馬が駆ける(物理)


 どこに行きたいかと問われて、ぱっと思いつくような人生を送ってはいなかった。


 普通は某テーマパークだとか、ショッピングだとか、話題のお店だとかが出てくるものなのかもしれないけれど、あいにく私は流行に疎く、人ごみは大嫌いだった。


「どこでもいいんです。行きたいところ、ないですか?」

「家、って言ったら、やっぱりだめ?」

「だめです」



 1月某日。

 鹿籠六が家に押しかけてきた。

 名目は看病してくれたお礼とかけた迷惑への謝罪ということらしいけど、何も家まで来なくてもいいのにと言ったら、逃げられそうだったのでと言われて、なるほどよく見ているなと感心した。


「どこかないんですか? 一人でよく行くところなんかでも大丈夫です」

「それだとセリナがつまんないでしょ」

「いいんです。サキさんが行きたいところに行くのが一番なので」


 鼻息荒く力説されても、一番いたい家に居させてくれないのだから説得力は皆無だった。

 鹿籠六ことセリナとは、あの日別れて以来だった。けれど。あの濃い数日間を通して、互いに名前で呼び合い軽口を叩くほどには打ち解けていた。


「一つ、よく行く場所があるけど……」

「行きましょう! タクシー呼びます!」

「呼ばなくていいから。電車で行けるから」


 身支度はほとんど済ませていたから、あまり時間を置かずに二人そろってマンションを出る。

 空は今日も晴れていた。

 風はほとんどなく、陽光はどこか春を思わせるほど暖かかった。


 最寄駅までの道を並んで歩く。

 コツコツとヒールの音が辺りに響き、私のフラットシューズが立てるかすかな足音をかき消していく。


 ちらりと隣を見た。

 セリナは、ショートブーツにフレアスカートを合わせ、その上からロングコートを羽織っていた。

 ひとつひとつはどこにでも売っているような量産品で、けれどセリナが着ると特別におしゃれなアイテムのように見えた。


 私は自分の服装を思い出して苦笑する。

 シーパンにトレーナーに、使い古したブルゾン。おまけに靴は普段使いのため薄汚れている。あの場所に行くときはいつもこの恰好だったから、気にも留めていなかった。


「ごめん」


 あまりの違いに思わず謝ると、セリナはきょとんとした表情をして首を傾げた。


「もっとまともな格好してくればよかった」

「え? かわいいですよ?」

「そういうの、いいから」


 セリナは難しい顔をして考えるようなしぐさをすると、一つ頷いた。


「じゃあ今度買い物に行きましょう」

「なんでそうなるの」

「私、サキさんの服買いたいです」

「お金は?」

「稼ぎます。または借ります」

「借りないで。服なんていいから、どうせ今は家に居るだけだし」

「えー、残念。家で何してるんですか?」

「……勉強、かな。転職に役立てばいいなあと思って」

「へー、すごいですね!」


 すごくない。

 ただの無職が時間つぶしに勉強をしているだけだ。

 仕事と違って一人でできるし、努力した分だけ結果となって返ってくる。だから昔からそれなりに勉強は好きだっただけで、きらきらとした目で見つめられることではない。


 改札を通って電車に乗って、乗り継いで降りる。


 駅から出ると、すぐに大きな看板が目の前に現れた。

 セリナはびっくりしたようにそれを見上げている。


「競馬場……」

「賭けることはあまりないけどね」


 空中通路を抜けて入場料を払い、敷地内に入る。

 お金はセリナが持ってくれた。2人合わせてたった400円だけれど。


「まずパドックに行こう。出走前の馬がぐるぐる歩いているところを眺める場所なんだけど」

「は、はい」


 先に歩き出していた私に小走りで追いつくと、腕をそっと絡められる。

 見上げた顔はきょろきょろとあたりを見回すばかりで、その行動に何らかの意図があるようには見えなかった。


 不安なのだろうか。

 確かに競馬場と言われれば怖い場所を想像してしまう人もいるだろう。

 実際、あまり柄の良くない人もいる。でもそれはどこへ行っても同じことだ。ここが特別治安が悪いわけではない。


 私はセリナの手を振り払うことはせず、ゆっくりとパドックに向かった。

 そこは遠目からでもわかるほどの人ごみで溢れていた。


 なんとか空いている手すりを見つけて、2人でもたれて、無言で馬を眺める。

 機嫌良さそうに頭を高く掲げ、尻尾を振り振り歩いている馬もいれば、何か気に入らないことでもあったのか道を外れてぐずり出す馬もいる。


「……自由ですね」


 セリナがぼそりと言った。

 ちょうど目の前を通った馬がぼとぼとと糞を落としていったところだった。

 素知らぬ顔で歩き続けるその馬面を眺めて、私は気持ちが凪いでいくのを感じた。


「馬、って感じでしょ」

「羞恥心はないんでしょうか」

「ないんじゃない? セリナも持ち合わせが少なそうだけど」

「たくさん持ってますよ! この前のことは人生で最大の失敗でしたって何度言えばいいんですか!」


 ぷりぷりと怒って見せる彼女がおかしくて、あははと声を上げて笑う。


「しばらく話のネタに困りそうにないね」

「消化するまでもう少し時間が欲しいです……」


 肩を落とす様子に、本気で反省していることが窺い知れて、少しだけ気の毒に思った。

 本人が言っていたことだけれど、セリナは体があまり強くなく、風邪を引いて学校を休むことも多かったそうだ。


 状況を聞けば不運が重なったともいえるし、準備と自分の体調への理解が足りなかったともいえる。

 お酒を飲んでしまったのは完全にセリナの自業自得だと思うけれど、それを指摘するのはかわいそうなので黙っておいた。


 パドックを出て、セリナとあれこれ言いながら100円で適当な馬券を買ってスタンドに座る。

 綺麗な芝の緑と柔らかそうな土の茶色を眺め、時折冷たい風に吹かれながら出走を待つ。


 セリナは初めてのことに興奮しているのか、しきりに馬券に印字された馬の名前と目の前にでかでかと掲げられたモニターを交互に見比べていた。


 穏やかな日だった。

 毛艶の良い馬を見て、太陽の元で力強く歩く様を目を細めて見ていた。


 しばらくすると馬がぞろぞろと出てきて、スターティングゲートに収まっていく。

 全ての馬がそろって間もなく、ガコンとゲートが開き馬が一斉に走り出す。


 場内に地響きのような馬の足音が響く。蹴立てられた砂が空中に散り、幕となる。

 馬は泡を食ったように走っている。どの馬も必死の形相だった。


 馬も命がけだ。

 足が遅かったり怪我で走れなくなってしまった馬は殺処分の対象だ。

 肉食獣から逃げるのではなく、人間の社会から必死に逃げている馬を見て、少しだけやりきれない気持ちになった。


 本当は自由に駆けたいのだろうか。

 自然界にだって捕食者はいる。すべてが自由になるとは限らない。けれど、それも含めての自由だ。


 馬にとってはどっちがいいのだろうか。

 馬が喋れたとして、人間に飼われる方を選ぶ馬もおそらく多くいるに違いない。


 物思いに耽っていると、遠くでわっと歓声が上がった。

 セリナは隣で残念そうに頬杖をついている。


 レースが終わったのだ。

 私たちが買った馬は負けて、大穴の馬が勝ったらしかった。


 私はどこに向かえばいいのだろう。

 このレースのように、私の前にゴールは設定されていなかった。

 ただがむしゃらに走ればよいというわけでもない。自由に生きろと言われても、自由に生きられる手段もあまりない。

 頑張った、到達したと思った地点からも数えきれほどの道が延々と伸びている。私はその真ん中で未だ動けずにただ立ち尽くしていた。


 なにが足りない?

 どの道を選べばいい?


「サキさん、もう一回行きましょ。なんか悔しいです」

「はいはい」


 立ち上がると、すっと絡められる腕を受け入れて、私たちは人ごみに紛れながらパドックに通じる道を辿る。


「……もし私がさ、この後パチンコ行きたいっていったらどうする?」

「え、付いて行きますよ。とりあえず禁煙の区画があるところでお願いします」

「あ、そ」


 パドックに戻って馬を見て、白馬にテンションが上がってその馬券を買って、案の定負けて。

 そうやってその日は穏やかに過ぎていった。

 冬のすっきりと晴れた日のことだった。

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