第七話 知らない妖怪と操られた友達
「うわぁっ⁈」
「き、ひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃッ‼」
間一髪だった。咄嗟に身をよじると、数センチ横でガチンと金属が強くぶつかるような音が鳴る。横目に白く浮かび上がるそれは、歯だった。あと少し遅かったら。肩を食いちぎられる想像にぞおっと血の気が引く。
「あぁ、もう少シ、だったんだケどなぁ」
「……ロクちゃんじゃあ、ないよね」
見た目は確かに私が知っている女の子だ。けれど横に大きく開いた口も、私を見つめるぎらついた眼差しも、あの子にはなかった。
ロクちゃんのふりをした何か。頭の中でそう結論付ける。
「あなたは誰。ロクちゃんをどうしたの‼」
「人間、ダ。お前、人間。人間ダろ」
がくんと少女の首が曲がる。駄目だ、話が通じないタイプな気がする。人間人間と騒がしいロクちゃんもどきに対し、震える足を引きずるように距離を取る。これには近づかない方がいい。頭がそう警鐘を鳴らしていた。
とにかく気がそれた隙に一気に森の入り口まで走ろう。そう思った時、頬に何かが垂れていることに気づく。
「ぁア、うまい。力が、溢レる…………!」
鉄さびの臭い。ぬるりとした感触に血が出ているのだと分かる。避けきれていなかったらしい。ロクちゃんは、ロクちゃんの皮を被った怪物は笑っていた。笑って、三日月形に伸びた指を舐めしゃぶる。
「あは、大将殿の言った通り。人間の中でも、特上ダ。巫女の血は」
「………巫女?」
巫女と言うと、神社とかにいる巫女さんのことだろうか。けれど私は巫女ではないし、でもここで血を流しているのは私だけ。こいつは何を言っているんだ?
疑問が頭に浮かぶ間にも相手は血を舐めとりきり、高らかな笑い声をあげる。
「あ、もっと、もっトほしい。もっと‼」
「―――――、来ないで!」
素早く伸ばされる腕。咄嗟に出た言葉は虚勢ばかりの拒絶だった。しかしそれは何の役にも立たない、はずだった。
瞬間、白い閃光が目の前に弾ける。
「ッ、ぐ⁈」
「え? 今……」
バチッ、と激しい衝撃音と共に目の前の何かが腕を弾く。まるで、私の前に見えない壁があるようだった。
怪物は忌々し気に私と腕を見比べる。
「チッ、否定の呪いカよ」
呪い。それが私を助けてくれたのだろうか。ぶらりぶらりと腕を振るう怪物。チャンスは今しかない。そう思い駆けようとした、けれど。
「おねえ、ちゃ………」
「――――ロク、ちゃん?」
「おねえちゃん、助け、て、おいて、かないで」
その声は、顔は確かに彼女の物だった。縋るように伸ばされた腕に思わず足が止まる。私ではどうすることも出来ないのに。ほんの一瞬、私は確かにあの怪物をロクちゃんと認識した。
気づいたときにはもう腕が迫っていた。否定の呪いは発動しない。何故ならたった一瞬、あの怪物をロクちゃんと感じたから。受け入れてしまったから。
この呪いがそういうものであると、どうしてか私は知っている。
「大将殿へのいい手土産ダ。きひゃ、きひゃひゃひゃひゃひゃひゃ!」
確実に肉を抉りだそうとする爪が私の喉先に食い込んだ。獲物を狙う目が私を捕らえる。あ、本当に死んだかも。
「大丈夫、じゃないね」
細い指先に頬をぬぐわれた。べとりと血の赤が付いたのを見て、黄金の目が鋭く細まる。
「か、神様」
「ごめんね、遅くなった」
さあっと通り抜ける風。木々がざわめき、開いた隙間から光が差し込む。鬱蒼とした森の中なのに水の匂いがした。冷たい空気が興奮してまとまらない思考を鎮めていく。
「……満ちろ、満ちろ」
「な、お、おまぇ――――――ッ‼」
冷静な声が落ちていく。耳が痛くなるほどの静けさが、空間を満たしていた。ひんやりとした冷気が私の隣から漂ってきた。
怪物の顔が驚愕に歪み、跳ね退く。その間にも彼の言葉は流れる水のように止まらない。風になびいた絹の髪が光に透ける有様は、まさにこの世の物とは思えない程美しかった。
「満ち足り、地を潤し、溺れよ」
「待てっ、この体はお前たちの仲間なンだぞ⁈」
「あいにく妖怪は嫌いでね」
あくまでも冷徹に、金の眼が光っていた。私が止める暇もなく白い指が何かを救い上げるように動く。
「
「――――――が、ふッ」
彼が呟くように言った途端、怪物の口から水が溢れ出す。ばちゃばちゃと水しぶきを上げながらそれらが地面を濡らしていく。怪物の目は驚きに見開かれ、意志と関係なく喉を占める水に溺れていた。
自らの体からこみ上げる水に手が空を掻く。目の前の怪物は地面の上で溺れようとしていた。苦し気にもがく声を聞いて思考がようやく戻ってくる。
「か、神様っ! 待って!」
「止めないで。こういうやつはさ、消えないと分からないだろうから」
「駄目です! だってその体はロクちゃんの」
「………なんで? 君を食べようとした妖怪だよ?」
ぞっとするような瞳だった。感情の見えない色に、彼が神様であったことを再確認する。底冷えする目に一度後ずさりかけるが、ヒトメ君のことを思い出し。体を奮い立たせた。
「だって、あの体はロクちゃんのもので、さっきだって助けを求めてたんですよ」
「妖怪は嘘つきだからね。それだって君を騙す演技かもしれない」
「でも、ただ操られてるだけだったら」
「そうかもしれないね。でも、僕は君が無事ならどうでもいい」
妖怪に良い奴なんていないよ。そう言い切る水の神様。本当にこの神様は妖怪のことが嫌いなんだ。身に覚えのない執着に寒気を感じながらも、口を開く。ひょっとしたら彼の言う通り、ロクちゃんが嘘をついているのかもしれない。その可能性を考えて、殺すという判断はきっと適格なんだろう。
けれど、ロクちゃんが助けを求める顔は苦しそうで、泣きだしそうだった。きっとここで諦めたら、私は一生後悔する。
押しつぶされる空気にあらがって、私は声を張り上げた。
「……神様は、私に幸せになってほしいんですよね」
「うん。そうだよ」
「友達が死ぬことを、私は望んでません」
「――友達?」
「ロクちゃんは私の友達です。だから殺してほしくないです」
その言葉に彼は驚いたように固まって、やがて苦虫をかみつぶしたような顔をする。そしておもむろに指先から力を抜いた。べしゃ、と音をたてロクちゃんの体が水たまりの中に崩れ落ちる。
「君が言った願いは、尊重するよ」
「………ごめんなさい」
「まさか最初が妖怪がらみなんて思いもしなかったけど」
申し訳なくはある。多少荒っぽく見える解決方法だが彼はあくまで私を助けようとしてくれたのだから。彼女を助けたいと思うのは私のわがままだ。あの顔を見て見捨てることのできなかった私の弱さ。
けれど神様は柔らかく笑って、「そういうところは本当に変わらないね」と言った。私の知らない幼い私の話は、時々本当なのか分からないことがある。小さい時、私は誰かを助けようと動ける子だったのか。
「………は、乱暴な神だなァ。もう少しでこの体は死ぬとこだったゼ」
「優しいこの子に感謝しろよ。クソ妖怪」
濡れた体を引きずるように持ち上げながら、ロクちゃんの中にいる誰かが軋んだ笑い声をあげる。そこから目を離さずに神様が身を乗り出した。
「せっかく拾った命だ、捨てたくはないだろう。大人しくしろ」
「きひゃ、そんな指図聞くと思ウか? せっかク早太郎がいねえとこに来たってのに」
「……早太郎、ってことはお前、『猿神』か」
猿神、と言うことは神様なんだろうか。けど水の神様の警戒は解かれていない。猿神と呼ばれた相手はけらけらと笑った。
「もうチょっとで味見できたのによゥ」
「どいつもこいつも食うことしか考えられないのか。だからお前らは嫌いなんだよ」
「誰だって目の前にゴちそうがあったら飛ビつくもんだろう? それで力が沸いてくるならなおさらだ」
「………あんまり僕を怒らせるなよ」
ごちそうっていうのは多分私のことだ。さっきも血を舐めて似たようなことを言っていたし、私には食べたくなる何かがあるのかもしれない。全く嬉しくないけど。ピリつき始めた空気に咄嗟に口を挟む。
「ロクちゃんはその中にいるんですか」
「ああ、当たりサ。そいつの命はまだこの中にある」
「おい猿神。さっさとその体の主を解放しろ」
「そいつはできなイ相談だな。出ていったらお前は私を八つ裂きにするだろウ?」
無理にでも引きはがす手段を見つけてからえらそうにしろよ、そう言うと猿神は身軽に木の上へと飛び移った。引き裂かれた着物の裾が闇に揺れる。
「ごちそうのねえちゃンが食わせてくれるってなんならまた来てやるヨ」
そう言い残して、猿神は闇の中に消えた。ロクちゃんの体を連れて。
事態はなにも好転しないまま、私は神様に連れられて森から出た。猿神が言っていた巫女や、うまそうという単語。分からないことばかりが積み重なる中、ぼんやりと茶碗さんへの謝罪を考えていた。
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