第4話 水浸しの橋の上で語らう二人
ギルドフルーレは、周囲を遠浅に囲まれた孤島に建っている。
だから、半ば金払ってまで頼まれた観光案内――俺はされる側な――はこの孤島ではなく、本島に在る観光の街、エルメルリアを指している。即席の依頼書にも、そう書かれていた。
しかし……。
俺は足を止めていた。
目の前には、水没した橋。
ギルドフルーレは、この橋一本で、本島と繋がっている。
俺がここを通ってきた時、こんなことにはなっていなかったはずなのだが……。
「潮だよ」
頭の中を覗かれたように、後ろから声をかけられた。
振り返ると、パミュが慌てて目を逸らす。
だから何でそんなに嫌われてるんだよ、俺は。
日本にいた頃の俺ならともかく、今の俺は完全無欠のはずなのだが……。
俺の疑問をよそに、パミュが指を一本立てた。やはり顔は伏せていた。
「潮の関係で、ここは時間差で沈むの。昨日は新月だったでしょ? だから今日は大潮なんだよ」
「ふーん」
「だからー」
バシャバシャと、パミュが先に駆けて、振り返った。
水しぶきがパミュの前で舞っている。
笑顔で、腕を背中に組んでいた。
こいつの笑顔は初めて見たが、どこか、無理しているような、そんな笑顔だった。
「だから、そーんな変な格好しているあんたは、靴がビショビショになっちゃうんだよ? や、やーいやーい」
パミュの靴は、女物のサンダルだった。
対して俺の靴は、冒険者用の、厚手の靴だ。
パミュは手をパタパタと振りながら、俺のことを罵ってきていた。
俺は雲ひとつない青空を見上げながら、小首を傾げた。
やれやれ。
足を、海につける。
海に足をつけたまま、その足を前に。また前に。
「え……」
海の上で波紋が起きていた。
俺の足は、沈んでいない。
雪踏み。水を魔力で凍らせて、その上を歩く、魔術師の歩法である。ちなみに俺が踏みつけた結氷は、海の神意に呑み込まれ、沈み、溶けていった。
足を濡らすことなく、パミュの元までたどり着く。
「残念だったな」
「むーっ」
パミュが頬を膨らまして唸っている。
さもしい女だ。
普通こういう時って『すっごーい』とか『何それ何それー』みたいなコメントがあって然るべきなんじゃないの?
何故俺の足をわざわざ濡らしたがるかね?
意味がわからん。
会話もなく、響く足音二つ。
パミュが海の『中』を歩く音。
俺が海の『上』を歩く音。
真下を見る。
輝く海。
パミュの白い足が蒼い海をかき混ぜる度、透明の雫が宙を舞う。
俺は思うところがあって、目を上向けた。
余談だが、俺は何か考え事をする時、目を上向ける癖がある。
その間も、俺は足を回していた。
「はぁ」
俺は足を止めて、ため息をついた。
パミュが振り返る。
チャポン。
海の中に両足を沈み込ませる。
靴の中に海水が入り込み、これ以上なく気分が悪い。
靴下までビショビショだ。
何をやってんだか、俺は……。
思いながらも、やっちまったものはしょうがない。
バシャバシャと、足で水を汲み上げながら、パミュに追いつき、追い抜かす。
しばし呆然としていたパミュが、後ろから駆けてきて、隣に並んだ。
「ねぇねぇ」
「んー?」
「どうして……海の上を歩くの、やめちゃったの……?」
振り返る。
パミュが、何やら申し訳なさそうな顔をして、見上げてきている。
どっちに転がしても喜ばないやつだな、こいつは……。
「別に。ちょっと疲れただけさ」
目を逸らしながら、俺は言った。
嘘だった。
本当は、女が足を濡らしているのに、男の俺が足を濡らさないのはどうなんだ、と思っただけだった。
何だその気遣い、と嘲笑されたら、ぐうの音も出ない。
俺はなんつーか、こういう優しさというか、気遣いというか、そういうのが苦手な男なのだった。
バシャバシャ。
バシャバシャ。
二人揃って、足を濡らしながら、足を回す。
まあ俺の場合、被害甚大だが、サザーランドは死念濃度が薄い。端的に言えば暑い。陸地に戻れば、すぐに乾くだろう。
「ねぇねぇ」
「んー?」
「ビュウってさ」
目を向ける。
初めて名前を呼ばれたからだ。
すると、パミュは目を丸くして、広げた掌で口元を隠した。
「あ、もしかして間違ってた?」
「いや、合ってるけど?」
「むーっ。じゃあどうしてそういう目で見たのさーっ!!」
「いや、普通に目を向けただけだ、人聞きの悪い」
「あ、じゃあ元から目つきが悪いんだー」
「あのなー」
さすがにそろそろ怒った方がいいかもしれない。これ以上放置しておくと、サンドバックにされかねないからな。
だが……。
パミュの、キラキラと輝く笑顔を見ると、まあいいかと思ってしまう。
この程度のことで笑ってくれるなら、それはそれでありかな、なんて……。
我ながら、情けない思考だとは思っているが、無理に反抗する意味もないので、俺は今度ばかりは、許してやることにした。
八百年で体得した、寛大な精神でな。
「ねぇねぇ」
「んー?」
「ビュウってさ、元々は旅人さん?」
「元々も何もずっと旅人だが」
「へー」
うっ。
嫌な『へー』だな、おい。
明らかに感心じゃない。
疑っているというわけでもなかろうが、俺が纏っている衣を、一枚一枚剥ぎ取って、俺の真の姿をさらけ出してやろうという、まあつまり、端的に言えば。
俺に興味を持っている『へー』だった。
「じゃあサザーランド以外の国にも行ったことあるんだ」
「サザーランド以外の国どころか、ここに来る前は北翼にいたよ」
「北翼出身なの?」
「いや? たまたまだ。北翼は治安が悪い。だから、腕の良い魔術師にとっては、逆に狩場なのさ」
「へー」
「何だその目は」
「え? べっつにー。『うっそくさーい』なんて、思ってないよ? ほんとほんと」
ニヤニヤ笑いながら、パミュが言う。
太陽よりなお輝いている笑顔。
人生楽しくてしょうがない。
そう顔が語っている。
この容姿でこの若さ。
そりゃ、楽しいだろうな。
全てが自分を中心に回ってくれる。
女が一番楽しい時代だ。
だが……。
「ふーん。ならいいや」
その手の常識にとらわれず、自分中心に歩むのが、俺という男なのである。
だから、パミュ相手に特別優しくする、ということも、俺はしない。
「ねぇねぇ」
「んー?」
「他にはどんな国に行ったことあるの?」
「全部行ったことがある。北頭。西胸。爪島。北翼。上尾。東尾。そして、南尾」
何せ、四百年前、当時の大陸がバラバラになっちまった後、新世界の地図を一番最初に書き上げたのが、俺なんだもんよ。
当然別名義でだが。
「へー」
「また嘘くさいか?」
「だってそんなに色々回ってたら、すっごくたくさんの言葉を使えないとダメなんじゃないの?」
そんなことはない。
意外とジェスチャーでも通じるのが旅の面白いところだ。
と、言ってやっても良かったが、普段の俺がジェスチャーを多用しているわけではないので、俺は指を一本立てて、口を開いた。
北頭。西胸。爪島。北翼。上尾。東尾。
大陸で一つの言語というわけではもちろんない。それでもまあ大陸ごとに有名所の言語というのはあるもんで、それぞれの言語でちょっとした挨拶を披露する。
本当にその国の言葉を用いたのかどうかは、正味パミュにはわからないはずだ。
だが、何やかんや、伝わるものはあったのだろう、パミュは『おー』と口を開き、パチパチと拍手した。
いや。
伝わるものがあったというか、単純に純真なのかもしれない。
手を叩くパミュをマジマジと見つめながら、そんなことを俺は思った。
「ビュウって結構すごい人なんだね」
「そんなことはない」
「そうなの?」
「こんなものは、長く――」
生きてりゃ誰でもできる。
そう言いかけて、口をつぐんだ。
これは、語るべきことじゃない。
「?」
パミュが小首を傾げて、俺を見つめてくる。
何つーか、昔飼ってた小鳥に似てるなと思った。
昔飼ってた小鳥も、時々こんな丸々とした目で、小首を傾げてきたものだった。
失礼?
いやいや。
昔飼ってた小鳥は――その、可愛かったんだぜ?
「あ!!」
パチンと、パミュが両手を打ち合わせる。
「じゃあじゃあ、これ、何て言ってるかわかる!?」
自分で言うのも何だが、俺が理解できる言語の幅は結構広い。
正確には十四ある。
それもネイティブレベルに理解できるものが十四って話で、大体でいいならその数は三十を超える。
よほどマイナーなものでない限り、理解できる自信が俺にはあった。
目を向ける。
パミュは、両手を結び、犬の形を模していた。
「バウワウ!! バウワウ!!」
「……」
マジのマジで、真剣に聞いて損したと思った。
本当ガキだぜ。
何歳ぐらいなのだろうか?
聞いてみてもいいかもしれない。
どうせ、話題には困っていることだし……。
「ガブーっ!!」
「いや、おいちょっと!!」
いきなり犬を模した指で、俺の腕に噛み付いてくるパミュ。
何やかんや言って、パミュは美少女だ。
そんな女にいきなり触れられると、ちょっとビックリしちゃう俺なのである。
意図も不明だし。
思わず大きく飛び退いて、患部を見てから、パミュを見た。
パミュは、お腹を抱えて、爆笑している。
何だこいつ……。
そう思っていられる間は、まだよかった。
「ふぇ、ふぇえええ……」
「えぇ!?」
驚くべきことに、突然パミュは、目尻に指先を置いて、泣き出してしまった。
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