第十八話 巫女としての覚悟

「―――うわぁっ⁈」

「ッ………」

「どうですか? 寒くありませんか?」


 投げるように放り込まれたのは一筋の光も差さない場所だった。硬い地面の冷たさと反響音に、周囲を囲まれた洞窟のような場所だと分かる。月読さん、月読さんの皮を被った彼は変わらない笑みを私たちへと向けた。


「どうです姉様、拙が丹精込めて作った天岩戸……の模造品です。意外と住みやすいでしょう?」

「……その顔で姉様などと呼ぶでない。下郎」

「いけませんよ姉様。あなたは皆の心の支え、この世を照らす太陽神がそのような怖いお顔を」


 この世全てを照らす太陽の化身であり、神々の頂点に立つ最高神。


 名を、天照大御神。


 倒れていた少女が一番偉い神様であると知ったのはついさっきのことだった。しかし最高位に座す少女は、目の前の男を突き刺さんばかりの視線で見つめていた。


「月読をどこへやった」

「ここにいるじゃないですか」

「くどいぞ。余は、月読のをどこへやったと聞いているのだ」


 声は冷静に聞こえるが、ひりつくような怒りが感じられた。今すぐにだって彼女が飛び掛かっていきそうに思えて、嫌な汗が伝っていく。


 けれど、張りつめた空気の中で目の前の神だけが何も変わらなかった。


「答えよ。禍津日神まがつひのかみ。余の弟神に何をした」

「……ずぅっとここにいるじゃないですか」


 張り付いた笑みを浮かべながら禍津日神はそこに立っている。どうしてこんなことになったのか、時間は少し遡る。


※※※


 少女の鋭い追及にも、何事もなかったかのように笑いながら彼は優雅に白い手で私を手招いた。


「……お嬢さん。行き先はそちらではありませんよ」

「人の子、余を離すなよ。……あいつは余の弟を被った異形の物だ」

「異形の物なんて失敬な。天照大御神ともあろうお方が、拙のことをお忘れとは」

「ふん。他の者の目は欺けようと、余が見抜けぬと思うたか」


 天照大御神。最高神と謡われた神が今背負っている少女だということに驚きながらも、私は言われた通りに抱える手を強くした。しかし相も変わらず彼女の体は震えており、耳には小さく洗い呼吸が聞こえてくる。


 目の前の彼に頭が警鐘を鳴らしていた。


「邪魔、なんですよ」

「何?」

「これからの神の世のために、日の光は迷惑だ」

「……お前」

人ならざる者たち妖怪は、日の光が大嫌いなものですから」

「ああそうか、分かった。少し見ていないうちに、随分と尊大になったな。禍津日神よ」


 まがつ? それが彼の正体なのだろうか。少女がそう告げると彼の顔から笑みがすとんと剥がれ落ちる。その落差にぞっとした。何も見えない能面のような顔が天照大御神へと向けられる。


 どろりとした声が沼のように私たちを引っ張り込もうとまとわりつく。


「ええ、ええ。封じられたころから何千とたったでしょうか。拙はあなたを忘れた時など一瞬もありはしなかったのに」

「あいにくお前と違って忙しい身なのだ。で、何故このようなことをした」

「……神が支配する世のために、必要とされる世のために、ですよ」


 平坦な声のまま、禍津日神は続けた。人ならざる者が蔓延り、人間が以前のように神に縋る世になれば神々は以前のような影響力を持てるのだと。そのためには太陽の化身である天照大御神には以前のようにお隠れ頂くのだと。


 彼とは対照的に少女は淡々と答える。


「お前は昔から神の力に固執していたからな。余が黄泉に封じてから少しは頭が冷えたかと思ったが」

「おかげで考えをまとめる時間は十分にありましたとも。それに」


 黒い、目が。そこの見えない、黄泉平坂と同じ目が、こちらを向いた。冷汗が止まらない。まとわりつくような、品定めされているような、じっとりとした視線。


 同じだ。森を出る直前に感じたものと。


「ちょうどいい、餌も見つけられました」

「―――ひっ!」

「あの神さえ始末してしまえれば、その邪魔な加護もなくなる。その後は妖どもに少しづつ配って……後は、意識さえ残っていれば巫女として機能するだろう」


 その言葉だけで手足が震える。肉が、血が、少しずつ無くなっていく様を想起してしまったのだ。呼吸がどんどん浅くなり、ひゅうと風穴のような音を立て始めた時、少女が言う。


「その口を今すぐに閉ざせ。人の子を害するのは余が許さぬ」

「怖いですねえ。穢れでもう息も絶え絶えなくせに」

「神が自らの力のために幼子を犠牲にするか。お前の考える神の世とは随分高尚のよだな」

「……大御神ともあろうお方が立場を分かっていないようだ」


 そこからは一瞬で、少女が逃げろと叫ぶのと、黒い靄が体にまとわりついてくるのは同時だった。霞んでいく視界の中に男の顔が浮かぶ。


「―――居たいと思うのは、必要とされたいと思うのは、それだけで罪なのか」


 ぼそり呟かれた独り言が、悲し気に耳にこびりついた。


※※※


 こうして私たちはこの暗がりに転がされた。しんとした中に荒いままの呼吸音が聞こえ、尋ねる。


「……あの、体、平気ですか?」

「おかしな、人の子だな。其方は巻き込まれているんだぞ。怒るわけでもなく、心配とは」

「さっきの、禍津日神でしたっけ。あの神様が言っていたんです。ここの穢れは苦しいんだって」

「ああ、そうだな。あいつならともかく基本神にとっての穢れは毒と相違ない」


 禍津日神は元々黄泉の国の穢れから産まれた災いの神だから、と彼女は続けた。さっき聞いた黄泉平坂の話、夫が黄泉の国から帰り水で体を清めていた際に剥がれ落ちた穢れから産まれた神様だからと。


「その後、余や余の弟たちはこの時の飛沫から産まれたのだ」

「し、飛沫からですか?」

「神の世と言うのは往々にしてこんなものだぞ」


 華奢な手が弱々しくこちらに伸びる。不思議なもので少し手を伸ばしただけで指先が見えないような暗がりなのに、彼女の顔ははっきりと確認できた。さっき私が見つけられた時のように、薄ぼんやりと光っているからだろう。


「にしても余としたことが、ぬかったわ。あやつに不意を狙われるなどと」


 そう忌々し気に彼女は言う。なんでも新しい高天原や隠世の規律を根を詰めて仕上げた瞬間を狙われて攫われたのだと言う。黄泉の国に放置され、どうにか自力で黄泉平坂まで上がって来たものの、力尽きていたのだとか。


 そこまで話すと、彼女は苦し気に息を吐いた。


「少し、手を握ってくれるか」

「手、手ですね」

「ああ、助かる」


 私の手を握ると、彼女の顔はほんの少し楽になったように見えた。背負っていた時も楽になる、と言っていたけどそれも私が巫女だったからなんだろうか。


 考え込み始めた時、彼女は私の思考を読み取るように「巫女の血筋か」と口に出した。


「どれ、聞かせよ。其方はどうしてここに来たのか」

「……言っても怒りません?」

「怒られるようなことをしたのか?」

「いや私がと言うか……」

「聞いたとて悪いようにはせんさ。暇つぶしとでも思えばいい」


 悪いようにはしない、と聞いて私は話し始めてしまった。今まで起きたこと止めどなく流れていく。神隠しをされたこと、隠世の妖怪や神様に良くしてもらっていること、猿神や覚のこと。


 彼女は静かにそれを聞いていた。時折頷き、相槌をうち、「それから?」と促される。見た目は私より年下の少女なのに、穏やかな眼差しで話を聞く姿は落ち着いた女性のそれだった。


 あっという間に話してしまった私に彼女は「なるほどな」と頷く。


「神隠しとは、あの神がまた面倒を起こしおったか」

「あの、お仕置きとかはしないであげてほしいんです」

「何、当の本人がこう言っているんだ。多少灸は据えるが、酷くはせんよ」


 本来ならば数百年、黄泉平坂の清掃刑だったがな。という言葉を聞いて苦笑する。とりあえず水の神様のお仕置きは免れそうだ。


 ほっと胸をなでおろしていると彼女は「それにしても」と続けた。


「其方の魂。ふむ、あいつの加護と呪いと……それからこれは解けかけてはいるが禁術か。用意周到なことだ」

「禁術?」

「力と記憶を封ずるもの、だ。本来神への罰として編み出された術だが術者への負担が大きすぎてな、乱用せぬよう余と、余の兄弟以外は使わぬようにと禁じていたものだ」


 力と記憶の封印。その言葉に思い当たる節があった。けれど禁呪を私に使ったと言うことはあの神様はそのために高天原を追われたことになる。彼は、どうしてそんなことしたのだろうか。


「……私、ずっと昔に神様に会っているらしくって、でも忘れているみたいなんです。たまたま聞いてしまったんですけど、それは水の神様が封じたって」

「それが禁術のことだろうよ。あいつが何を思ったか余は預かり知れぬが」


 ふむ、と神様が顎に手を当てる。しばらく黙った後、彼女は真剣な表情で口を開いた。


「聞いてくれるか、人の子。奴はとんでもないことをしでかそうとしている。何故余の弟の体を、そして力を使っているかは分からんが――――」


 禍津日の奴が何を考えているつもりかは定かではないが、おそらく隠世現世含め全てを混乱の渦に巻き込もうとしてい違いないと彼女は語る。ここに来る前に語っていたように妖怪たちを煽り、人間の不安を増大させることで神への祈りを強める。つまり神の力をより影響ある世界へと変えようとしているのだと。


 そして自分をここへ閉じ込めたのはその前準備なのだろう、と彼女は語る。


「天岩戸に余が隠れた、と言うことは太陽が消えるのも同義。今頃隠世も現世も本当の闇に覆われていることだろうよ」


 となれば闇を好く妖はより勢いを増すことだろう。現世と隠世の境目はあいまいになり、妖怪たちが見える者も増えていく。とどのつまり待っているのは大混乱だ。


 月読さんの力が及ぼす夜ではなく、本当の暗闇。それは心と魂両方を蝕むのだと言う。


「それにさっきの口ぶり、其方を追いかけてきたあの神をどうするかも分からん。巫女であるお前も危険に晒される可能性は十分にある」

「………神様が」


 禍津日神が言っていたことがフラッシュバックする。「あの神を始末すれば」と彼は確かに言っていたのだ。ここは黄泉平坂。普通の神も、天照大御神ですら動けなくなる穢れの濃さ。


 一瞬頭をよぎる最悪の光景に悪寒が押し寄せてくる。


「は、早くここを出て、神様を助けに行かないとっ‼」

「すまんが、それも簡単にはいかん」


 彼女は自らの手を上げる。それは頼りなげにゆらりと揺れ、じきに地面へと倒れるように戻って行った。


「……今の余では少々力不足だ。情けないが立つことすら難しい」

「―――で、でも! やってみないと分かりません!」


 閉ざされた岩戸に飛びついて、懸命に引っ張る。頑強なそれが自分の力でびくともしないことは分かっていた。けど、それでも、あの神様が危ないと分かっているのなら、私は動かずにはいられない。


 だって、私は神様に、んだ。


「………あれ、今。私」


 知らない景色が、見たことがないはずなのに、泣きたいほどの懐かしい光景が、見えた気がして目を瞬かせる。確かに神様にはここに来てから色々と助けられてきた。けど、今身の内に渦巻く想いはそれだけでは片づけられないほど深くに根差している。まるで、昔からの恩があるような。


 静かに、天照大御神は切り出した。


「手はある。其方に一時的に穢れを祓ってもらい、余が岩戸を破るのだ」

「――っ、それならいくらでもやりますから! だから早く」

「だがこれを機に其方の禁術は破れる。記憶も力も、全てが戻ってくるだろう」


 猿神に、烈火に使った時のように巫女としての力を使えば使うほど禁術は解けていた。黄泉の国の穢れを祓うなんて大きなことをすれば完全にその術は破れるだろうと彼女は言う。けれど、それが悪いことなのか私には分からない。記憶も、力も戻れば皆の役にたてて万々歳ではないのか。


「少し触れただけでも分かる。其方には常人ではありえないほどの霊気が備わっておる」


 霊気とは人ならざる者に干渉できる力の根源。大きければ大きいほどその力の及ぼす影響は大きくなり、妖怪のみならず神にまで影響を及ぼせる。話に聞いた浄化もその一つだと彼女は言う。


 ならなおさら破れればいいじゃないかと思うものの、彼女は厳しい顔で首を振った。


「其方に聞いた猿神や覚を覚えておろう。確かに霊気は強いほど強力だが、それゆえに狙われやすくもなる。霊気目当てで襲い来たのがいい例だ」


 濃い霊気は時にごちそうのように妖も神も惑わせる。今までは力目当ての妖怪が襲ってくるだけだったが、今の状態でこの霊気量ならこれ以上術を解けば霊気と信仰に飢えた神も放っておかないだろうと。


「断言してもいい。其方が今まで命の危機を感じずに生きてこれたのなら、それはまさしくこの禁術のおかげだ」


 それならそれを解くということは。私でも簡単に分かる続きだった。術を解くということは自分を守っていたものを自分から壊しに行くのと同じだ。


「あの神の考えにも背くことになる。聞いている限り、あいつは其方が危険に晒されることを望まないだろう。この術がどんな意図でかけられたにしろ、其方を守っていたのは事実なのだからな」


 巻き込まれただけなのだから、率先して身を危険に晒す必要はないと彼女は言う。もし禍津日が戻って痛めつけるような、終わらない苦痛を与えようとしてくるのならば。


「余が苦しむことのによう、尊厳を傷つけられる前に其方の命をもらい受けよう。情けないが、今の余にできるのは其方を苦しみからなるべく早く取り除くことだけだ」


 それでも、術を解く以上の危険はないと彼女は続けた。黄泉に近く悪鬼が潜むこの坂に、霊気の潤沢な人間が生身で出ると言うことは、獅子の前に肉を放るようなもの。あっという間にむさぼられる可能性だってあるのだと。


「だから、其方が決めてくれ。これは、其方の未来を決めるのだ」

「……私、私は」


 食われる。そう初めて思った時怖かった。禍津日神から言われたことだって、膝が笑ってしまうほど恐ろしい。捕食者の視線が突き刺さるのだろう。誰もが食おうと舌なめずりをするのだろう。それを考えるだけで震えが止まらない。

 

 けれど、おかしなものだ。もしかしたら助ける間もなく死んでしまうかもしれないのに、私は「」と思っている。


「やります」

「……余の力は一時的なものだ。其方の共も出来ずに自身を悪鬼から守るのがせいぜいで、其方を守り切ることはできぬ」


 言外に、彼女は自分の力をあてにしているなら間違いだぞ、と言いたいのだろう。私は優しい神様に頷いて見せた。


 震えと怖気が混ざるような危険な賭けだ。何が起こっても、私が死んでもおかしくないことだ。


 今までのように、楽な方へ流されてしまえばいい。待っていればいい。何もできなかったと震えていればいい。酷いことをされかけたら死へと逃げればいい。だって、どうせ私はいてもいなくてもいい存在なのだから。


「それでも、やりたいんです。私が、あの神様を助けたいんです」


 けれど、嫌だった。今までのように逃げるのは。「できる訳がない」と諦めて選択することから逃げてしまうのは。それは楽な道なんだろう。しかしきっと今のように大事なものを取りこぼす。


 忘れてしまっているのに、心の奥が叫んでいた。「守ってもらってばかりなんて嫌だ」と、子どものような声を上げている。今まで無視してきたそれを、私は素直に受け入れた。


 良くしてくれた隠世の皆を助けたい。幸せを願ってくれた神様を助けたい。


 だから私は、


「そう、か。そうか。……どうやら怖気づいていたのは、余の方だったみたいだな」


 そう言うと、彼女は反響するほどの快活な笑い声をあげ、身を起こした。


「分かった。覚悟を示されたのなら、余も返さなければなるまい。なあに、さっきああは言ってがな、奥の手がある。父君からもらった物だが――――」


 もう、守られるだけの時間は終わりだ。震える足を殴りつけながら私は禍津日神が去って行った方向を見据えた。


 待っていろ。反撃開始だ。


 決意を胸に、強く拳を握りしめた。

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