きっと後悔する


「本当に来たよ」

「なん、っですって」


 ぎろりと睨まれて、両手を上げて謝罪する。

 走ってきたのだろうか。肩で息をしているだけでなく、額にはうっすらと汗をかいていた。


「……これですか」


 横転したバイクを見て、セリナが言った。

 結局あの後一人で起こそうと試みたが、タイヤがぬかるみにはまっているのか、うまく立たせることができなかった。

 セリナの言葉にうなずくと、起き上がらせるために力の入りやすい位置にポジションを取る。


「反対側でタイヤ止めて」

「え、こうですか」

「足で。指挟まないように」


 傘は差せなかった。

 だからすぐにセリナもびしょ濡れになって、髪から水を滴らせていた。

 風邪を引くだろうな、と横目に見て思いながら、呼吸を合わせて立ち上げる。


 一人では駄目だったことが、二人なら可能になる。

 そんなあたりまえのことをいまさら発見して、私は少しだけ泣きたくなった。


 泥に塗れた身体が触れないように気を付けながら、落ちていた傘を拾ってセリナの頭の上にかざす。

 びっくりしたように目を瞬いた彼女は、私から傘を受け取ると一歩近付いてきて傘の半分を私の頭上にかけた。

 ずるっと鼻をすすって、濡れた髪を頬に張り付けた彼女を見上げる。


「お風呂入ってく?」

「そうですね。家に帰る前に風邪引きそうです」


 セリナに鍵を渡して先に部屋に行かせると、立ち上がったバイクを転がして駐車場の隅に停める。車体の側面を手でなぞって傷の具合を確かめてから、すぐに彼女の後を追った。

 ペタン、パコン、と濡れた靴特有の音を立てて、階段を上る。

 ドアを開けて中に入ると、ふわりと温かな風に包まれた。

 ぱたぱたとセリナが駆け寄ってきて、タオルを被せられる。

 彼女は既に着ていた服をスウェットに替えた後だった。


「今お風呂沸かしてます」

「ありがと」


 私はいつものように服を脱いで下着姿になると、タオルで肌についた水滴を拭った。そのままぺたぺたと音を立てながら部屋を横切って、タンスに近付いていく。その時、ふっと視線を感じて顔を上げた。


 視線が交錯する。

 見られていた、と思った瞬間に相手の視線が逸らされた。

 その赤く染まっている頬に、口元が緩む。


「見てたんだ?」


 からかうように言うと、むっとした表情で睨まれた。


「その言い方、むかつきますね」

「でも、見てたんでしょう」

「勝手に露出したのはサキさんです」


 からからと笑って、私はそのまま隠すこともなくタンスの引き出しを開けた。

 丁度その時、タイミングよく給湯器のリモコンから音が流れて、セリナは「行ってきます」と足早に私の背後を通り過ぎていった。


 見せつけたかったわけではない。

 結果的にはそうなってしまったけれど、これはただの気の緩みで、不可抗力だ。


 悪かったと、一言そう言いたかったのに、口は彼女をからかうことに終始して。

 最近そう言うことばかりだ。

 行動と気持ちが乖離する。


 私はタンスから部屋着を取り出して身に着けて嘆息する。

 うまくいかない。なにもかも。

 中途半端な関係も、利用したようになってしまった今回のことも。

 母から押し付けられたお見合いのことも、心の奥に大きな石を沈められたかのように苦しかった。


 子どものころは無邪気に結婚して両親と同じように家庭を築くものだと思っていた。

 そうではなかった。人とまともに付き合うことすら大変で、とても自分に家庭を築けるとは思えなかった。


 ケトルでお湯を沸かして、いつかのハーブティーを淹れる。

 息を吹きかけながら、ちびりちびりと口に含んでいく。


 役所勤め、という言葉が、魅力的に響く日が来るとは思わなかった。

 安定した仕事と給料が、何よりも優先して確保しなければならない生命線だったと大人になった今、実感する。

 自分で食い扶持を確保すればいいのに、どこかで他人に頼ろうと考えてしまう自分が、心底嫌いだった。


 うつむいたまま洗面所から出てきたセリナと、入れ替わるようにしてお風呂に入る。

 お湯に浸かってじんわりと温まっていく体にほっと息をつく。

 腕を天井に伸ばして強張っていた筋肉をほぐす。


 上がって部屋に行くと、セリナがソファベッドを整えてくれていた。


「ありがと。でも、今日はいいや」


 ぱちりと電気を消すと、途端に何も見えなくなった。

 しばらく目を閉じてから、ゆっくりと開ける。暗闇に馴染んだ目には、戸惑たようなセリナが映った。その肩を押して狭い部屋を移動し、そのままベッドに押し倒す。


「ねえ、しよっか」


 ぺろりと上着を捲ると、一息に脱ぎ捨てた。


 なんとなく、そういう気分だった。

 現実がつまらなくて、苦々しいことばかりで、そこから少しでも逃げたかった。


 下も全て取り払って、セリナの腰の上に乗る。

 顔を近づけてキスをねだると、後頭部に手が回ってきて軽くついばまれる。

 そのまま深くキスをして、舌を重ねて、互いの呼吸が荒くなる。


 きっと、今日のことは後悔する。

 そう直感するのに、身体はいうことを聞かず、口内に入ってきたセリナの舌を嬉しそうに吸っている。


 このまま、流されてしまえばいい。

 気乗りのしない誘いも、うんざりするような保身も、延々と続いた悪路も、ひとかけらの優しさも。すべてを全身に感じる刺激で押し流して、快感で塗りつぶしてしまえばいい。


 指と、唇と、吐息が私の身体を這いまわる。

 セリナの顔は見えなかった。見ようともしていなかった。

 胸の先を舌が優しくくすぐって、声が漏れた。

 この時が、自分が一番女であると自覚する瞬間だ。

 セリナの髪をくしゃくしゃに乱しながら喘ぐ。

 普段の自分からは想像のつかないほどの高い声で、単純で単調な刺激に喘ぎ、身を捩って応える。身体の奥から何かが流れ出て、内腿を汚していくのを止められなかった。

 それでも胸の中心は寒々しいままで、熱くなる身体をもう一人の自分が冷ややかに見降ろしている。私はそれに気が付かないふりをする。


 腰の奥が痛いほど熱くなって、足りないなにかが欲しくなる。

 右手を降ろして、目の前の人の何かを探す。けれど探しても探しても、欲しいものは見つからなかった。


「……サキさん、今、誰としてるかわかりますか」


 静かな声に、はっとした。

 色と熱の抜け落ちた、からからに乾いた音が私の理性を叩き起こそうとする。


 乱暴に引き倒されて、股の間に膝が割り込んできた。

 ぐりっと強く押し込まれて、それだけで身体が大きく震えた。


「ねえ、どうしてほしいですか。なにか突っ込みます? めん棒とかいいんですかね」


 嫌悪にも似た強烈な視線に射抜かれて、息ができなかった。

 リズムをつけて擦るように押される。

 それだけで理性が快感に押し流された。自ら腰を擦り付けて、目を閉じて一心に気持ちよさを追い求める。

 終わりはすぐに来た。全身が突っぱって、すぐに弛緩する。


 目を開けると、ぼんやりとした視界の中央にセリナがいた。

 この世のすべての人から見捨てられたかのような、ひどくみじめな表情だった。


「……なんてことを、させるんですか」


 響いた声に、数分前の自分を殴りたくなった。

 声を出そうにも言葉にならず、両手で顔を覆って呻く。


 自分がしでかしたことの質の悪さに戦慄する。

 この状況をどうすればいいのかわからなかった。

 謝ればいいのか。それで済む気が、全くしなかった。


 ちらりとセリナを見て、とりあえず謝ろうと口を開くが、すぐに遮られる。


「謝ったら、怒ります」

「なんで……」


 困惑に眉をひそめる。

 今回のことは、明らかに私が悪い。セリナの気持ちを利用して、独りよがりの行為をしてしまった。


「たぶん……、私もどこかで楽しんでました。悲しいのに、興奮しました。だってサキさんが、えろいから……」


 口元を隠すように片手で覆いながら、指先でつつーっと身体の中心を撫でおろされ、思わず鼻にかかった声が漏れた。

 その手が胸に伸びて、揺するように揉まれる。


「もう一回します?」

「……それでセリナの気が済むなら」


 肩の力を抜いて、身を任せるように大の字になる。一回やってしまったら、何回も変わらないだろうと思った。ぼんやりしていると、隣にころりとセリナが寝転がってくる。


「そういうことじゃないんです」


 ぐりぐりと頭を首元に押し付けられて、息苦しさに呻きつつセリナの頭を撫でた。

 湿っぽい髪が、お風呂上りであったことを強く意識させる。


「サキさんがしたいか、したくないかです」

「……今日は、もういいかな。疲れた」

「……わかりました」


 セリナは言いたかっただろう言葉を吞み込んで、そう言った。

 我慢するような強張った表情に、しばし魅入られる。

 ぎゅっと結んだ口の端にキスをして、泣きそうに下がった目じりにも同じようにする。


 彼女は私の行動を嬉しそうに受け入れてから、ベッドの中でいそいそと服を脱ぐと、素っ裸になった。


「なにしてんの」

「サキさんを感じながら寝ようと思って」


 ぎゅっと抱きついてくる肌はさらりと流れて、気持ちがよかった。

 はあ、とため息をつくと、セリナの細い腰に手を回して抱える。


 そのまま時間が流れ、肌の境目が滲んでなくなるように、意識が薄く伸びていって、ある時ぷつりと途切れた。


 そして翌朝、仲良く風邪をひいた。

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