第八話 そんな能力知らないですけど?

 店に戻ると茶碗さんが慌てた様子で飛び出してきた。彼は私を見ると深く安堵したように肩を下す。すぐに戻ると言っていたのに結構待たせてしまったからだろう。ロクちゃんのことも気になるけれど、今は平常心を保たないといけない。


「お嬢、無事だったんですね!」

「ごめんなさい、遅くなっちゃて」

「おい、これのどこが無事に見えるんだよ」

「別に大丈夫ですよ」


 頬についた傷を指しながら水の神様が不機嫌に言う。傷と言っても浅い切り傷だし、放っておけばかさぶたになるはずだから騒ぐこともないと告げると、茶碗さんは薄紫の茶碗を左右に振った。


「いえ、確かに傷は塞がりますがそれでも痛むでしょう。薬を取ってきます」

「いや、でもこんな小さい傷なのに薬なんてもったいないかな、って」

「傷の大きさは関係ないよ」


 包丁で怪我したとき、小さな擦り傷ができた時。騒がなくても放っておけば自然に治癒するのだから大丈夫。薬を使うのはもったいないから。そう言われて今まで

ずっと平気だったのだから。


 けれど、神様は真剣な眼差しで私に言い聞かせるのだ。


 痛いんだろう、と彼が言う。切られた箇所が熱をもってじくじくと痛む。けど、我慢していれば済むことだ。


「薬はね、痛みを和らげて傷を早く治すために存在するんだ。それが使えるのに使わないなんて、いつ薬を使うの?」


 茶碗さんが差し出した薬壺を手に取り、神様の指が頬を滑っていく。つんとした薬草の匂いが鼻を刺激した。


「もったいないなんて言わないで」

「……はい」

「怪我をして、痛いなんて当たり前でしょ。いくらでも使えばいいんだ」


 ひんやりとした軟膏が傷口の熱を奪っていく。痛みが和らぐと同時に、言われた言葉が温かい雨のように体の中に落ちていった。


 痛いのは当たり前だ、そう放たれた言葉は心で泣きじゃくる小さな私の頭を撫でる。そうだ、「もったいない」は私を放っておく言葉だから。そう言われることが嫌いだった。


 いつしかそれも忘れて、痛いと言うこともやめてしまっていた。何を言っても無駄だから、納得させるための諦めだった。こくりと頷くと水の神様はにこやかに笑った。そして、そのきれいな笑顔のまま私の両肩を掴む。


「で、君にそんなこと言いやがった奴はだあれ?」

「ひえっ」

「大丈夫大丈夫。容姿年齢名前さえ教えてくれたらあとは僕がやっとくから」


 絶対大丈夫じゃない。絶対大丈夫じゃないやつだこれ。


 すこぶるいい笑顔でそう言ってのける神様。「やっとくから」が「殺っとくから」に聞こえるのは絶対気のせいじゃない。


 ぶんぶんと口を一文字に引き結んで首を振っていると「店の前で何してるんだい」と神様の頭にチョップが下る。


「ツクモさん! もう帰ってきたんですか?」

「ああ。ちょいと面倒なことになってね、急いで伝えようと思ったら……どうしたんだいその傷」

「ええと、ちょっと色々ありまして……」

「なるほど。こっちでも何かしらあったってことかい」


 ツクモさんが私と水の神様を見比べながら話を続ける。針の周りがいつもよりも早い。何か焦っているのだろうか。


「とにかく、あたしが聞いた話の内容を共有しときたい。皆も聞いてくれ。非常事態だ」


 隠世の顔役である彼がそう言ったので、周囲は騒然となった。何が起こったのか不安になる私にツクモさんは冷静に私に言い聞かせる。


「ユキも念のため何が起きたか教えておくれ」


 ここで何かが起ころうとしている。そのことだけが確かな事実だった。


※※※


 流石の広い奥座敷も妖怪と神様たちが揃うとぎゅうぎゅう詰めだ。皆の視線が集中する中、私はさっき起こったことの一部始終を話した。周囲から息を飲む音が聞こえ、ロクちゃんの話に夫婦が顔を覆う。彼女の家族だろうか。


「そうか、ロクが。お前の見立てでは乗っ取ってるのは猿神だな?」

「そ。早太郎とかなんとか言ってたし間違いないよ」


 猿神と言うのは猿の姿をした妖怪で、大昔に人間から生贄を貢がせていたらしい。その後早太郎という犬に退治されたとのことだ。


 神様に続いて私も口を開いた。そのことでどうしても伝えなければならないことがある。


「……なんか、大将への手土産とか、そういうことも言ってました」

「なるほど、単独で動いているわけでもなさそうだ」


 まるで統率者がいるような言い方だった。それを聞いてツクモさんは頷く。顔を上げ、皆に向き直った。


「皆聞いておくれ。今回ロクにとり憑きユキを襲ったやつと、今日聞いてきた話は、多分とあたしは睨んでいる」

「え、集会で聞いてきた話とですか?」

「ああ。最近ここいらを荒らしまわる奴がいるってんで開かれた集会だったんだが」


 何か問題が起きた時、隠世では時折妖怪や神様を交えて集会が行われる。ツクモさんはまとめ役としてその集まりに顔を出しているらしいが、そこで妙な話を聞いてきたという。


「どうも他所でも似たようなことが起きているみたいでね」

「似たようなことっていうと、とり憑かれたってやつ?」

「ああ。まるで性格が変わったように豹変し、周囲の妖怪を襲ったらしい」


 それはどれも年若い女妖怪であり、そんなことをする奴ではなかいと皆が口を揃えて言うような子ばかりだと言う。そんな彼らが仲間を襲ったのだ。今回の集会もその話で持ちきりだったという。


「一部の妖怪たちが妙な動きをしてるという話もあるしね。こちらは噂程度だが」


 こうして問題を解決すべく開催される集会だが、その噂が本当なのか集まりが悪いらしい。ツクモさんは私の話を聞いて「噂程度が実に真実味を帯びたじゃないか」と言った。


「それで、あの、その変わっちゃった子たちってどうしたんですか」

「…………正直に言うよ」


 嫌な予感がした。当たってほしくない時に言われたくない時に、ぴたりと当てられる感覚。絶対にそんなことはないと信じたいのに。


「今のところ、憑かれている妖怪が元に戻った報告は、

「――――――それ、ほんとか?」


 呆然としたような幼い声だった。驚いて振り返れば、一つ目の男の子が目を大きく開けてツクモさんを見つめている。


「ヒトメ、お前どうしてここに」

「……大人たちが集まってるから、ひょっとしてロクのこと話してるのかなって、思って」


 嘘だよな、ロクが戻らないなんて。縋るような眼差しを時計のガラス面が映し出す。ツクモさんは黙ったまま、顔を伏せた。


「本当です。酷なようですが、止める方法は体ごと壊すしかない、と」

「駄目だ! そんなことしたらロクが死んじまうよ!」


 壊す、ということはロクちゃんの体ごと。改めて突き付けられる事実に体が震えた。ついこの間まで、一緒に話して笑っていた女の子を殺す。残酷な真実がヒトメ君を突き刺していく。


「………苦渋の判断です。他の連中だって好きでこんなことしてるわけじゃない」

「嘘だ、嘘だ嘘だ嘘だ!」

「ヒトメ。被害をださないためなんだよ」

「――――――やだ」


 ぼろぼろと大粒の涙をこぼしながら、彼はついに畳に倒れ伏してわあわあと泣き始めた。つとめて冷静な声を出し続けているツクモさんの手がぎち、と音が出るほど握りしめられている。


 ここにいる全員が同じ気持ちだと思った。たった一人の可愛い子を助けることも出来ず見殺しにする選択肢。選びたくないことなのに、それしか選択できないこと。酷く重い空気が座敷内に満ちていく。


 しかし、それを打ち壊す軽い声がぽんと部屋に落ちる。


「あーあ。なんでこんなしみったれた空気出すかなあ。これだから妖怪は」

「……お前。今は黙っていておくれ」


 今何もそんなこと言わなくても。そう言いだしたいのに声が出ない。そうしている間にも水の神様は手毬のようにぽんぽん言葉を連ねていく。


「嫌だよ、空気が重いったら。たった一人妖怪が消えるだけだろ? いいだろお前たちも僕たちも、替えはたくさんいる」

「水の神っ‼」


 黙れ、とツクモさんの全身が言っていた。針が聞いたこともないような音を上げ、感情の見えないガラス面が怒気で光ってすら見える。怒りの空気に押しつぶされてしまいそうだ。


 けれど神様は相も変わらずに流れる水のようで、一波もたたせずにさらりと返答する。


「そりゃね、僕は妖怪が嫌いだから。人間をおもちゃ程度にしか思ってなくて、食べることと遊ぶことしか考えない連中なんてどうなっても構わないさ」

「お前、いい加減に―――――」

「でもユキはそうじゃない」

 

 風向きが変わる。ぽかんとした表情の前に、神様は立て板に流した水のようにすらすらと言葉を並べていった。


「まったく忌々しいことこの上ないけど、彼女は忘れているからだろうけど、あいつらをユキは友達って言ったんだ。友達が死ぬことは望んでないって」

「……神様」

「僕はね、ユキが幸せだって感じることをしたいんだ」


 だから僕は彼女の友達を連れ戻す。神様はそう言い切った。その言葉を皮切りに、部屋の空気が流れていく。重苦しく停滞したものから、小さな希望に向けての流れへ。「そうだ、まだあきらめるには早い」と、口々に皆が言い始めた。

 

「まだやってない手があるかもしれないだろう」

「猿神だっけ? そいつの嫌いなものとか見せたら追い出せたりしないかな」

「何もやっていないのに娘を死なせてたまるもんですか!」


 ささやかな声は繋がり、くっついて、より大きなものとなっていく。そうだ、まだ私たちは何もしていない。「まだやり方が分からない」と言うのを聞いただけで、手がないわけではないのだ。


「わ、私にも手伝わせてください! 微力かもしれないけど、何か役に―――」

「あるぞ」

「え?」

「よう言った。お前にその気があるなら安心して話せるからの」


 声のした方を見ると、座敷の隅っこであぐらをかいている狼がいた。私の言葉に尻尾をばさりと振ると、爪の先で私を指す。


「微力どころか、お前は大役じゃ」

「へ、た、大役?」

「そうじゃ。猿神に憑かれた奴を引きはがすには浄化の力が不可欠じゃからのう」


 浄化の力。なるほど、それを使える誰かを探せばいいんだな。そう思い意気込む私だったが、次に続いた言葉に己の耳を疑った。


「なにせ、じゃ」

「…………は?」


 私の? 私のって言った今。


「さ、力を目覚めさせるべく頑張るかのう。なあ、ユキ」

「待ってくださいそんな能力知らないですけど⁈」


 そんな特殊能力設定いつ私に着いたんですか‼ 突然に告げられた未知の能力にロクちゃんを助けられるという希望の中、頭は混乱の渦に飲み込まれていくのだった。


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