけだ。それのどこがいけないんだ」
「生憎僕は前みたいなややこしい神の寄せ鍋みたいな世界より、今のほどほどに引っ込んでる世界が好きなんだよ。お前の好みは知らないけどさ」
「何がいけない、力が戻るのは嬉しいだろう? なら―――」
懇願するような言葉の、続きを私は知っている。
「昔のように穢れも神もごちゃまぜの世界になれば、居られるからですか」
「――――――は」
「あなたが本当に欲しいのは力じゃない。居場所です」
居場所を欲しがっていたと、月読さんは言っていた。禍津日神は災いを呼ぶ神だ。許されない、とまでいかずとも多分待遇はそこまで良いものではないのかもしれない。
「いてもいい場所が欲しかった。他の神様のように存在したかった」
「………」
「だから神の世を作ろうとした。妖怪が溢れ、神様が以前のように力を持つことができれば、そこでなら違和感なく存在できるかもしれないと」
以前の力が戻ると分かれば賛成する神もいるかもしれない。だから「力が戻る」を謳い文句に他の神も巻き込もうとしたのだろう。
妖怪をより強くするために私を餌としてばらまき、神として確固たる存在を保つために巫女を欲した。
それもこれもすべて、自分が居てもいい世界のため。
「………だから、なんだ。俺が居場所を求めて何が悪い!」
「………」
「人間に分るものか! そこの神に分るものか! 居場所のあるお前たちが俺のことなど分るものか‼」
血を吐くようなざらついた叫び。自らにひびを入れるように吐き出された言葉は重く冷たい。
「災いの神だから、穢れから生まれたから。どいつもこいつも俺を見下す。見下して、見ないふりをする」
どうせ、どうせ俺の後に生まれた神も俺を忌み嫌っている。だからここに閉じ込めたんだ。
そう言って怒る声は、何故か泣きべそをかいている子どもの声に聞こえた。
「ああ、でも俺は今度こそ消されるんだろうな」
「そんなことは―――」
「あの女神がやりそうなことだ。そうだ、俺はこの世界にいてはいけない汚点だから」
まるで自分に言い聞かせるように、彼は繰り返し呟く。耳を自ら塞いで何も聞こえないようにしている姿を見て思う。この神様も諦めてしまったんだと。相手への期待も周りへの期待も。自分自身も、諦めてしまった。周りも自分も変わることができないから無理やり居場所を作ろうとした。
「それなら、何もせずに消えるくらいなら――」
「っ、駄目だ!」
最後の力で飛び上がった禍津日神が私に迫る。霊気から力を得ようとしているのだろう。水月が間に入ろうとした瞬間だった。
「水のぉっ! 投げい!」
暗闇にぱっと灯る炎。オレンジのそれは目に鮮やかに焼き付いた。
その声に何かを察したのか水月は飛び込んできた禍津日神を鷲掴み、炎の方向へとぶん投げる。
「っしゃあ! 捕まえた! おいツクモ、とっとと例の縄よこさんか」
「はいはい分かってますよ。ああもうあたしだって体調は良くないんですから」
ツクモさんと、烈火の声だ。思わずそちらに目を向ければ烈火があの神封じの縄でぐるぐる巻きにした禍津日神を抱えている姿があった。ツクモさんも後ろにいる。
ようやく、終わったんだ。
その安堵にぺたんと座り込んでしまう。その時、声が聞こえた。
「……ああ、どうせ俺は居場所なんて求めるべきじゃなかったってことだろ、なあ」
諦めの混ざった声。彼はまた、その形で無理やり納得させようとしているのだろう。そうやって自分を守ってきたのだろう。
けれどその諦めはいずれ自らを雁字搦めにするのだと、私は良く知っている。
「別にあなたは悪くない。誰だって居場所は欲しいものだから」
「――――――」
「ただやり方が乱暴すぎただけなんです」
世界ごと作り替えると言うやり方は、ひょっとしたら何百と言う犠牲を孕んでいる。だから抵抗されるのだ。
「あなたは居場所が欲しいと声を上げて、相手の声を聞けばよかった」
そうすれば誰が手を伸ばしてくれるか分かったのだ。そうすれば、今と違った結末があったかもしれない。
「なんだ、それ。そんなことが簡単にできりゃあな、苦労なんてしないんだ」
「そうかもしれません。でも、やってみるまでは分からないんです」
やらなかったらゼロはいつまでもゼロのまま。何かを始めることでようやく一に到達できるのだから。
私はそれを隠世に教えてもらった。
禍津日神はそれっきり黙ったままだ。どっと押し寄せる疲れの中、私は水月に笑顔を向ける。
「大変だったね。残された神様も回収して早く帰ろ――――」
どさり、と。後ろから音がした。
「………水月?」
黄泉平坂の上で彼はピクリとも動かずに、姿は蛇へと戻っていく。周りで聞こえる音を向こう側のように感じていたら、一際大きな悲鳴が耳をつんざいた。
ああ、これは私の声だ。
嫌だ、と叫ぶ私の声は一人残された子どものようで、触れた彼の恐ろしいほどの冷たさに泣き声は大きくなり闇の中へと吸い込まれていく。
ツクモさんと烈火が傍に来るまで、私は白い蛇に縋り付いていた。
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