幕間 蛇は幸せを願っていた
白い蛇は退屈していた。
水蛇という神の一席に座し、水を思うままに操りながら人々から水神様と崇め奉られる。田に水を流し雨を呼び、機嫌がよければありえないところから水を沸かせる。
蛇は悠々自適な生活をしていた。そこそこいい
それは快適な生活だった。誰が見ても順風満帆な神生活を送っていた。
「………あー、暇だ」
酷く退屈なことを除いて。
※※※
神はふつう見えない。人間の目には特に。
どんなに信心深くとも適正が無ければ見ることは叶わない。霊気が潤沢にある人間なんてそうはいない。なのでもちろんこの蛇が見える人間はいなかった。子どもは時折ぼんやりとこちらを捕らえるが、それでも時と共に褪せていく。
白蛇は大木のような胴で器用にとぐろを巻きながら、日がな一日眠っていた。参拝者はよく来たし、貢物は多く神社はいつも清潔だった。けれど彼を見る人間はいない。
なので蛇は今日も目を気にせずに仕事を片手間にこなしていた。
「水神様。この村は何日も雨が降っておりませぬ」
「あーはいはい。適当な雨雲引っ張っとくから」
「水神様。川が氾濫してしまって」
「やべ、ちょっと降らせすぎたかな。止めとくからすぐ上がるよ」
「水神様。井戸の水が」
「そりゃ掘るとこ変えれば……あ、その魚全部くれんの。おっしじゃあ気合い入れるわ」
話しても返事が返ってくるわけもないのに適当に相槌を打ち、水を操る日々。四季は色とりどりの花で彼を楽しませた。参拝者は彼を敬ってくれた。巫女たちも神主も信心深く、手入れをしてくれた。
それでも見える人間はいなかった。
蛇は神だが神とそりが合わない。神々特有の責任感や「しっかりしろ」といった眼差しが鬱陶しくてたまらなかった。蛇にとって高天原とは四角四面に物事をこなしていくだけのお堅い集団としか映らなかったのだ。
しかしその分彼は人間を好んだ。自らを敬うからなどの理由でなく、人間の生活や文化に営みと工夫。神々ではありえない日々を生きていく短い寿命の中笑って泣いて怒って、目まぐるしくも楽し気な人間を見ているのは蛇にとって数少ない退屈しのぎだったのだ。
彼らともし話せたのならそれは素晴らしい退屈しのぎだ、と彼は考える。自分の姿に驚くだろうか。もし口を目の前で開けてやったら腰を抜かすだろうか。そんなことばかり考えて、現実になることもなく日々が過ぎていく。
けれどそれが突然変わったのは、ある子どもを見つけた時だった。
「いたい、いたいよぅ……」
子どもの泣き声で目が覚めたのはうららかな春の日。参拝者は減り、小さな家でなく大型の箱がいくつも生え始めたころだ。日のあたる神社の屋根でいつものように昼寝にいそしんでいた時だった。
誰だ僕の安眠を妨害するのは。一度は二度寝を試みるものの子どもは一向に泣き止まない。痺れを切らしてのそりと見に行くと、そこには齢二、三歳はほどの女の子が泣きべそをかいている最中であった。
「やめて、いたいの、やめてっ!」
その傍には細々とした妖怪たちがいた。小鬼が幼子に群がると子の髪や服の裾を面白半分に引っ張って遊んでいる。引き攣れる髪が痛いのか子は火が付いたように泣きだした。
たまにいるのだ。こういう妖から魅入られてしまう子というのは。蛇はこちらに気づいた小鬼たちへがあっと口を開けて見せる。血のように赤い口に喰われると勘違いした小鬼たちは焦った様子で逃げていった。
「お前も早く帰りなよ。僕は面倒はごめんだ」
いつものように帰ってくるはずがない言葉をかける。しかしその時だけは違っていた。
「……………へび、がしゃべった」
「―――は?」
自分の姿どころか声まで認識している。あまりにありえない出来事に蛇はその場で口を開けたまま固まった。金の両目で先ほどまで泣いていた幼子を凝視する。
しかしそれがいけなかったのだろう。
「……へ、び、へびこわいいいいいぃぃぃ‼」
「あ、おい。泣くなって!」
「しゃべるのこわいぃっ! おかあさぁん‼」
子どもはまた大泣きに泣きだし、どうにかなだめすかす前に母親が連れて行ってしまった。子は繰り返し蛇が喋った、変なのが髪を引っ張ったと告げるが母親は「また変なことを言って」と本気にしない。どうやら子どもにしか蛇は見えていないらしかった。
蛇はらしくもなく高揚していた。最高の暇つぶしが向こうから飛び込んできたのだ。彼はそのことにひっそりとほくそ笑みながらも、泣き疲れた様子の子どもを見送っていた。
※※※
そこからは努力の日々が始まった。蛇は生まれてこの方幼子の世話なんてしたことがない。その子どもはありがたいことによく神社の近くで親を待っていた。蛇はその都度子どもに話しかけ、泣かれ。それでも話してみたいと好奇心で子ども追いかけまわす。めげずに何度も何度もそれを繰り返した結果――――。
「へびっ! へびきらいっ!」
「きら……」
「いやっ! あっち行って! きらいきらいっ!」
こうなった。女の子は蛇の顔を見るだけで逃げ出し泣きだす始末。終いには怒ったように彼を突き放した。
こんな男子小学生のようなことを繰り返していたのだから、子どもの反応は至極全うなものだった。しかしありがたやは数多く言われていたものの、きらいなんて言われたことのない蛇である。驚愕を取り繕うために見栄を張った。
「僕は神だぞ。そんな不遜許されるわけ」
「うるさいっ! ばかっ!」
慈悲のない追撃に彼はあまりのショックにしばらく寝込んだ。三日ほど寝込んだ。なんとも阿保らしい理由で神社の周囲はしばらく天候が荒れに荒れ、そして三日目。蛇は決意する。
「蛇やめよう」
周囲の神が聞いていたのならこう言っただろう。「ひょっとして馬鹿か?」と。
しかし生憎彼を止める神はおらずたしなめる人間もいない。蛇の決意はほとんどやけくそだった。ここまで怯えられたのならもう諦めればいいと言うのに、幼子の頑なな態度が神のプライドに火をつけた。彼の意志はいつの間にか「人間で暇をつぶす」から「絶対にあの子と仲良くなってやる」すり替わってしまったのだ。
そして蛇は人間の姿を学び、変化を研究する。おびただしい訓練の結果、ついに人の形を保つことができるようになった。
苦労の中「あれ、どうして僕こんなことしてるんだっけ」と正気に戻ることも多々あったがそれらは全て子どもの「髪の毛、きれいねえ」と言う言葉に吹っ飛んでしまった。
苦節数か月、神は人間との会話に初めて成功する。
※※※
彼女との平穏なお喋りの日々。その口から語られる人間らしい日々の数々に蛇は酷く高揚し、退屈な日々は瞬く間に塗り替わって行った。
と、同時に。蛇は疲弊していた。その理由は子ども特有の好奇心旺盛さと有り余るパワーである。
「そっち行ったら駄目だって! あーもーちょっと目を離すと……こら!」
「お花、くれるの? きれいねえ……あっちにあるの?」
「散れ! この妖怪ども!」
彼女の傍にはすぐに妖怪が寄る。溢れんばかりの霊気が目当てかどいつもこいつも神の御前だと言うのに不遜にも子どもに誘惑するのだ。
子どもは子どもでまだ好奇心旺盛な盛りだからあっちはふらふらこっちへふらふら。ちょっと目を離しただけで誘拐、捕食に嫁取り。あの手この手で子どもは危険に晒された。
とうとう蛇のたいして太くもない堪忍袋の緒が切れる。
「いい加減にしろ! お前たちが手を出そうとしているのは僕が目を付けた子だぞ!」
「……神様、怒ってる? 怒ったらこわいこわいよ」
「んー、怒ってないからねえ。大丈夫だよぅ。……そこの妖怪ども今日は見逃してやる」
年甲斐もなく彼はそう叫ぶ。けれどこうして怒っても怒ってもけろっとした顔で戻ってくるのが妖怪だ。人間を愛することも食べることも同時に存在する。そんな生き物なのである。
たった一度。ほんの少し目を離した時、彼女は仲良くした妖怪に連れられて指を食いちぎられそうになったことがある。あの時神は本気で相手に怒りをぶつけたし、子は怖がってしばらく泣いていた。そこからずっと蛇は警戒を強め続けているのだが。
「君もなかなかの恐れ知らずだよね」
「神様! お花の冠作ってもいい?」
「ああいいよ。ただ僕が見えてるところでね」
「はあい」
そんなことがあったにもかかわらず、けろっとしているのは彼女も同じだった。小鬼に絡まれて泣いていたかと思いきや、少し経てば妖怪と一緒に花冠を作って笑う。順応性が早すぎると蛇はため息をついた。
「だからね、妖怪とか知らない奴についていくと怖い目に遭うかもしれないから」
「神様も、最初は知らない人だったよ?」
「ああ言えばこう言うんだから。賢いなあ君はもう」
きゃあきゃあと笑う幼子を抱きしめながら蛇は対策を考える。このままではいつか本当に妖怪や、下手をしたら神にまでちょっかいを出されかねない。彼女は素直でもしかしたらぽろっと名を明かしかねないのだ。
だから彼は先手を打った。まずは否定の呪いをかける。本当は近づく僕意外を全て跳ね飛ばす強力な物をかけたかったけれど、「遊べないのは嫌だ」と泣く彼女に折れてしまい少し弱めの、彼女が恐怖を感じたものを弾くように設定する。
そして次に本命のものを。
「いいかい、今から僕は大事な話をするよ。これから僕と君の名前を繋げて」
「あ、お名前ねえ。ユキノっていうの」
「聞いてぇ! お願いだからさあ!」
名前を教えあう。神とそれをするというのは人と神を繋げ、人間を庇護下へとおくためのやり方だ。本来は神が名前を知るだけでいいが、強固なものにするためにはやはり互いを知っておかねばならない。人間を神の世界へと近づける行為だから簡単にやって良いものではもちろんない。だがこれでよほどの馬鹿でない限り、神を恐れて近づくことはないだろう。
あっけらかんと名前を口にする彼女に頭を抱えながらも、互いの名前を明かすことはできた。彼女の魂に加護が刻まれることを感じながら、彼は目を見張る。
ああ、道理で霊気が強いわけだ。
いまいち分かっていないようにはしゃぐ少女を腕の内へと守るように抱え込みながら蛇は一人納得する。興味の対象と暇つぶし相手。そこから既に子どもは「守りたいもの、笑顔が見たい者」に変わっていた。
彼女の魂は巫女の、それも神の傍で奉仕をする
※※※
「おや、どうしたのかな。もう息が上がってるよ」
「………ッるっせぇなあ!」
暗い中、蛇の視界が暗闇に包まれ足がもつれる。彼女が連れ去られた後真っ先に追いかけていった水の神は、思わぬ相手に時間を取られていた。
穢れは彼の体を徐々に蝕んでいき、体は思うように動かない。動かすたびに指に、足に引き裂かれるような激痛が走った。
連れ去った張本人はその様子にさわやかな笑みを浮かべる。彼はその様子を見ながら舌打ちをした。
「趣味の、っ悪いことで。月読のふりまでしてなにがしたい?」
「お気づきで?」
「嫌でも気づくさ。穢れの中でそこまで動けるのはあいつじゃない。何してんだよ禍津日っ!」
「……お前みたいな神が苦しむ姿は、楽しいからさ」
黄泉平坂を下ろうとすればするほど穢れは体にまとわりつき、禍津日神は黒い靄で行く手を阻む。苛立ちと痛みが思考を奪い、水の刃は形を成すことなく滑り落ちる。
状況は悪くなる一方だった。蛇は顔を顰めると一撃で仕留めようと力を溜める。しかしそれを乱すように禍津日神がささ囁く。
「大事なあの子はもう拙が閉じ込めてしまったよ」
「――――、お前」
「禁術まで施して、お前は随分あの子が大切なんだな」
それは人間が好きだからか。それともあの子の力のためか?
揶揄うように告げられる言葉に神の視界が怒りで赤く染まる。彼にとって妖のように彼女を手元に置くと言われるのはこれ以上ない侮辱だった。しかも彼女は暗闇が苦手だと言っていたのに閉じ込めただなんて。
殺す、今すぐこいつを殺してやる。靄に押さえつけられながらも懸命に腕を動かす。けれど涼しい顔で禍津日神は続けるのだ。
「どうして禁術を使ったんだい? あれは繋がりすら断ち切る術だから、あの子が無要らなくなったとか? なら拙におくれよ」
「ちがっ――――誰が渡すか誰が!」
「ならどうしてここに連れてきた? どうして一度は突き放したのに、お前が自ら手放したのに」
どうして? 重ねられる言葉に水の神は溜まらなく叫ぶ。
「僕だってこんな術、使いたくもなかったさ! けどあのままじゃ彼女を守り切れなかった!」
少女は大きくなれば大きくなるほど力を増していった。そしてそれはあっという間に肥大化し、火の神の傍ですら襲われていた彼女を見て蛇は確信したのだ。
もう、このままでは彼女を守り通せない。
もしかしたら神の傍にいたことで力の開花が進んだのかもしれない。もしかしたら自分に原因があるかもしれない。
いくつものもしもは瞬く間に神を飲み込む。だから蛇は禁術を施したのだ。好奇心旺盛で優しいこの子はきっと「もう会わない方がいい」と言っても聞かないだろうから。
だからその力を封じる。神々と妖怪の記憶も共に。これからの彼女にはきっといらないものだから。名前を忘れてしまうから繋がりは途切れてしまうけど、加護や術は残るだろう。
本当は傍で守りたかった。彼女の話を聞いていたかった。彼女とずっと遊びたかった。
けれどそれは叶わない。願わくばこれからの人生がずっとずっと輝いていますように。ずっと幸せでありますように。
術の反動で眠りにつきながら彼は願った。
「でも、どうせ守れなかったんだろう? ここに連れてきたってことは」
ああ、そうだ。蛇は唇をかみしめる。
眠りから覚めた後、蛇は高天原の神を下され神社はいつの間にか移設されて小さな祠と化していた。
神としての力は大分落ちていたが、彼は少女に一目会いたくて彼女を探した。きっと見えないのだろう。気づいてももらえないだろう。それでも幸せな姿を見たかった。自分の選択は間違っていなかったのだと。
増えすぎた魂の気配に難儀しながら、あの輝きを探した。やりたいことであふれている輝かんばかりの魂を探した。
そして、見つけた。
その魂は今にも消えそうで、その目は深い暗闇を横たえて。それでも口角だけが上がっていて。笑って頷いて従う。人間の波の中でからくりに成り果てた彼女を見つけた。
蛇は大きな間違いをしたと知る。手を離したのは、最善ではなく最悪だった。信頼できないものに彼女を託してしまったのだと。
「守れなかったから罪滅ぼしに? ここで幸せって?」
だから蛇は彼女を隠した。今度こそ守れるように、今度こそ幸せに導けるように。全身全霊この身が朽ちても幸せにすると誓ったのだ。
その思考を見透かしたように禍津日神はからからと笑う。
「とんだお笑い草だ。人間なんて異物がこの世界で幸せになれると本気で思ったのか?」
「――――だま、れ」
「いつだって世界はいらないものに厳しい。人間の群れから追放されたあの子がここなら馴染めるって? そんな甘い話はない」
「黙れ」
「だってそういう仕組みだから。異物はこうして隅に追いやられて掃いて捨てられる。いつだっていないふりをしなきゃいけない」
それをまるで自分のことのように笑ってから。禍津日神は笑みを剥がし落とす。暗い目の奥にあるのは、怒りだった。
「ゴミはゴミらしく、いなくなることを望まれているんだから」
じわりと、蛇の指先から穢れが染み込む。しかしその痛みも気にならない程蛇は激高していた。高まりすぎた熱は一点を超えるとすうっと冷え、怒りが全身を巡る。
もう、ここでいい。人の姿から蛇へと戻りながら、彼は大きく口を開ける。ここで力を使い果たせば穢れはあっという間に彼を飲み込むだろう。
けれど彼はそれでいいと思った。
擦り切れた彼女に幸せになってほしかった。あの日自分の選択を悔いた。そのために今まで走ってきた。
だからいい。終わりでいい。彼女を幸せを阻むものが、幸せを否定するものがいるのなら、僕はそれを全部飲み込んでやる。その先で笑えれば、それでいい。
蛇を中心に水が渦を巻く。それは神の魂削り取るがごとく消耗させ、穢れがそれを見逃さぬように忍び入る。
彼の意識は細くひき伸ばされた糸のように遠くなっていた。暗がりで見えた禍津日神の顔は笑っている。
「さ、堕ちてしまえよ。拙は、お前みたいな必要とされる神が大嫌いだ。だから苦しんで苦しんで苦しんで、拙と同じものになれ。惨めで悔しいこの世界で」
「――――――――」
「一緒に全てを憎もうか」
水をまるで血のように流しながら、蛇は目を閉じる。
ああ、願わくば彼女の道行きに――――。
そう思った時、はるか後方で轟音と閃光が黄泉の世界を真昼が如く照らす。そして、蛇には聞こえていた。
「――――――――――――
「………どう、して?」
自らを呼ぶ、あの子の声が。
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