ラブホの使い方間違ってるよ
会いたいと思ったその日に、偶然会えるなんて想像もしていなかった。
出会った場所は最悪だったけれど。
ギラギラとした電飾と、遠くからでも見やすいようにでかでかと掲げられた料金表。
入口は見えにくいように塀が作られていたが、見る角度によっては当然、全てが見えてしまう。
薄暗く細い路地で信号待ちをしていた私の目に飛び込んできたのは、女と隣り合ってラブホテルから出てくるセリナだった。
「セリナ……」
頭で考える前に、声が出た。
かすかな音だったはずなのに、塀の中から出てきたセリナははっとしたようにこちらを振り返った。
私の存在に気付くと、慌てたように隣にいた女と距離を取る。
セリナの隣にいた女は私を目に留めると、セリナと私を見比べて、にやりと不敵に微笑んだ。素直に怖いなと思ったけれど、同時にその表情はどこか沈んでいるようにも見えて、私は彼女らの関係がどういうものなのかわからなくなった。
セリナは「あの」とか、「違くて」などと言葉にならない言葉を発している。
目を白黒させてあたふたとしているそのしぐさがおかしくて、ふっと鼻から抜けるように笑う。そしておもむろに右ハンドルを捻ってエンジンを回転させた。
ブォン、と低く腹に響く音を立てる。クラッチを繋げて、いつの間にか青に変わっていた交差点にバイクを進入させる。
バックミラーで後方を確認する。彼女の姿は次第に小さくなっていって、最後に夜の闇に溶けて消えた。
夜風を切って、街中をひた走る。
結局、何だったんだろうな。
セリナの思惑も、私の感情も、さっきまですぐ傍にあると思っていたものが急に輪郭をなくして、遠く遠く離れていく。
いろんな思いをはるか後方に置き去りにしながら、私はただ夜の街でバイクを走らせた。
◇◇◇
疲れた。
がちがちに固まってしまった背中をほぐしながら、私はマンションの階段をゆっくりと上っていた。
バイクは気分転換に最高だ。
風を切り、街の風景を後方に流して、ひた走る。
暗い染みのように広がりかけた感情も、今はぴたりと収まっている。
これまでだってそうやって過ごしてきた。
冬の凍えた空気も、春の木漏れ日も、夏の真っ青な空も、秋の色づきも、全部味わって、ただ走ってきた。
どこへだって一人で行けた。
他人に気を使う必要もなく、ただ小さな荷物ひとつだけを積んで、身一つで世界を渡っていけるようなそんな気がしていた。
でも、もっと違う世界があるのかもしれないと、そう思わせてくれたのはセリナだった。
一人で過ごす日常と二人で過ごす日々。
どちらも楽しくて、どちらも捨てられなくて、私はずっと躊躇っていた。
本当はもうずっと前からわかっていたのかもしれない。
セリナの存在が他の人とは少し違うものになりかけている、ということに。
愛とか恋とか、そういう話じゃなくて。
もっと話がしたかった。
誰とどんなことをして過ごしてきたのかとか、何を考えて今まで生きてきたのかとか、そういう個人的で、心のすぐ傍にある話が聞きたかった。
コンクリートを踏みしめて階段を上がる。
ひんやりとした冷気が足元にまとわりついて、ぶるりと一つ身を震わせた。
角を曲がって、きれいに並んだ扉の前を通り過ぎる。
見慣れた光景だ。壁のシミもちょっとした装飾の歪みもいつも通りで、私の部屋の前にある存在が、今日だけは殊更に周囲から浮いていた。
やっぱりな、という思いと、なぜ、という思いが交錯する。
「……遅いですよ」
セリナが小さく蹲ったまま、掠れた声を上げた。
私はセリナの横を通り過ぎ無言のまま鍵を回して扉を開けると、中に滑り込んで扉を閉める。
「え、ちょ、入れてくれないの!」
「あはは」
困惑顔で扉の端を掴み抗議の声を上げるセリナに、私は声を出して笑った。
部屋に招き入れて、照明と暖房のスイッチを入れる。
「先にお風呂入りなよ。風邪ひくから」
少しだけ触れた指先は氷のように冷たかった。
きっとあれからすぐに私の部屋に来ていたのだろう。
バカだなとは思ったけれど、嫌なわけではない。
湯船にお湯を張って、タオルと以前使用していたオレンジ色のスウェットを渡す。
「え?」
「セリナがいいなら泊まっていきなよ」
私の言葉に少しだけ顔を赤くして、彼女は首をぶんぶんと縦に振った。
私も彼女が上がった後にお風呂に入って、いつものねずみ色のスウェットに着替える。
ノンカフェインのハーブティーを取り出してティーポットにいれ、ゆっくりとお湯を注ぐ。細く蒸気が昇っていき、甘酸っぱいようないい香りが辺りに広がっていった。
「あの、聞かないんですか?」
「聞いてほしいの?」
「まあ……」
セリナはローテーブルの前に座ったまま、逡巡するように下を向いた。
「……元カノです」
「元鞘に戻ったってこと?」
セリナは首を振って否定する。
「いえ。ただ、別れた後も一緒に住んでるんです、ルームシェアみたいな感じで。そろそろ出て行こうと思ってたんですけど、話し合いがこじれちゃって、それで大きい音を出してもいいところへ行こうと……」
「以前病気した時、一人暮らしって言ってなかった?」
「元カノって人の世話はできない人なんです。なので一人暮らしって言った方が分かりやすいかなと。当時は説明する体力もなかったので」
「なるほどねぇ」
「信じてます?」
「信じてるよ」
「あやしいとか思ってません?」
「なんで。めんどくさい」
じとっとした疑いの目で見てくるセリナに、手をひらひさせて否定の意を示す。
「嘘ついて何になるの。……ちなみに、どこで出会ったの?」
「……大学のサークルです」
「先輩?」
「2個上です」
「モテそうな雰囲気だったよね」
「モテてましたね」
「かっさらったんだ?」
「……告白されました」
「それはまた」
「その顔やめてください」
にやにやと笑っていると、両手で顔を挟まれて強制的に表情を変えさせられる。
「そんなロマンチックなものじゃなかったですよ。既に三角関係でしたし」
「ほほう。お姉さんに詳しく話してみなさい」
「なんですかそのキャラ。気持ち悪いです」
「……ちょっと傷つくわ」
わざと胸を抑えて倒れ込む。
セリナはため息をついてから、億劫そうに私を引っ張り起こした。
「モテ期だったんですよ」
「たぶん生まれてから死ぬまでモテ期なんじゃない?」
「なに言ってるんですか。サキさんは振り向かせられないのに」
「……それとこれとは話が別だと思うけど」
「逃げましたね」
「逃げてないよ」
「じゃあ証明してください」
ばっと手を広げたセリナ。その表情はどことなく嬉しそうだ。
「ここに来てください」
「なんで」
「寒いんです。この部屋エアコン壊れてるんじゃないですか?」
「私は暑いくらいだけど」
「うるさいなあ、もう」
手首を掴まれると、ぐっと体を引き寄せられる。
セリナの足の間に倒れ込むように収まって、両手でがっちりとホールドされた。
「捕まえました」
「私はカブトムシじゃないよ」
「カブトムシは嫌いです。黒光りしてて、あの害虫にそっくりじゃないですか」
「それ全国のカブトムシ愛好家に喧嘩売ってるからね」
「喧嘩なら買いますよ」
「やたら好戦的だな。貧弱のくせに」
私はおとなしく彼女に背中を預けて、意識的に肩の力を抜いた。
「私のなにがいいの」
「かわいいとこ」
「なにそれ」
返答のあまりの短さに、くっくっと肩を震わせる。
接しているセリナの体も、私に合わせるように揺れた。
「あと、かっこいいとこ」
「小学生みたいな回答だね」
「いいじゃないですか。そう思ったんだから」
「はいはい、いいよそれで」
「……私、サキさんの話も聞きたいんですけど」
「私? 話すことないよ」
「付き合った人数とか」
「男2人」
即答する。好きだったかどうかはこの際脇に置いておく。
「女は?」
「ゼロ。というかそういう対象じゃなかったし」
「過去形?」
「あー、対象じゃないし?」
「無理しなくてもいいですよ」
「なんのことだか」
調子に乗りだしたセリナがおもしろくなくて、私はそばにあった太腿をぺしんと叩いた。
「痛いです」
「というか、ハーブティー冷めてない?」
「いきなり話題を変えないでください」
よっこいしょと立ち上がった私の脚を軽く叩くと、セリナは手を伸ばして自分のカップを取った。
私は差し出されたカップにティーポットからお茶を注ぎ、自分のものにも同じようにする。
「ハーブティ、好きなんですか?」
「ただのもらいもの」
「誰からですか?」
「元カレ」
セリナは途端にむっとした表情をして、今まで香りを楽しんでいたカップを置いた。
「なんてものを出すんですか」
「気にした?」
「当たり前です」
「じゃあ、思い出を上書きとかすれば」
「……自分がなに言ってるか、わかってます?」
瞬間、部屋の空気が一変する。
ぐっと寄せた眉と、力を増した視線が私を貫いていく。
「まあ、別に初めてじゃないし」
「その言い方、この場面でしちゃいます?」
「嫌になった?」
「まさか」
私は立ち上がると、リモコンで電気を消した。
途端に辺りが暗くなって、押し殺していた不安がじわりと滲みだしてくる。
それを振り払うようにしてベッドにもぐりこんだ。
いつものベッドなのに、どこかいつもとは違っているようだった。
間を開けて、暖かいものが布団の中にするりと入り込んでくる。
ぎしりと安っぽい音を立てて、ベッドのパイプが軋んだ。
シングルサイズのそれは大人2人には小さすぎて、布団の下で自然と身体が密着する。
さらりと髪を梳かれて、耳を擽られて、首元を撫でおろされる。
どこかで見た覚えのある瞳で、至近距離から見つめられる。
先ほどとは違った目だ。欲望を隠そうともしない、粘つくような視線だった。
「本当にいいんですか」
「この段階で聞いちゃうんだ」
そう言って笑っていると、ゆっくりと顔が近付いてきてふわりと唇が重なった。
柔く触れて、ちょっとついばんで。
唇を味わうようにちろりと舐められて。
ふう、とどちらからともなく熱い吐息が漏れた。
セリナの手が私の背中に回る。スウェット越しに撫でられて、その暖かさに緊張に絡まった糸が少しだけほどかれる。
唇が頬をなぞり、首筋を辿る。
同時に手がスウェットの中に潜り込んできて、私は思わず目の前にあった頭を抱え込んだ。
気持ちがいい、と思った。
肌に吸い付く手も、熱く湿った呼吸も、セリナのもたらすものはすべて、私を少しずつ狂わせていく。
「セリナ……」
掠れた声で呼ぶと、セリナが顔を上げた。
先ほどとは違ったトロンとした目と、茹だったような頬の赤さが目に入る。
すっ、と身体から熱が引いていくのが分かった。
頭で理解するよりも早いその反応に、我がことながら苦笑が漏れる。
なおも行為を続けようとするセリナの顔に、手のひらを軽く押しつけて制止した。
「待て」
「……犬じゃないです」
捲れていたスウェットを下ろして、布団から出る。
そして電気をつけると、体温計を取り出してセリナの額に押し付けた。
「38.2度……」
「壊れてますよ、それ」
自分の額に向けて、再度計測ボタンを押す。
「36.7度」
「それ平熱ですか? 高すぎません?」
「最近の若者が低すぎるんだと思う」
私は救急箱から冷却シートを取り出すと、セリナの額にぺたりと張った。
そしてソファを崩して、即席のベッドを作る。
セリナはベッドの中から私の行動を見て、驚愕に目を見開いた。
「嘘ですよね。嘘だと言ってください」
「あ、うがいしてくるけど、いいよね?」
捕まえようとしてくる手を振り払って、洗面所でうがいをする。
部屋に戻ると、ぐったりと肩を落としたセリナがいた。
「あんまりですよ。本当、なんなんですか。神様っているんですか」
「いないんじゃない?」
「じゃあお賽銭ってなんで入れるんですか」
「神社の中の人も食べて行かないといけないから」
「そのリアルな返し、やめてください」
今にも泣き出しそうな表情に、さすがにかわいそうに思えてきて、その頭をぽんぽんと撫でる。
「まあ、また機会が来るかもしれないし」
「来るかもじゃなくて、作ってください」
「気が向いたらね」
セリナに厚めの布団を被せて、照明をぱちりと落とした。
暗闇の中でソファベッドの中に潜り込む。
背中に当たるスプリングの固さに懐かしさを覚えた。
あの時も、ここに寝ていた。
どんな気持ちだっただろう。もう思い出せないけれど、こんな状況になるとは露ほども想像してはいなかったはずだ。
私は目を閉じて、耳を澄ませた。
セリナは文句を垂れていた先ほどとは打って変わって、驚くほど静かに横になっている。
結局、身体はつらかったのだろう。今度は長引かないといいけど。
そんなことを考えながら、意識は段々と暗闇に沈んでいった。
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