餃子には青唐辛子(情熱)
朝起きて顔を洗い、冷凍しておいたご飯と納豆を食べる。
すぐに歯を磨き、家の中を軽く掃除してゴミを出しに行く。
そうしてクローゼットを開け、スーツではなく量販店の安いスウェットを取り出してパジャマから着替える。
スウェットもパジャマも似たようなものではないのか、と言われるかもしれないけれど、服というよりは着替えるという行為が大事なのだと思う。
無職の一日に制限などない。
一日中映画を見ることもできるし、一日中ベッドでゴロゴロしながら過ごすこともできる。
そうして過ごしてみたいという思いはあっったし、実際一週間ほどそんな生活を過ごしてみた。けれどそうやって過ごしていると、自分が社会から弾き出された存在だということを強く認識させられて、どうしても続けることができなかった。
今は会社に行くときのように起きて、身の回りのことをして机に向かう。
その日常を大事にしている。
社会人になってから握ることの減ったシャーペンを使って、ノートに大事な部分を書き留めていく。
何度も何度も、書いては見直して、消しては書いて。
時折休憩を挟みながら集中して勉強していると、ピンポンとチャイムが鳴った。
今日は宅配はないはずだけどと思いながら時計を見る。いつの間にかお昼を過ぎていた。
あっと思って慌ててドアを開けると、そこには不満げな顔をしたセリナが立っていた。
「サキさん、今日の約束忘れてませんでした?」
「いや、まあ……。ごめん」
「いいですけどね、別に。私は所詮2番目、3番目の女ですから」
そっぽを向くセリナに、ポケットにしまっていたスマホを確認する。
なるほど、手土産はなにがいいかとか、今から行くといったメッセージがいくつか入っていた。
何も買わなくていいし、適当な時間に来てくれたらそれでいいのに。
真面目だなあと少し呆れる。
「言ってる意味がわからないけど、悪かったよ」
「あ、今めんどくさいって思いましたね。顔に出てますよ!」
「思ったけど言ってないでしょ。大体ちゃんと部屋に入れたんだから、何を怒る必要があるの」
「それとこれは別の話なんです。忘れられたことに対して私は不満を訴えているんです!」
「あーわかった、わかったから」
私はセリナを部屋に通すと、広げていた参考書を手早く片付ける。
「勉強してたんですか?」
「そうだよ」
「今度一緒に勉強していいですか?」
「なんで?」
意味がよくわからず聞き返す。
学生の頃ならわからないところを教え合ったりできたけれど、私とセリナはそうではないだろう。メリットを感じられなくて首を傾げる。
「部屋を訪ねる口実ですよ! なんでわかんないんですか!」
「わからないでしょ……。別に来たいならいつでも来ていいよ。そこまで根詰めてやってるわけじゃないし」
今日のセリナはちょっと変だ。
やたらとムキになったり、いじけたり。感情がくるくる変わって忙しい。
「……生理?」
「怒りますよ?」
にこっと笑ってセリナは洗面所に消えていった。
一緒にアルバイトをしていた時は、もっと感情を抑える方だと思っていた。
一緒に遊ぶようになって、ちょっとずつ怒ったり笑ったりがよく見えるようになった。
感情をストレートに言葉にすることも多くて、私はその勢いに少しだけたじろいでいる。
この前酔っぱらった時に言われた、好き、という言葉は嘘ではなかったらしく、あれから何度かその言葉を聞いた。
そのたびに何と答えていいかわからなくて、言葉を濁すことでやり過ごしていた。
はっきりと意思表示できない自分に嫌気がさす。
セリナが悪い人だとは思わない。むしろ人間的に好ましいし、一緒にいて楽しい。
けれど、と思う。
他人が怖い。
人の悪意が怖い。悪意がなくとも土足で部屋に入り込んでくるような乱暴な言動が怖い。
それに、セリナは女だ。
女同士で付き合う人がいることは知っているけれど、それに自分が含まれると思ったことはなかった。
私はテレビをつけて、動画配信サービスから適当なB級映画をいくつかチョイスする。セリナが戻ってくると、その中から見たいものを選んでもらって動画を再生させた。
冒頭は豪快なアクションシーンからのタイトルクレジット。
そのまま流れを切ることなく、なぜか主人公の妻が誘拐されて、ホテルの一室に監禁される。
きらびやかなダンスシーンと警察の緊迫した救出作戦。
そこへ割って入るように派手な音がして、会場のホテルが爆破され、主人公が姿を現す。
「今の爆発で生きてるとかおかしくないですか? 確実に手足の一本二本とびますよね」
「筋肉でつなぎとめてるんじゃない? やたらポージングしてアピールしてるし」
「筋肉あると不死身になれるんですか? じゃあ私も筋トレします」
画面の中の主人公を真似て、セリナが両手を上にあげて上腕二頭筋をアピールするポーズをとる。確か、ダブルバイセップス。無駄にかっこいい名前を思い出してぼんやりと見ていると、セリナが顔を真っ赤にして必死に力こぶを作ろうとしていた。努力が実り、棒切れのような腕に気持ちばかりの丘ができる。
「まずは食べて体重増やしなよ」
「体質なのか、なかなか増えないんですよ」
「じゃあ今日増やそう」
主人公がビルの中から妻を救い出したところで動画を停止し、立ち上がって冷蔵庫から食材を取り出した。
あの主人公は妻のために一体何人を殺したのだろう。
見方を変えれば、テロの実行犯ではないのだろうか。
そんなことを考えながらまな板を出して軽く洗うと、野菜を乗せて細かく切っていく。
ニラとキャベツを刻んで、ぐりぐりとひき肉と混ぜ合わせる。
それを皮で包み、水で接合させて閉じていく。ひらひらと泳ぐひだを作るのも忘れない。
「ニンニクあります?」
「あるけど、入れるの?」
これから作るのは餃子だ。
ニラだけでも臭いというのにニンニクなんてと思ったが、どうせ明日は誰にも会うことはないのだから大丈夫だろうと思い直す。
ニンニクを取り出して皮をむき、まな板の上に乗せる。
「待ってください。丸のままで」
そう言うとセリナはコロンと転がっていたニンニクの一片を手に取ると、少量のタネとともに餃子の皮でくるんでいった。
「……それ、誰が食べるの?」
「じゃんけんで決めます」
嬉々として作業するセリナを見なかったことにして、黙々とまともな餃子を作っていく。
しばらくすると隣からばりばりと袋が破られる音がしたかと思うと、甘い匂いや刺激臭などが漂ってきた。
「それは?」
「マシュマロです。焼くとおいしいですよね」
「……そうだね」
タネと皮がなくなった頃には、ラップの上にずらりと餃子が並んでいた。とても2人で食べきれるとは思えないほどの量だった。
とりあえず量のことは後で考えることにして、パッと見て餃子の中に変な形のものがいくつかあったから、それらの形と位置をしっかりと頭に叩き込む。そしてコンロに火をつけて、餃子の配置を崩さないように強火で焼いていく。いい色になったら、フライパンを逆さにして中身を大皿にぽんと落とす。それを何回か繰り返して、黄金色に輝く羽付きの餃子がテーブル一杯に出来上がった。
カーテンの隙間から差し込む日の光はまだ明るかったが、構わずお箸を並べて夕食の準備をする。
「ビールですか?」
「今日はレモンチューハイかな」
黄色と青のパッケージが鮮やかな350ml缶を握り、プルタブをぷしゅりと開ける。
セリナは迷ってから私と同じものを手にした。
注意深く餃子を選んで箸でつまみ、おいしければよく噛んで食べる。変な味のものはアルコールで流し込むようにして食べる。
セリナも時折目を白黒させたり、鼻を抑えて涙目になっていたりしたが、箸が止まることは少なかった。
「サキさん……」
「ん?」
「この青唐辛子入りおいしくないですか?」
「激辛だったよ」
「情熱的な野菜ですよね」
「どう捉えればいいの、それ」
日が落ちて、遮光カーテンを閉める頃には、皿はすっかり空になっていた。
「結構食べたね」
「頑張りました。次は筋トレですね」
「くさい息で運動しないで」
「え、くさいですか?」
口元に手をかざして、はーっと自分の息を嗅ぎ出すセリナ。
「大丈夫です、臭くないです」
鼻をぴくぴくと動かしたかと思うと、ぱっと笑顔になる。
そのままぐいぐいとこちらに来て、私の顔に息を吹きかけようとしてくる。
「ちょ、待っ」
あわてて制止しようとした腕を逆に取られ、セリナの顔がぐっと迫ってくる。
相変わらず造形だけはきれいだなとぼんやり眺めていると、不意に肩を押されて後ろに倒された。
気がついた時には鼻先数センチというところにセリナの顔があった。
至近距離で見つめられて、心臓が一つ、大きく跳ねる。
「……好きです」
「ありがとう。……起きたいから、手、放してくれる?」
右手も、そしていつの間にか左手も、セリナの両手によって床に縫い留められていた。背中に、床の固さをはっきりと感じる。
手段を選ばなければ、いつだってこの状況を抜け出すことはできる。彼女は運動神経はいいけれど、貧弱だ。私のそれなりにある筋肉でなら、撃退は可能だろう。
ただ、それをしないで済むに越したことはない。
「セリナ?」
「サキさんは、私といて何も感じないですか?」
「楽しいと思ってるよ」
「それ以外に、ないですか?」
例えば堅く引き結んだ口元や、眉間に入れた深いしわ。
何かを堪えて、堪えて、それでもこぼれてしまったような言葉。
それらを見て、感じて、何も思わないほど浅い時間を過ごしてきたわけではない。
私は唇を噛んだ。
私の中をいくら探しても、答えの欠片さえ見つからなかった。
「駄目ですよ。私を部屋に上げたのはサキさんなんですから」
「行動によって相手の心理を推し量るのは誤解の元だよ」
掴まれていた手首が強く締め付けられて、痛みに思わず顔をしかめる。
振り払いたい、とは思う。痛いのは嫌いだ。
けれど私は、それをすることができずにいた。
「……ひどい人ですね」
「知ってる」
「キスしていいですか」
唐突な言葉に、目を瞬く。
言葉が出なかった。考えたことくらいはあったけれど、面と向かって言われて、喉の奥に言葉がつっかえる。
できるのだろうか。女とキスが。私に。
「もしかして迷ってます?」
答えに窮していると、煽るようにくすりと笑われる。
セリナの目はいつもと違い、熱く煮えていた。流し目で人を殺しにかかるような、そんな女の目だった。
「……っとりあえず、手を放して」
また一つ、大きく鳴った心臓を落ち着けて、私は平静を装った声を出した。
素直に両手が解放されて、掴まれていた手首をさする。
「痛かったですか? すみません」
「大丈夫」
応えてから、一向に私の上から退く気配のないセリナを見た。彼女は笑って私を見返すと、問いかけに応えろとでも言いたげに首を傾げた。
どうあっても私を逃がすつもりはないらしい。
「まあ、その……」
何を迷っているのだろう。
セリナが嫌いなわけではない。彼女とのキスに嫌悪感があるわけではない。
ただ、経験がなかった。
セリナが女だという一点で、これまでの経験がまるで役に立たなくなったような、そんな足元をぐらぐらと揺らしにかかるような不安が、胸をよぎっていく。
奥歯をぐっとかみ締める。
怖い、と思った。
何も知らないわけではないのに、何も知らないような気にさせるセリナが怖かった。
たかがキスごときでこんな気持ちになってしまうなんて、今日、初めて知った。
「……ごめんなさい。そんな顔させるつもりじゃなかったんです」
ひんやりとした手に頬を撫でられて、いつの間にか上がっていた熱が冷やされていく。
セリナがすっと動いて、額に柔らかなものが押し付けられた。それはすぐに離れていって、近くにあった存在も、私の手の届かないところへと行ってしまう。
しばらくすると、遠くでがちゃりと音がした。
静かに閉められた玄関の音を遠くに聞きながら、私はそのまましばらく、誰もいなくなった見慣れた天井をただ眺めていた。
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