法事(戦闘態勢)
3月初旬。
寒さが和らぎ、梅の花が綻ぶ頃。
ストーブの上に置かれたやかんがシュバシュバと湯気を噴き上げる音をききながら、私は延々と続く静かな読経を聞いていた。
ふすまを取り外して広々としていた居間は、今は黒い服を着た人々であふれかえっている。
隙間風の多い古い日本家屋のためか、足元には常に冷気がまとわりついてきてその度に足をさすってやり過ごした。
あまり会うことのなかった祖父の三回忌。
長く入院していたこともあって、亡くなった当時は誰も慌てることはなく、ただ淡々と必要な儀式が進んでいったことをよく覚えている。
今日もまたしんみりとした空気を出しつつも、滞ることなく粛々と事が運ばれていく。
手配したのは母だろうか。
僧侶の近くにしゃっきりと伸びた見慣れた背中がちらりと見えて、ため息をついた。
見つかる前に帰ってしまおう。
そう思って読経が終わった瞬間に席を立ったのに、人気のない廊下を歩いていると、待ち構えるようにしてまさにその人が立っていた。
「もう帰るのかい」
「帰るよ。邪魔でしょう」
「邪魔なわけないでしょ。あんたの家なんだから」
黒無地の着物を着た母が、呆れたようにそう言った。
前回会ったのは祖父の一周忌だったから、2年ぶりということになる。
母は以前よりも恰幅の良くなった身体を捻って庭を見たかと思うと、不満げに眉をひそめる。
「まだあんなものに乗っているのかい」
視線の先には隅の方にひっそりと停めていたバイクがあった。
母は以前から私がバイクに乗ることに反対していた。父がバイク事故を起こして大怪我を負ったからというのもあるけれど、男の乗り物だという意識が強いことも原因の一つだった。
「あんたが心配なんだよ。それでお父さんがどんな目に遭ったか、知らないわけじゃないだろう。あんたもいい年なんだし、いい人見つけて少し落ち着いたらどうだい」
「……もう帰るよ」
これ以上小言を聞いていたくなくて、母に背を向けた。
悪い人ではない。しっかりと育ててもらったことには感謝もしている。ただ少し、大人になった娘に対して干渉が過ぎるのではないかと思うことがあった。
けれど今の私は、本当にその心配を突っぱねることができるのだろうか。
仕事の当てもなく、ただ年下の学生と遊んでいるだけの自分が、時折情けなく感じることもまた確かだった。
そんな後ろめたさもあって、強く呼び止める母の声に逆らうことができずに、踏み出した足を止めた。
「近所の緒方さん家の次男、役所勤めで転勤もないし、性格も穏やかだからあんたと丁度いいと思うんだよ。会うだけ会ってみないかい」
本題はこちらだったのかと気が付いて、苦い笑いが漏れる。
こうした話はご近所づきあいも含まれていることを考えると、無下に断ることは母のメンツをつぶすことにもなるのだろう。
弱気になっていた私は、渋々ながらその提案を了承する。
「……会うだけなら、いいよ」
「そうかい、助かるよ。来週末あたりで都合をつけておくから、空けておいて頂戴」
「わかった」
私の返事を聞くと、母はそそくさと会場に戻っていった。
一人になると法事用の衣装を脱いで、ツーリング用のレザージャケットを羽織り直した。そして、分厚いグローブを嵌める。
こういうことが起こるから、帰ってきたくなかったのだ。
仕方のないこととはいえ、今から来週が憂鬱だった。
バイクを道路まで押し転がし、慣れた動作で跨った。
空は鈍く重く垂れこめていた。
◇◇◇
時が経つごとに雲が厚く垂れ下がり始め、次第にぽつぽつと小雨が降るようになった。しばし迷ったが、安全のために高速を降りてコンビニで停車し、雨具を着込む。
再び走り出した頃には、既に本降りとなっていた。
雨は嫌いだ。
タイヤが滑るし、視界が狭まってしまう。だから雨が降った時は高速を走らないというルールを自分に課していた。
これから残された道程を一般道で消化しなければならいのかと思うと、正直うんざりする。
天気予報ではたしか曇りだったと思うが、最近の天気予報は精度が悪いような気がしてならない。今更文句を言ったところでどうにもならないけれど。
コーナーを慎重に曲がり、白線に神経を尖らせながら、進むこと数時間。
時刻は深夜と呼ぶに障りない数字となっていた。
しんと夜に沈んだ住宅街。
月は出ていなかったが、街灯の真っ白な光が水たまりに反射してやけに明るかった。
雨足は既に弱まっていたが、これまでさんざん打たれてきた雨具には冷たい水が染み込み、身体は芯から冷え切っていた。
自宅マンションが見えて、ほっと胸を撫でおろした。
固く強張ってしまった手で徐々に減速させ、クラッチレバーを引いて左足で順番にシフトダウンしていく。
熱いお風呂に入りたかった。
長距離の運転によって頭は既にぼんやりとしていた。
だから、がちゃがちゃというギアチェンジの音をどこか遠くで聞いていたのも、マンションの入り口付近に大きな溝があることが分かりながら、どこか他人事だったのも、仕方のないことなのかもしれない。
あ、と思った時には遅かった。深夜の住宅街に響き渡るほどの派手な音を出して、溝にタイヤをとられてバランスを崩したバイクが、盛大にこけた。
瞬間的に体を捻ったおかげか、下敷きにならずに済んだのは不幸中の幸いか。
「あー、最悪……」
立ちゴケはバイクに乗る人なら誰もが通る道だ。
私だって何度も経験がある。しかし、今ほどそうなってしまったことを後悔したことはなかった。
私は水たまりがあることも構わず、その場に座り込んだ。
既に服は水を吸ってひどく重くなっていた。今更バケツで水をかけられようが、変わらないという自信がある。
何もしたくなかった。
自力で立てず、横たわったまま放置されたバイクと、精根尽きて立てなくなった私がなんだか妙にそっくりで、不思議と笑えた。
懐から防水パックを取り出し、スマホを見る。
セリナからいくつかのチャットが入っていたが、どれも他愛のない話ばかりだ。最後のチャットが2時間ほど前のこと。
起きているだろうか。
寝ていたら申し訳ないなと思いながら、それでも指は自然とスマホを操作して彼女と繋がろうとする。
ぷるぷると、電波が彼女の元に飛ばされていく音を聞いて。
「……はい」
話す内容を考える前に、慣れ親しんだ声がスマホから聞こえてきた。
少し間延びした、鼻にかかる声だった。
「寝てた?」
「ちょっとだけ……」
言葉にいつもの勢いがなかった。
これは駄目だなと思い、通話を切ることにする。
「ごめん。なんでもない」
「……今どこなんですか? 外?」
「自宅マンションの前。じゃあね」
「いや、いや、おかしいじゃないですか」
スマホからは、うー、とか、あー、とか言葉にならない声が聞こえる。
しばらく聞いていると、いつものリズムを取り戻したセリナがいた。
「今日法事でしたよね」
「そうだね」
「マンションの前でなにしてるんですか?」
「座ってる」
「……確か今日、雨降ってましたよね」
「そうだね。降ってるね」
スマホ越しにふうとため息をつく音が聞こえ、私は苦笑した。
迷惑をかけているという自覚はあった。
だからこのまま通話を切られても、勝手にしろと寝直されても、仕方がないの一言で済ますつもりだった。
「なにがあったか知りませんけど。私が必要ですか?」
ストレートな言葉だった。それだけに、胸にくるものがあった。
迷って、答えた。
「……そうかも。助けて」
「……10分、待ってください」
通話が切れて、一人になった。
雨はまだ止みそうになかった。
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