第十二話 犬神は神になる

「い、犬神いぬがみ?」

「この神様は炎の神様であって、犬の神様ではない。そう思っているね」


 倒れ伏したままの神様に触れる。まだ温かいけど、呼吸が荒くなっている。暗闇でうまく見えないけれど金属のような臭いが強くなっているようだ。


 どうしよう、ここままだと神様が危ない。それに、まだ意識を失ったままのロクちゃんもいるのだ。


 覚、そう呼ばれていた。さっきの感じからして考えを読めるらしい。


「会話をひき伸ばそうと思っているね。涙ぐましい努力だ」

「………聞いてもいいですか。犬神っていうのは」

「乗ってあげる。私は覚。思ってる通り考えを読める妖怪だ」


 毛むくじゃらの、猿にも似た姿から流暢な言葉が出てくることをどこか滑稽に思いながら、私は相手の話を聞いていた。


 乗ってあげる、と言うことは私が打開策を探していると言うことも分かっているうえで面白がっているのだろう。ちらりと様子を伺えば優し気に笑みを浮かべていた。この顔を私は見たことがある。クラスメイトと同じ顔だ。


 蟻の巣穴に水を流し込むような、弱さを楽しんでいる顔。


「犬神が何か、そう言ったね。それは元々妖怪の一種。奴は妖怪から神になった」

「神様は元々妖怪、そういうことですか」


 ならそれでいい。すぐに殺されたり食べられたりしなければ、それで。その間少しでもいいから二人を助けることを考えられれば。


「いいよ、いくらでも考えればいい。君が諦めるまで、私が先回りするだけだ」


 いきのいい獲物は食いづらいからね。そうさらりと言ってのける言葉の軽さに寒気がした。口を閉じればいつでも食べられる、余裕のようなものが口調の端々から見え隠れする。


 覚は淡々と私に言いたいことだけを伝えていく。


「教えてあげるよ。君が信頼している神様の、その正体をね」


 そうして覚は話し始める。それは私の知らない神様の話。忘れているかもしれない妖怪の話。触れた毛皮の先端が、反応するようにぴくりと揺れた。


※※※


「犬神と言うのはね、人が作りだす醜い憑きものだ」


 それを作り出すものは憑き物筋と呼ばれ、犬神を作るものは犬神筋と呼ばれた。彼らが恐れられると同時に敬われていたのは、憑き物筋を怒らせれば、呪い殺されてしまうから。


 犬神は犬か、それに近しい動物で作られる憑き物。それが炎の神様の正体だと覚は言った。


「そいつは今じゃ神だとすましているが、それは恐れられた犬神だった」


 大昔からの犬神筋が、最高の犬神を作り出した。森で他の動物から恐れられる赤毛の狼。それを使ったのだ。


「犬神がどうやって作られるか、知りたい?」

「……………」


 その先を聞いてしまうのが酷く恐ろしい気がして、返事ができない。するといきなり手首を掴まれる感触があった。身の内から焦がされるような酷い熱さが伝わる。


 その背が盛り上がるように持ち上げられるとむっと鼻につく臭いが強くなった。粘ついた鉄の、熱い臭い。体を無理に動かしたから、傷口が開いたんだ。


 彼の命が血と一緒に流れ出ている気がして、その体を両手で押しとどめる。


「おや、意外と大丈夫そうだね。腹を貫いたつもりだったんだが」

「腹って……神様っ! 駄目です、動いたら傷が」

「―――め、ろ………」

「聞かせるな、そう思っているね。いや、これは言わないでも分かったか」

「胸糞の悪い、ことを……聞かせる……な」


 その言葉に覚は笑って首を振る。神様の息遣いは荒く、どう見たって大丈夫そうには見えなかった。ばちゃばちゃと命が流れ出る音がする。


「ごめんね。私は君が嫌いだから、君が嫌なことをしてやりたい。神に堕ちた大馬鹿者だもの」

「……は、貴様は、相変わらず、妖に、誇りを、持ってるのう」


 燃え盛る橙に睨みつけられてなお覚は温度の変わらない声で話の続きを言ってのける。犬神の作り方。まるで料理のレシピを教えるように、目の前の妖怪は私たちに話して聞かせた。


「犬神はね、獣で作る。強い獣を捕らえ、飢えさせる」

「……やめろ」

「穴に埋め、目の前に食い物を置き、食いついてきたところで首を――」

「っ、やめろ‼」


 血を吐くような叫びと共に狼の腕が空気を薙ぐ。さっきまでそこにいた覚は軽やかに後ろへと飛びのいた。神様の考えを読んだのだろう。


「思い出したかい。自分がただの獣だってこと」

「やかましい。とっとと、黙らんかい」

「……知ってほしくない、そう思っているね。その子に思い出してほしくないのかな」

「知って、楽しいもんでもなかろうが」

「楽しいね。神のそんな顔を見れるのは」


 知られたくない過去なのだろう。彼は歯を食いしばり、下した手を握りしめていた。しかし、その様子になおさら笑みを深めた覚は歌うように話し続ける。


 猿の手足が地面を蹴って、踊るように数歩引く。


「だから教えてあげる。その犬神は恐ろしい奴でね、なにせ自分を作り出した犬神筋をんだ」


※※※


 それは強大な犬神になった。大柄なに体躯は逞しく、力はあり余り凶暴性も余りある。最高傑作の犬神だと、犬神筋は喜んだらしい。


 けれど彼らは浮かれて、犬神を最も恐れるべきものであると忘れていたのだ。生み出した時から彼らの恨みを買う、犬神筋に他ならないのだと。

 

「火を使う呪いは恐ろしいだろう。だからこいつは焼かれて犬神になった」


 生みの親を殺し人間を憎み、ところ構わず周囲を焼いてまわり、憎しみに飲まれた復讐の狼。そういうところが好きだったと、覚は言った。


「人間は信じるに値しない。利用して富を得たいだの、見世物小屋に売り払おうだの。そう考えてるやつほど口では『友になりたい』と抜かすんだ」

「………あなたは、人間が嫌いなんですね」

「口と頭であべこべなことをずっと聞いていたんだ。信じられなくもなる」


 だから犬神が人を焼くさまが好きだった。理不尽な八つ当たりのように振るわれる力に、胸がすく思いだった。何より、それまで自分たちの好きに出来るとたかをくくっていた人間たちの思考が悲鳴一色に染まるのは滑稽で。


「いい仲間ができたと思ったよ。けど、お前は


 覚の仲間に入れと何度も何度も声をかけたのに、犬神は最後までそれを聞き届けることはなく、それどころか人間に従ったんだと覚は続けた。


「恐れられた人間に敬われ、神になりやがった」


 それまで軽やかだった声が一変し、憎らし気なものに変わる。視線だけで彼を殺してしまえそうだった。


 覚自身は力がなく、ただ仲間を集めることに尽力していた。自分たちを利用するために追いかけ、あげく隠世へと追いやった人間たちに同じ思いをさせるために。


「私自身も力をつけたんだよ。どうだい、腹は痛かったろう」

「……食ったか、っ、は、共食いしておいて、何が、裏切者、じゃと」

「反抗的な奴をいくつかね。最近は霊気がある人間も減ってきてて困るよ。餌の役割すら果たそうとしない」

「そりゃ、……貴様らなんぞに、食われるためじゃあ、ないからのう」

「黙ってろよ裏切者」


 人を食い、妖を食い。覚は仲間と共に力をつけていった。報復を夢に見ながら力を蓄え続けていたのだ。そんな時、転機が訪れる。


 神として祀られていた犬神を代が変わり、人間たちが粗末に扱い始めたのだ。元々神としての名を貰えていなかった犬神は存在が不安定だった。それゆえに神としての意識が揺らぎ始め、彼は犬神へと戻ろうとしていた。


「これは運命だと思ったさ。犬神の力と憎しみがあればもっと早く酷いことができる」


 喜びながら覚は待った。神に堕ちた犬神がこちらに戻ってきてくれることを待って、待って、待って。後もう一押しだと思ったその時。


「お前が現れたんだよ」

「………私が?」

「そうだ。幼いお前が邪魔をした」


 酷く冷たい声で、覚は告げる。私が犬神を神様へと引き下ろしたと、目の前の妖怪は言っていた。「あともう少しだったのに、お前が犬神を神へと引き下ろしやがった」と、私に聞こえる声はとげとげしく荒っぽい。


 笑いを取り繕わなくなった目が私へと向いた。そこの見えない沼のような暗さが怒りを孕んで、私を見つめている。


 どうやってやったのかは分からない。おそらくそのころの記憶がすっぽり抜け落ちているのだから。


 殺意が、私に注がれる。


「お前が邪魔をしたから、犬神は神に堕ちた。本当なら私たちの仲間になるはずだったのに。お前がいたから。お前さえいなければ」

「――――――っ!」

「だからお前を消し喰いにきた」


 巫女であり、霊気もある。消せば犬神は妖になる。一石二鳥とはよく言ったものだと覚は笑う。目の焦点がふいにぶれる。


「何をしたのか分からない、そう思っているね。そんなことできる訳がない、そう思っているね」


 だがお前はそれをしたんだ。ぐるりぐるりと眼球を回しながらは続ける。鋭い爪を前へと構え、その先端を私の喉へとぴたりと据えた。

 

「お前がやった。だから犬神は人間お前なんかを守っているんだ。人間なんて価値のないもののために体を張るんだ。だから―――、目を覚まさせてやりに来た」

 

 私さえいなくなれば犬神に戻ると、そう信じている声色でぎらついた視線が私を貫いていく。


 お前は犬神を神へと縛り付ける鎖だと、人間が憎い妖はそう言った。


「だから、死ね。私のために、私たちのために、糧になって――」

「―――ごちゃごちゃごちゃ、やかまっしいんじゃ‼」


 ぶおん、と爪が三日月形に振られ暗闇に白い線を描いた。ぼたりと血の塊が地面に広がった。大きな背が揺れながら私の前に立つ。あの視線から私を覆い隠すように。


「まだ目が覚めないのか。犬神、なあそいつがお前を縛っているんだろう。今すぐに戻してやるからな。分かってくれるだろう。一緒に人間に復讐するんだ、なあ」

「…………犬神犬神犬神と、昔の名で騒ぐ出ないわ」

「――――昔?」


 体を動かさずに覚の目が神様に向く。信じられないことを聞いたと言いたげにその目に感情が現れる。


 神様はそんなことなど知らんと言うように、背を伸ばしてどしりと仁王立つ。ふんと鼻を鳴らしながら、呆然とする覚へ言葉を叩きつけた。


「確かに元は妖じゃ。だが、今のわしは神に他ならん」

「うるさいお前は犬神だ。お前は騙されてるんだ!」

「生憎、しつこい奴は好かんもんでのう。仲間が欲しいなら他を当たることじゃな」

「犬神、犬神――――!」

「やかましいのう。わしは炎の神じゃ。それに――」


 ぐっと力強い手に引き寄せられる。神様は高らかに笑った。


「決めた相手はここにいるんじゃ。やりたきゃお仲間と勝手にやることじゃな!」

「――――――っ、おま、お前ぇぇぇぇぇぇぇっ‼」


 妖の慟哭が暗闇に響く。肩に伝わってくるのは痛いほどの熱だった。

 

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