第十三話 神様の名前

「は、はははっ! 犬神、なんだ。弱くなったなあ、お前」

「ちっ、昔に執着しすぎじゃボケッ!」

「ほらほらほら、もっとしっかりやらないと、大好きなあの子を食べてしまうよ」


 その後にお前もゆっくりゆっくり端から食ってやる。そう言って覚は森を縦横無尽に駆け回っていく。状況は最悪だった。まだ昏倒しているロクちゃんを背に抱えながら、私は森の出口を目指す。


 今の私は足手まといだ。猿神が「力がみなぎる」と言ったように、多分私の血肉には思っている以上の効果がある。なら、覚の口に入ったが最後だ。神様が覚を惹きつけている間に、どうにか脱出できれば。


 肺が息を吸い込むたびに痛み、喉に熱がこもる。走るたびに背中からずり落ちそうになる彼女を抱え直しながら懸命に足を動かした。


「犬神。どうして炎を使わない。お前は好きだったろう? 火の中で逃げ惑う人間がさ」

「……やかましい。貴様程度炎を使わんでも余裕っちゅうことじゃ」

「ごめんね、意地悪なことを言った。あの餌どもを守るためなんだよね」

「ッ、相変わらずの性悪じゃのう。あ? 覚!」

「君は随分変わっちゃったね。前は周囲がどれだけ焼かれようと、気にも留めなかったじゃないか」


 もちろん覚が思考を読める妖怪だから神様が追い込まれているということもあるだろう。けど、それ以上に問題なのは神様が炎を使えないと言うことだ。


 ここは森で、周囲に火種になるであろうものが大量にある。ここで神様が炎を使ったとすれば瞬く間に燃え広がり、私たちも無事では済まない。


 得意分野を封じられた状態で行動を読まれるのだ。劣勢になるのは当然だった。


 今、私ができることはせめて神様の邪魔にならないように森から逃げ出すことだけ。しかし。


「どうしたの? もう、走れないのかい?」

「―――うわぁッ?!」

「早く走らなきゃ、犬神はどんどんボロになってしまうよ」

「――――――っ、ユキ!」

 

 唐突に目の前に現れた覚にしりもちをつく。逃げようとすると、進行方向を遮るように覚が現れるのだ。今も震える足を無理に立たせる私を笑って眺めている。あの妖怪にとっては私なんて手のひらで惑う羽虫程度にしか見えていないのだろう。命も行動も全て手の上。


 けれど、それでも走らないわけにはならなかった。少しでもいい、少しでも遠くへ行ければ。


「大丈夫です! 呪いが」

「それは否定の呪いだろう」


 否定の呪いがあるから大丈夫、構わないで。こちらに向かう神様にそう言おうとした途端、視界が吹っ飛ぶ。


 衝撃は目の前からじゃなく、だった。


「それは神が使う呪いだ。人間ごときが使うには致命的な欠点がある」

「―――あ、っづぅ………」

「その呪いは本人が否定したいと認識しなければ防げないんだろう。なら、知覚する前に殺せばいい」


 私を真横に飛ばしたのは横からの蹴りだと、覚の足を上げている姿勢で分かった。投げ出された状態でうずくまる私を笑っていた。酷く耳が痛む。片耳だけ、音がこもっていた。頭も痛い。頭蓋骨が軋む。


 この呪いは私が遠ざけたいと思った相手しか遠ざけない。私が分かっていなければこの呪いは発動しない。


 本当はもっと強い呪いをかけようと言われて、けどそうしたらその人や皆が問答無用で近づけなくなると言われたから。「そんなのは嫌だ」と私が泣いて駄々をこねたのだ。


 そうだ、そのはずだった。………誰に、だったか。


「肝心なところが見えないのか。真の役立たずだな、お前は」

「……い゛、づっ!」


 早く、早く走らないと。痛みに勝手に涙が出てくる。歪む視界の端で、一緒に放りだされたロクちゃんの体がぴくりと動くのが見えた。


 覚は這いずる私に呆れたように声をかける。なんだそのみっともない有様は。そう言いたげにため息をついて、のろまな私に手を伸ばす。


「特別痛く食ってあげる。生きたまま端から、無様に泣き喚いて。お前を匿ったあそこも一匹残らず殺してあげる」


 殺される。喰われて引きちぎられて死ぬ。そう考えてしまった瞬間覚の笑みが深くなったのが分かる。


「かぁわいそうな犬神。人間に利用されて、死んじゃうなんて――っ⁉」

「可哀そうなのはお前の頭じゃろうて」


 だけど、次の瞬間に吹っ飛んでいたのは覚の方だった。血濡れの狼が立ちふさがり、殴り飛ばしたのだ。地面を飛ぶように転がっていった覚を見て神様は獣のように唸る。


「相変わらず、急な、ことは読み切れんようじゃの」

「お、前っ!」

「ユキ!」


 その声にハッとなり、未だ笑ってばかりの膝を殴りつける。「怖い」と考える脳を叱咤する。神様はずっと戦ってくれているのに、私ばかりが泣いていてどうするんだ!


 覚が頭をおさえながら叫ぶ。

 

「畜生が、名前隠しの呪いなんて使いやがって! そんなに人間が大事かよ!」

「少なくともお前よりはの」


 震える体を持ち上げる。逃げなきゃ、いけない。


 けれど、逃げたらもう二度と神様に会えない。そんな予感が頭をついて離れない。でも私がいて何になるんだ。どうにも好転するわけがないのに。


「………なんだよ、お前。


 裏付けるような言葉に足が止まりかける。死ぬ、神様が、守るために死ぬ。


「自分もろとも焼いて、力を使い果たして死ぬっていうのか。あの犬神が人間のために」

「ああ。死ぬ。長く生きたわしと違うての、あいつにはまだ先の幸福が大いにあるじゃろう」


 だから老いたもの同士勝手に死のうや。そう言いきった神様に悲鳴が喉からこぼれ出た。


 駄目だ、そんなことをしちゃだめだ。どうしてそう自分を犠牲にするようなことばかり――――。


 ……いつも?


 頭の中がちかりと光る。私はこの状況を知っている。こうなったことを知っている。前にも似たようなことがあったから。


 その時どうやって助かったのか、私は知っている。

 

「おねえ、ちゃん……?」

「っ、ロクちゃん。首を伸ばして!」

「え、う、うん」


 思考が追いつかない。けれど、こうするしかない。あの時も私は同じことをしたのだから。


 私たちが逃げれば神様が死ぬ。私たちが残っても全員死ぬ。それをかいくぐり、全員助かる方法を。


 頼りなく糸のように細い可能性に、今は縋るしかなかった。


※※※


「なあ、犬神」

「………っああ?」

「どうしてお前は神なんかになってしまったのかな」

「っ、さあ、のう」

「人間の勝手だよ。あいつらは勝手にお前を犬神にして勝手にお前を神にした」


 それがどれほどの苦しみかも知らずにさ、そう言いながら覚は足の下にいる神様を踏みにじった。血が川のように地面を濡らし、それが時折差し込む光でちかりと光った。


 神様の手先は覚の手の中に。全ての手を封じられて神様が転がるのはまさに一瞬の出来事。覚は悲しい目を足元に向けながら、ぽつりぽつりと独り言のように告げていく。もうあの目に私たちは映っていない。ただ深い悲しみと諦めが静かに横たわっている。


「だから仲良くできると、思ったのに。お前なら私を分かってくれると思ったのに」

「は、ただの見当違いだろう、よ………ぐぅッ‼」

「違うよ。お前は人間に騙されたんだ。だから嫌いな人間を守るなんて考える」


 だから犬神を助けようと思った。可哀そうな犬神は自分のように利用され、いいように使われてるのだろうと。そうでもなけりゃ人間を命をとして守るはずがない。


 そう言い続ける覚が、頭の中で全部完結しているように見えた。犬神は犬神で、人間に味方することなんて、ましてや自分に牙を向けるなんてありえなくて。


 私を殴った妖怪が、どうしてかこんなはずはないと泣きわめく子どもに見えた。


「お前の一番の幸福は、私たちと共に人間を痛めつけることだ。さ、今からでも遅くない。目が覚めただろう? 痛くしてすまないね」


 さあ、「人間を殺そう」と言え。


 促す覚の声は酷く甘くて優しくて。


 そして、拒否する者を押しつぶそうとする恐ろしさを秘めていた。自分が言ってほしいこと以外認めない。そんな自己を押し付けるような傲慢さが。


 けれど神様は、血を吐きながら一際大きい笑い声をあげた。


「全てを見抜く覚が自分から目を曇らすとは、まったくもって滑稽じゃな」

「――――――」

「分かっとるんだろうがよ、覚。夢を見る時間はしまいじゃ」


 最終通告を突き飛ばす。神様は笑っていた。考えを見抜くはずの覚が、己の考えに囚われて見誤っている今の状況を。


 覚は言った。静かに、静かに。囁くような声で。


「―――分かった。ならお前が死ぬ前に、私がきちんと殺してあげる」


 上へと振りかぶられた手が彼の首へとまっすぐに落とされる。瞬間、私は上を見た。ああ、良かった。


 



「なに怪我させてんだよ馬鹿犬‼」


 重苦しくのしかかる空気をさらうように、甘く湿った空気が流れていく。覚が大声に首を上げた瞬間、その顔が驚愕の表情のまま飛ばされた。


 深い川のような青さの髪をしなやかに振るいながら、彼は私の前に立つ。


「よ、かった。間に合ったんですね」

「あの妖怪娘が首だけで来たときは何事かと思ったけどね! というか全然良くないから!」

「…………なんじゃ、水の。どうして」


 状況は最低だったが、唯一の抜け穴は覚が炎の神様に夢中になって私たちのことが疎かになったことだった。ロクちゃんの首を使って神様にここに来るよう伝えてもらったのだ。


 炎と水は相性が悪い。けど、互い抑える関係ともいえる。


「うるさいな。僕だってお前なんかに手を貸すのは癪だけど、彼女たっての願いなんだから」

「なんだ、お前、どうしてお前みたいなやつが」

「……お前がこの子を殴ったやつか」


 まるで蛇に睨まれた蛙のように、覚はその場から飛びのいた。遠目から見ても分かるほどの汗が滝のように流れている。


「ぐちゃぐちゃにしてやりたいけど、お前なんか構ってる暇ないんだよ」

「……どういう意味だ」


 戸惑うように言う覚を無視して、水の神様は横たわったままの狼に叫ぶ。きっとこのまま他の神様や妖怪が倒してしまった方が早いのだろう。けれど、彼がそういうことをされるのが一番嫌いだとから。


 だから、私は私にできることをする。


「おい犬‼」

「あ゛?」

「僕が結界を張ってやる。暴れたきゃ思う存分暴れろ」


 水をかければ炎は消える。なら、水の神様なら、被害を出さないように抑え込めるだろうと思った。冷たい風が膜のように、覚と神様を包み込む。その様子に覚は狂ったように笑みを浮かべていた。


「は、ははははっ! 言うに事欠いて、暴れろ、だと? 見てるか犬神。こいつらはお前を見捨て――――」

「神様」

 

 怒って叫ぶ覚を遮って、私は声を出す。彼を助けるやり方を、思い出した。


、名前を呼んでもいいですか」

「はっ? まさか、君」


 巫女と名前を交わすことは、普通と少し意味が異なる。神に仕える「かんなぎ」は、お互いの名前を教えることでその繋がりをより強固なものへと変えるのだ。それを昔、教えてもらった。


 巫女と名前を繋ぐこと。それは自身の霊気を伝え、神を癒し支える力。


「――――ああ、呼べ‼」


 空気を震わせるような声を受けて、私は言葉を乗せる。


 気づけば震えはもう止まっていた。

 

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