第十一話 やったらなんかできました!
目を閉じて、深く息を吸う。お腹の中心に光が集まってくる様子をイメージして、前に手を出す。体の中心があったまってきたら、それを焚きつけるように温度を上げていく。途中ガチンなんて歯と歯を勢いよく噛み合わせた音なんて聞こえない聞こえない。
「きひゃひゃひゃ! なんだ神ってのはその程度なのかヨ! そこらの獣と変わらねえなァ!」
「その獣に爪先が掠っとすらないのはどこの猿かのう」
「守りながらなんテ、神が随分悠長じゃねえカ!」
金属がかち合う音も聞こえないし間近の息遣いに聞こえないふりをしながら、私はただ集中する。不安ではある。だけど今は悩んでる暇なんてない。作戦通り、神様が目を引いているうちに。
お腹がぽっと灯がともる。じわじわと温みが全身を膜のように覆って、喧騒が徐々に遠のいていく感覚。神経が一本の糸のように細くなり、暗闇の中に伸びていく。
静まり返った時、遠くから微かな泣き声が聞こえた。か細い「助けて」と「ごめんなさい」。
―――見つけた!
後はこれを引っ張り出すイメージで、まとわりつく黒いもやを
「役立たずの子守は大変だなァ、え?」
視界が乱れる。掴みかけていたものが四散し、胃を冷たさが撫でていった。どうして、聞きたくないことばかりが聞こえてくるのだろう。
その言葉が嫌いだった。本当に、私はなにもできない気がしてくるから。
聞くな。聞いちゃだめだ。思考を乱すな、考えを止めるな。
そう考えているのに、言葉の続きを拾うことがやめられない。ロクちゃんの声で猿神は笑った。
「餌を後生大事に守ってどうすル。喰わないでどうすル。
駄目だ。もっと、もっともっともっと集中しないと。そうしないとあの子を助けられない。けれど思考を猿神の言葉が乱していく。集中の糸がほぐれ、バラバラに散っていく。
いけない。閉じ込めていた言葉が、蓋を開くように広がって私の頭を支配する。水に落とされた一滴の色水は、簡単に私の脳みそに浸透して染みついて。
【なにもしなくていいわ、もう期待しないから。だってあんたは――――】
いてもいなくてもどうでもいい、役立たず。
「阿呆」
「いでっ⁈」
おでこへの衝撃に思わず目を開いた。目の前には呆れた顔の狼がいる。痛みでわだかまっていた考えはあっという間に飛んで行ってしまった。
「なにごちゃごちゃ考えとる」
「か、神様―――!」
「戯言に付おうとる暇があるんか? 集中せい」
「は、はいっ。すみません!」
そうだ、こんなことをしている場合ではない。しっかりしないと。けれど心ばかりが急いてしまってうまく落ち着けない。そうこうしている間にも脳みそのおくで「役立たず」が繰り返される。
本当に私なんかができるのか、何もできずに足を引っ張っているだけじゃないのか。私の勝手で神様に迷惑をかけているのではないだろうか。
しかし、思考のるつぼにまた足を踏み入れかけた私を、神様の声がひき戻す。
「よく聞け、あれは小物じゃ」
「………おイ、なにふざけたことを」
「わしが片手間で相手できるくらいじゃ。だから、あー、なんじゃ」
急に神様が喧嘩を売り始めた。何をしたいのだろうと目を瞬かせていると、彼は大きな手でがしがしと頭を掻く。
「迷惑とか足手まといとか、いっちょ前に気ばかり回すないわ」
「…………!」
無視してんじゃネェ! 痺れを切らし飛び込んできた猿神を、彼は軽くいなすと私に向いてこう言った。
「見とれ。心配は無駄じゃったと、せいぜい目に焼き付けることじゃ」
瞬間、猿神の肩を踏んだかと思えば跳ねるように躱す。木の枝へしなやかに飛び乗り、「どうした、こないのか」とでも言いたげに人差し指をちょいちょいと動かす。
猿神が息を撒き木に移れば、狼は枝から枝へと飛び移っていく。後ろから殴りかかった猿神を首の傾げ一つで躱し、逆に腕を絡めとって柔らかな草地の山へと放り投げた。
怒りに顔を歪める猿神とは反対に、余裕さえ感じられる動き。炎も殺意も見えない戦い方は、一目でロクちゃんの体を気遣っているのだと分かる。
私の不安なんて吹き飛ばしてしまうほどに、彼は場を圧倒している。
神様が私に言った。
「臆すな。お前の命、この神の手にある。……やると決めたんじゃろ。ならちゃっちゃとぶちかまさんかい!」
「っ、はい!」
「お前ッ、まさか本気で―――!」
目を閉じる。もう不安はなかった。あの神様が私を守ってくれると言ったのだ。怖がる必要は、ない。その働きに報いるように、できることをするだけだ。
息を、深く吸って吐いて。瞼の裏に目を凝らす。木々のざわめきが、彼らの声が遠く遠くなって行く。
――――――見えた。
「ロクちゃん!」
「ひっ、う、うぅ……お、おねえちゃん?」
「……助けに来たよ。帰ろう、ヒトメ君が待ってる」
久しぶりにみたろくろ首の女の子は、泣いて擦ってを繰り返したのか目が赤くなっていた。潤んだ瞳が見開かれ、長い首がゆるりと伸びて私を見つめる。目の前に私がいることが信じられない、そう言いたげだった。
今度こそ彼女の手を取り、引き寄せる。黒いもやが引きはがされるのと同時に苦しみもがくように形を作っていった。
「やめ、やめロ……! 餌風情が、生意気ナッ!」
「―――猿神」
「返せ、返セよっ! 俺の体、俺の、姿、俺の――」
もやは彼女より一回り小さい姿となった。黒いもやの集合体なので顔は見えなかったが、腕と思われる部分がこちらに伸びていた。取り返そうとするように空を掻き、声が不安定に揺れている。
「ちくしょう、俺ハ、強くなるんだ。妖怪を、人を、神を食っテ、そう約束してくれたのに―――!」
彼らから見て私は栄養満点の食料品でしかないのだろう。食べやすく、その上力が手に入る血肉。覚えはないが、私が巫女だからなんだろう。
手を前にかざす。這いずるように近づく猿神に、口が知らない言葉を話す。同時に、相手の思いが濁流のように流れ込んできた。現世での行いに、散り散りになった仲間たち。悔しさ、力へのあこがれ。やり方を示す声。
「……災いありて、御霊は堕ち穢れた」
隠世では妖怪と神様は仲良く暮らしているように見えた。猿神だってその中の一人だったはずだ。
「黄昏の如く陰り、さまようもの。なれば御霊を解放せんこと
「うルさい! 俺、俺はただ強クなりたかった。誰にも、馬鹿にサレナいほど、強く、強く強く強く!」
それが力に執着し、そのためなら何をしても構わないと願った。力のために人を、妖怪を襲い、害する。力のために全てを捨て去る。
倒されて体を無くし、とり憑くことでしか姿を保てなくなりながらも歩むことをやめなかった。やめられなかった。
欲していたものに飲み込まれていた妖怪を、私は哀れに思う。
「大祓の儀をもって、御霊を眠りへと導かん」
「俺、俺は、俺は―――」
どうして、力を求めていたんだっけ。
猿神が消える瞬間に残した言葉は呆然としたようにも、ほっとしているようにも聞こえた。目的が見失われ、ただ力を求め拒まれる。その時間はどんなものだったのだろう。
私は光の粒子となり浄化されていく魂を見送った。と、私の手をロクちゃんが掴む。
「そうだね、早く戻ろうか」
柔らかい手をしっかりと握り、浮上する。炎の神様がきっと待っていてくれるはずだから。
※※※
目を開けるとあの森の中だった。炎の神様は小脇にロクちゃんの体を抱えている。ピクリとも動かない姿に冷汗が流れた。
「か、神様、ロクちゃんは」
「安心せい。眠っとるだけじゃ」
そう言われよくよく見ればおだやかに寝息をたてていた。ほうっと安堵が押し寄せてくると同時に地面にへたり込んでしまう。「おっと」と神様の大きな手が下からすくうように私を支えてくれた。
膝が笑っている。今になって恐怖や焦りがどっと溢れてきたようだ。
「なんじゃ、腰でも抜かしたか」
「な、なんか神様の顔見たら安心しちゃって……」
「―――そうかの」
ふいっと顔をそらされると同時に、腰を抱えるようにして立たされる。ああ、終わったんだ。隣に立つ頼もしさに涙が出そうだった。柔らかな毛並みが、触れる肌に熱を伝えてくる。
「どうじゃ、やればできるもんじゃろう」
にっと笑いかけた神様に頷き、一歩踏み出す。けど、そこで安心するべきじゃなかったんだ。終わったと、思うべきじゃなかった。
神様が私を突き飛ばし、驚いた瞬間に目の前の顔が苦痛に歪む。
神様、そう叫んだ時に私は後ろの存在に気づいた。毛むくじゃらの腕に鋭い爪。同じく毛に覆われた顔は確かに笑っていた。
「どうして、誰もいなかったのに。そう思っているね」
「――――っ⁈」
「なんで思ったことが分かるのか。そう思っているね」
変わらない笑顔で告げられるのはどれも話していないことばかりで、胃をかき混ぜられるような気味の悪さを感じた。
と、毛むくじゃらが飛びのく。その後に神様の腕がからぶった。
「こいつに触るな。そう思っているね」
「……そのいけ好かん物言い、
「なんでこんなことをするんだ。そう思っているね」
気味が悪い、と率直に思ってしまった。覚と呼ばれた毛むくじゃらはにこにこと笑顔のまま、淡々と事実だけを述べていく。
「私はね、妖怪はもっと力を持てばいいと思うんだ。ほら、今の妖ってみんなぬるいから」
だからね、勧誘に来たんだ。君なら分かってくれると思ったから。
繰り広げられる会話はまるで一方通行だった。炎の神様がうずくまりながらも顔を上げる。鼻先につんと鉄さびの臭いがした。
「君なら、分かるだろう。ね、犬神」
私が知らないことが、今目の前で暴かれようとしていた。
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