幕間 狼を助けたもの

 なぜ自分だったのかは分からない。群れを率いる獣として野山を駆け回っていただけだった。どうしても、自分でなければいけなかったのか。


 それは気が遠くなるほどの忌まわしい記憶。人間に捉えられて、憑き物と化した日。土は重く、腹が空いて、炎は熱かった。


 炎を司る犬神を人間は喜び、恨みを返すために使われた。時に誰かの足を引っ張り、時に誰かを祟った。


 いつの間にか自分の全てが人間に喰われていた。

 

 人間は憎いものだ。だから奴らを焼いた。人間は同じ過ちを繰り返す。だから周りの奴も焼いた。


 焼いて焼いて。あたり一面が黒くなっても頭の中の恨み言は消えてはくれない。薪にくすぶる火種のように、少しの風で息を吹き返し燃え盛る。また火が広がる。地面の上を舐めるように広がって誰かを焼く。

 

 まだ足りない。まだ、足りない。身を焦がす炎はあいつらをまだ許していない。


※※※


「…………は?」

「わんちゃん!」


 なんだこいつ。自分の尾に顔をうずめる子どもに、狼は唖然としていた。


 手当たり次第に周りを焼く彼を人間が恐れ、神として祀り上げてからしばらく後。犬神から神になった狼は人間の子どもに絡まれていた。神に絡むなんてよほどの命知らずか馬鹿か。睨み付けてもへらりと笑っている子は七つかそこらに見えた。


「なんじゃ。貴様」

「わんちゃん、かわいいねぇ」

「……言うに事欠いて犬扱いとはのう。あ! おいよだれを垂らすな!」


 別に珍しいことではない。子は七つまでは神の物と言われるくらい現世との境目があやふやな魂だ。人ならざるものが見えたとしておかしくは思わない。


 そうは言っても狼の尻尾を鷲掴みにするか、普通。己の背丈よりも倍近い大きさの獣に、こうも身を任せられるものか。


 そうこうしている間に背によじ登り始め、あろうことか毛並みによだれを垂らすので狼は自らの手の中に納まってしまうほどの子を引っぺがさなければならなかった。


「はー、おい。とっとと家に帰れと」

「わんちゃん赤いの、きれいねえ」

「聞かんかい!」


 齢七つの子どもは何度怒鳴っても狼について回った。彼を祀る祠は町外れにあり、到底子どもが一人で来るような場所ではなかったが、それでも来た。


 初めこそ疑問に思っていたものの、時折遠くにちらと見える蛇の尾に合点がいった。同時に、この子どもがどうして己を恐れないのかが分かった。


 このなんも考えていなさそうな子は子どもはどうしてか


 まあ七つを過ぎれば見えなくなり、忘れていくことだろう。そうたかをくくっていた狼だったが、予想は大きく外れることになる。娘は大きくなっても狼の元に通い続けたし、年を重ねても毛並みへの執着は薄れることがなかった。


 子は大きくなり十を過ぎた。しかし、いくら大きくなろうとも彼女が見えなくなることはなく。


 彼女が特殊な血筋をしていると気づいたのは齢が十二にあがるころ、最悪のタイミングが重なった時だった。



「犬神、お前に神なんて似合わない」

「……やかましい」


 覚がやってきたときだった。飽きもせず何度も勧誘にくる妖怪たち。今日も適当にあしらって、それで終わりのはずだったのだ。しかしその日は違っていた。一言一言がやけに癪に障り、狼の胸中をざわざわと責め立てる。


「犬神、気づいてるだろう。本当は殺してやりたくってたまらないって」

「やめろ!」

「犬神。お前は、神じゃぁ、ない」


 普段ならどうとも思わないのに、タイミングが悪かった。祀り上げた人間たちが消え、神としての認識が薄れ始めていたころ覚と猿神どもに揺さぶりをかけられて。


 さらに悪いことに、あの子どもがそれを聞いていた。丁度、懐かれるのも悪くはないなんてことを思っていた時。


 知られたくない。そう思い始めた時だった。


「おい、美味そうな匂いがするぞ」


 妖の視線が一気に娘に向く。喰われる、そう思った瞬間に体は目の前の妖を引き裂いていた。


 今なら分かる。娘は年を重ねるごとに巫女の力が開いていたから、妖たちにはさぞ霊気の芳醇なごちそうに見えていたのだろう。ただ怯えたような顔が見えた瞬間、狼はあの娘が妖に群がられるのが見える気がしたのだ。



 そこからは周りの音も聞かずに一心不乱に妖を屠った。叩き付け、すりつぶし、噛み千切る。殺して殺して。血の匂いがむせ返るほど漂っていた。互いにぼろきれのようになって、けれど狼は痛みも感じない程に高揚していた。


 血の匂い。悲鳴。それらを楽しいと感じ始めた自身。


「あ、ああ、ぁ」


 楽しい。楽しい。死ぬのを見るのは、苦しむ姿は。恨み言の声がうるさいんだ。呪え祟れと喧しいんだ。楽しい。楽しい。


 全てを焼き払ってしまいたい―――――。

 

「痛っ!」


 子どもの声に引き戻される。見れば娘が顔を歪めながら手をおさえていた。狼は気づく。自分を中心にじりじりと炎が渦巻きだしていることを。それが娘を襲ったと言うことも。


 気づけば周りは死んでいて、覚の姿は見えなくなっていた。


 ああ、戻った。狼は自身が以前に戻っていると気づく。神になってから聞こえなかった怨嗟の声がこんこんと己のうちから湧き出してくるのだ。


 人間が憎い。焼きたい。殺したい。あの人間を殺してはいけない。殺したくない。


 それらの声がないまぜになって狼の頭を酷く犯した。自身の器にひびが入り、壊れてしまいそうだった。


「―――僕の巫女に何しやがる、クソ犬」

「がっ………‼」


 駄目だ、そう思った瞬間に狼を白い蛇の尾が殴った。赤い毛並みが地面に叩きつけられると、蛇は娘を守るように巨体で狼をぐるりと巻く。


「あの子は大丈夫って言ってたけど、やっぱり付いてくべきだったな。妖怪上がりの神なんて何しでかすか分かったもんじゃない」


 金眼の白蛇はそう冷たく吐き捨てた。水を司る神の姿に狼は驚愕の表情を浮かべながら、同時にほっとしていた。


 もう、傷つけなくて済む。



「ちょっと待っててね。すぐこの畜生を始末して―――」

「っ、やめて!」

「………君のお願いでも、それは聞けない。こいつはもう妖怪に戻りかけてる名無し神だ。今どうにかしてもまたきっとこんな騒ぎが起こる」

「なら、私が名前を付ける!」


 狼は思う。この娘は何を言っているんだ。


 戻ってしまった妖怪を神に戻せるなんて聞いたことがない。しかも人間が神の名前を付けるなんて。けれど、狼の疑問も慌てた蛇の言葉もまるっと無視して高らかに叫ぶのだ。


「巫の使命は、神を支え安らぎを与えるものなり。ユキノの名のもとに、新たな名を」





 こうして狼は正式な名のもとに神となる。蛇は「軽率にそんなことしちゃいけないって言ったよね⁉」と悲鳴を上げたし、狼自身何が起こったかよくわかっていなかったが、娘が大喜びで飛びついてきたので、悪い気はしなかった。

 

「神と名を繋げるっちゅうことは、嫁になるっちゅうことじゃからな」

「? 結婚するの?」

「なあに任せとけ。幸せにしちゃるからのう」

「………遺言はそれでいいかな馬鹿犬が」


 そしてしばらく、平穏な日々が続いた。煩わしい神は一緒だったが娘は相変わらず遊びに来たし、共に過ごすことは狼にとって喜ばしく、恨み言の聞こえない実に穏やかな日々だった。


 伴侶になるにはまだ幼いから、そこはゆっくり成長して好きな時に嫁になればいい。狼は自制心には自信があったのだ。


 狼はこの日々が続くと信じていた。この娘が、自分を救ってくれた人間が離れることなど永遠にないのだと。


 娘が来なくなったのは、彼女が十三に上がるころ。




 隠世で再び彼女を見た時、ユキノだと狼は分からなかった。きらきらと輝いていた魂が、人間ではないものが混ざってしまっていたから。


 初め彼は激高した。名を繋げた神のもとから勝手にいなくなって、置いていって。この裏切り者と怒りをぶつけたが、彼女の表情があまりにも呆然としていたので。


 そこで彼女が全て忘れていると気づき、隣で人間臭く笑っている蛇を見て「こいつの仕業か」と確信した。


 彼女の幸せのためだ、と蛇は言った。確かに久しぶりに見た彼女の姿は、酷く細くて頼りなく、無理に口角を上げているように思えたから狼は蛇が言いたいことが分かる。現世にたった数年いただけとは思えない程の弱り方だったから。


 しかし、狼は思うのだ。どんな思いがあったとしても、人としての生を勝手に奪っていいものなのか。


 隠世で他人のように笑う昔なじみに、狼は二度目の「寂しい」を感じた。


※※※


「――――――烈火れっか!」


 ユキノからもらった名前を呼ばれた瞬間、確かな繋がりを彼は感じた。彼女を通して霊気が洪水のように流れ込み、傷を癒し、力を蓄えさせる。


 彼女が思いだしたことに隠し切れない喜びを口の端に浮かべながら、狼は烈火は声を張り上げた。


「おうよ!」

「私たちの分も全部、やり返しちゃって‼」

「任されたッ‼」


 こんなことがあっていいはずがない。覚の表情は明確にそう語っていた。狼は、烈火は見たものが卒倒しそうな凶悪な笑みを浮かべ、腕を大きく振る。


 覚の足が数歩下がった。


「覚よう、わしの考えが見えるじゃろ」

「―――ひぃッ⁈」

「言うてみ。わしが今から何をしたいのか」


 がくがくと震える足が地を蹴った、が上にまで張り巡らされた結界に阻まれ、地面に逆戻りする。考えを読めるからといって、対処ができるとは限らない。覚は脳髄が痺れてしまうような恐怖を感じていた。濁流のように考えが流れこみ、そのどれもに対処ができない。結界を張ることが分かっても早すぎて逃げ出せない。人間が何かすると分かっても神に邪魔をされる。

 

 そして、目の前の神が今から何をしようとも、覚はそれを回避できそうにない。


「見えたな。よーし」

「や、やめろ犬神! 私は、私はお前のためを思って―――」

「わしじゃのうて自分のためじゃろうが、ボケ。貴様はわしを利用されて可哀そう言うとったがな、貴様も利用する気しかなかったじゃろ」

「ちが、違うんだ犬神! 私は本当に」

「犬神犬神やかましい」


 丸太のように太い腕が振りかぶられる。瞬間、覚に流れ込んできたのは自分をいたぶられた怒りと、恋しい相手を傷つけられたことへの――烈火のごとき怒り。



「――――わしは烈火。炎を司る神じゃ!」



 狼を中心に、激しい炎がパッと散る。あたり一帯を強く照らした光景は、まるで真昼のようだった。


  

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