体調管理は万全に


 「よしよし。大丈夫、大丈夫……」


 そう言いながらひたすら背中をさする。

 誰の背中かは、言わなくてもわかると思う。


 その人は便器を抱き込むようにして座り込んでいた。目を閉じてじっとしていたかと思うと、時折背中を痙攣させては、体内からいろいろなものを放出している。


 その横顔は人形のようにきれいだった。

 ぽろぽろとこぼす涙はまるで真珠のようで、赤くなった頬と相まって、見る人によっては扇情的な雰囲気すら感じてしまうのではと思われたが、あいにく私にとってはただの病人で、すえた匂いを漂わせながら胃液を戻し続ける弱った女でしかなかった。


 今日は病院に連れて行こうと思っていたのに。

 弱り切った女の横顔を眺めながらため息をつく。


 まだ朝の4時だ。

 これから回復するのかもしれないけれど、動かすことすら避けた方がいいのかもしれない。というか、救急車も視野に入れた方がいいのだろうか。


 私は混乱する頭を落ち着けようと、大きく息を吸って吐き出した。


 うん、臭い。

 ボタンを押して便器の中をリフレッシュする。


「救急車呼ぶ?」


 鹿籠六かごろくは力なく首を横に振って答える。


「家の人は?」


 一瞬間が開いて、横に振られる。


「一人暮らし?」


 また間が開いて、ひとつ縦に振られる。そして黄色いものが体内から放出される。


 もう胃の中は空っぽなのだろう。

 コップに汲んだ水道水で口内をきれいにさせてから、塩と砂糖を適当に入れて作った経口補水液を口に含ませて、水分を摂取させる。


 少しだけ触れた額は燃えるように熱かった。


 しばらくして落ち着いてから、彼女をベッドに戻した。

 その後も洗面器を用意したり水分を取らせたり忙しくて、そうして鹿籠六が静かに寝入った頃には外はすっかりと明るくなっていた。




 ◇◇◇




 翌日、やっとのことで鹿籠六を病院に連れて行くことができた。

 医者にはただの風邪だと冷たく突き放されたけれど。


 おかゆを食べさせた後に、貰ってきた抗生物質をお湯とともに飲ませる。

 ごくりと喉が鳴って、嚥下されるところを見届ける。


 これは、なにかの冗談だろうか。

 なぜ私は少し知っているだけの女を何日も介抱しているのだろうか。


 これまで何度も頭をよぎってきた疑問が、表面に浮き上がってくる。

 それをかき消すように、乱暴に髪をくしゃりと乱す。


 面倒くさいとは思う。

 でも仕方がないじゃないか。

 鹿籠六だって、風邪を引きたくて引いたわけではないはずだ。


 すみません、と何度言われたかわからない言葉を口にしながら、薬を飲み切った鹿籠六はゆっくりとした動作でベッドに横になった。

 そうしてすぐにすうすうと寝息を立て始める。

 私は極力音を立てないように使った食器を洗って、部屋の中を一通り片付けた。

 やることをやってしまえばそれなりに暇だったから、本を読んだり次の仕事について検索したりしていると、次第に日が傾き始めた。

 カーテンの隙間から弱弱しい陽光が長く伸びてベッドにかかる。

 死んだように寝ていた鹿籠六の顔が眩しそうにしかめられたのを見て取って、きっちりとカーテンを閉め切る。


 ベッドの傍に寄ると、額に手を当てて体温を推し量った。

 だいぶ落ち着いては来ていたけれど、まだまだ体温は高い。


 その時、手首にふっと息がかかって、目の前で瞼が持ち上がった。

 きょろりと視線を彷徨わせてから、ゆっくりと私の顔に焦点があっていく。


「……松葉下さん」

「サキでいいよ、言いにくいでしょ」


 ごほりと咳をして、鹿籠六が「サキさん」と言い直す。


「すみません、ベッド占領しちゃって」

「もうその話はいいよ。治るまでゆっくり使って」


 何度も聞いた謝罪の言葉を受け流して、私は鹿籠六の表情を窺った。

 トロンとした目に、まだ身体はしんどいのだと悟る。


「水いる?」


 買ってきたペットボトルを手に持って掲げる。

 僅かに頷いたので、コップに注いで飲ませてやる。

 食べ物はと聞いたらいらないと首を振るので、布団をかけて寝るように促した。


 ポンポンとおなかのあたりを叩きながら、目を閉じた鹿籠六の顔を眺める。


 何度見ても、きれいだと思う。

 額に張り付いた乱れた髪も、薄く開いた唇も、どこから見ても写真が取れそうなほど整っている。


 部屋が暗くなってきて、少しだけ眠くなる。

 ここ2日、まともに寝ていなかった。

 立ち上がる気力も湧かなくて、上半身をベッドに預けて目を閉じた。




 ◇◇◇




 さらりさらりと髪が揺れる感触で目が覚めた。

 カーテンの下側から光が漏れていて、いつの間にか夜が明けていたことを知る。

 むくりと頭を上げると、指先が目の前を横切って、そして遠ざかっていった。


 頭を撫でられていたのだと気が付いて、若干の気恥ずかしさに目を伏せる。


「……体調は?」

「だいぶいいです。あと1日、2日で治ると思います」


 随分と声に張りが戻ってきていて、ひとまず安心する。

 傍にあったペットボトルを手に取って差し出すと、ゆるりと首を振って拒否される。

 見れば昨日に比べて中身がかなり少なくなっていた。

 自分が寝ている間に勝手に起きて飲んでいたのだと悟る。


「本当は、わかってたんです」


 鹿籠六が天井を見上げたまま、静かに口を開く。


「昔から身体が弱くて、雨に濡れたりするとすぐに風邪を引くような子どもでした。だから自分の体調には敏感で、バイトの最終日も朝から体調がおかしいとは感じていましたし、翌日には熱を出すだろうなということも分かっていました」


 頬に触れていた掛け布団が揺れて、鹿籠六の身じろぎを感じ取る。

 居心地の悪そうに動かされた手が、傍にあったシーツのたわみをぎゅっと握り締めた。


「けれど、あの日を逃すともうサキさんともう会えないと思ったら、なんだか堪らなくなって。結局、無理をしてこんな結果になってしまいました」


 ごめんなさい、と言って鹿籠六は腕で顔を覆った。


 少しの沈黙が流れる。私はどうしようかと考えて、そしておもむろに立ち上がった。

 鹿籠六に背を向けてキッチンに向かい、野菜室を覗いて、ひとつ頷く。


「ねえ。雑炊食べる?」

「……食べます」


 背後から掠れた返事が聞こえると、私は少し萎びてしまった野菜を冷蔵庫から取り出して小さく小さく刻んでいく。

 冷凍されたご飯と切った野菜を一緒に煮て、最後に溶き卵をさらりと流す。

 味を確認してから、お椀によそってベッドまで持っていった。

 レンゲも渡して、私は自分の分を片手に持ちながら、ベッドを背もたれにして床に座り込む。


 お椀からはもうもうと湯気が立っていた。

 熱々のそれに息を吹きかけて冷まし、少しずつ口に運んでいく。


 ずずっ、と背後から鼻をすする音が聞こえた。

 その後すぐに息を吹きかける音と咀嚼する音が続く。しばらくの間、部屋の中には私たちの立てる音だけが響いていた。




 ◇◇◇




 その翌日、しっかりとした足取りで歩けるくらいまで回復した鹿籠六を浴室に追いやって、シーツ類をすべて近くのコインランドリーで洗濯した。

 やっぱり人間は動物でしかなくて、どんなに外見が良くても4日もお風呂に入らないと普通に臭いし、衛生面も不安だった。だから、自分でやると言い張る彼女を説得し、彼女と寝具を同時に綺麗にするという選択をした。


 ごうんごうんと音を立てて大量の泡に塗れるシーツを、満足げに眺める。

 掃除は割合好きだ。部屋がきれいになると頭がすっきりするし、なにより気持ちがいい。


 家に帰ると、お風呂上がりの鹿籠六がなにかを言いたげな表情で私を見てきた。

 眉間にしわを寄せたその顔には不満がありありと見て取れて、その反応が楽しくてにこにこと笑う。


「似合ってるよ」


 オレンジのド派手なスウェットに身を包んだ鹿籠六。

 丈が長いのか、足首と手首で生地を数回折り返していた。


 私が量販店で1000円で買ってきたスウェットだったから、彼女は文句をいうこともできず、ずり落ちないようにと腰の紐をしっかりと結んで止めていた。


 これくらいのいたずらなら、許されるだろう。

 そう思って誰にも着こなせそうにないスウェットを選んで買ってきたのに、彼女が着るとそれなりに見えてしまうから不思議だった。


「また雑炊作ろうか」

「手伝いますよ」


 弛んだ袖口をぐいぐいと捲りながらキッチンに立とうとする鹿籠六を手で制して、視線でベッドへと促す。


「もう大丈夫ですって」

「念のため。ぶり返すと私が大変なんだからさ」


 そう言われると反論のしようもないのか、鹿籠六はすごすと私が使っていたソファベッドに向かった。

 私はいつものように冷蔵庫から食材を取り出してまな板の上に置くと、包丁で細かく刻んでいく。

 タンタンタン、という音が部屋に響き、ぐつぐつとお湯が煮える音と調和する。


「サキさん」


 呼ばれて、顔を上げる。

 鹿籠六はにこりと笑っていい匂いですねとだけ言うと、毛布を口元まで持ってきて、くるりと丸くなった。

 そのしぐさに、ペットか何かを飼っているような気分になって、頬が少しだけ緩む。


 悪くはない。

 お腹を空かせて、私の作るご飯を待っている鹿籠六を見る。

 カチャカチャと食器の立てる音とぐつぐつ煮える音が響く。

 しばらく経ってから、私は声を掛けた。


、テーブルの上片付けて」

「っあ、はい」


 がばりと毛布を飛ばして起き上がった鹿籠六——セリナは、すぐに立ち上がっていそいそと片づけを始めた。


 前回よりも多めにお椀によそいで、きれいになったテーブルに置く。

 エビやホタテ入りの海鮮雑炊だ。野菜と冷凍シーフードミックスを入れただけだけれど、これがなかなかおいしかったりする。


 目を輝かせて私と雑炊を交互に見るセリナにどうぞと言って、自分のものにも箸をつける。

 夢中になって食べる彼女を見ていると、なんとなく穏やかな気持ちになって、それが逆におかしかった。


 私たちはお腹一杯になるまでご飯を食べて、少し会話をして、一緒に食器を片付けて。そうやって時間は過ぎていった。

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