お酒には気をつけましょう


 失敗した。

 大学生の言葉など信用してはいけなかった。


 古民家風のこじんまりとした居酒屋。

 店員は慣れているのか、こちらを見てすべてを察したような表情でお冷を持ってきてくれた。

 私の目の前には、置かれたグラスに気付きもせずに、机に突っ伏して動かない鹿籠六がいる。


「すみません、自分で帰れますので……」

「いや、どう見ても無理でしょ」


 こじゃれた店内にふさわしくない、呂律の回らない声でうわ言を繰り返す鹿籠六にため息をついた。

 適当な小鉢をつまみに酒盛りを始めたのが小一時間前のこと。

 アルバイトの愚痴や面白い客の話などで一通り盛り上がって、さあこれからという時に、どうしてこんな状況になってしまったのか。私は未だにその理由を把握できていなかった。

 居酒屋に誘ってくるのだから酒が飲めないはずもないだろうし、店内での慣れた振る舞いからお酒に対してもそれなりに慣れ親しんでいることが窺えた。

 だから多少信用してしまっていた。

 それが悪手だったのだろうか。


「本当に、置いて行ってください……」


 ガタンッと音がして、鹿籠六のスマホが床に落ちた。

 彼女はそれに気付いているのかいないのか、水滴が点々と落ちたテーブルに伏せたまま、微動だにしない。顔を近づけてみると何かをしゃべっているようだったが、それを聞き取ろうという気も、とうに失せていた。


「すみません、お会計お願いします」


 気の毒そうな顔をした店員を呼んで手早く会計を済ませると、私は鹿籠六のスマホを拾い上げてポケットに入れる。


「ほら行くよ」


 2人分の荷物を握り、声をかけてから鹿籠六の脇の下に潜り込む。

 よたよたとした足取りで店内の注目を集めながら通りに出る。途端、冷たい風が頬を撫でた。


 何をしているんだろうな。

 怒りは感じていない。ただ少しだけ、悲しかった。


 至近距離にある横顔を盗み見る。

 赤く染まった頬やきれいにカールしたまつ毛を眺めても、もう心拍数が上がることはなかった。


 タクシーを呼んでもよかったが、できればお金を使いたくなかった。

 幸い自宅はすぐそこだったからこのまま歩いていけなくもないが、鹿籠六を家に上げることに若干の抵抗がある。


 でも、仕方がない。

 鹿籠六に家はどこかと聞いて、まともに返事がくるとは思えない。

 このまま路上に放置など、もちろんできるはずもない。


 私は覚悟を決めて、よたよたと歩いて自宅のあるマンションに帰り、苦労しながらも彼女を自室に上げた。

 ぱちりと電気をつけた部屋は、いつもの通りに私を出迎えてくれて安心する。

 標準よりも体重は軽そうだとはいえ、自分よりも10cm以上大きな人間を支えて歩くのは大変だった。

 やっとの思いで彼女をベッドに横たえた時には、額から玉のような汗が滴っていた。それを袖口で拭い、台所で水を一杯飲んで一息つく。


 鹿籠六にも水を持っていくと、すみません、すみません、と繰り返しながら、喉を鳴らして豪快に嚥下する。会話らしい会話ができる状態ではなかったが、唯一の救いと言えば、変に動き回る様子がないことぐらいだろうか。


 鹿籠六がおとなしくベッドに横たわっていることを確認すると、シャワーを浴びて酒臭さと汗を洗い流した。長居はせずに浴室から出ると、肩まである髪をタオルドライしつつ、冷蔵庫を開けて缶ビールを取り出す。


 こんな日は飲み直すに限る。

 こんなに面倒なことがあったのだと、いずれ笑い話にぐらいはできるだろう。


 ローテーブルにつまみの柿ピーと缶ビールを置くと、プルタブを開けて一気に煽る。

 居酒屋で飲んだビールと比較すると安っぽい味がしたが、こちらの方が安心感があった。ポリポリとナッツをかじって、なんとはなしにベッドの方を見やる。


 掛け布団から覗く頬は相変わらず赤かった。

 目は固く閉じられ、少しだけ呼吸が荒い。


 瞬間、違和感を感じる。

 何かがおかしい。そう思ったが、酔った頭では何がどう変なのかがよくわからなかった。

 私は仕方なしにベッドににじり寄ると、彼女の髪や額に手を触れてみた。


 熱い。

 途端に、ぼんやりと漂っていた意識が覚醒した。


 鹿籠六をよく見れば、体が小刻みに震えている。


 私は急いでエアコンの設定温度を上げた。ぴぴぴっと音がして、夏かと疑うような数字がリモコンに表示される。さらにクローゼットを開けて仕舞っていた予備の毛布を取り出し、なおも震え続けている掛け布団の上に重ねる。


 他にできることは、と考えていると、吊り下げた自身のコートからブォンブォンとバイブレーションが鳴り始めた。


 慌ててポケットから取り出してみると、それは鹿籠六のスマホだった。

 電話マークが表示されたディスプレイを迷うことなくタップする。

 助かった、と思った。彼女の知り合いにどう連絡しようかと思案していたとこだったのだ。


「もしもし、あの……」

「あんた、誰?」


 棘のある第一声によって、私の言葉は無残にも遮られた。


「新しい女? 言っとくけど、あんたなんか遊び相手もいいところだからね」

「え? いや……」

「セリナに電話するように言っといて」


 つけ入る隙も見せず、通話は一方的に断ち切られた。

 あまりのことに呆然としていると、どこからともなくふつふつと静かな怒りが湧いてくる。


 なんなんだ、一体。

 私がなにをしたっていうんだ。

 手元にあった缶ビールを飲み干して、新しいものを開ける。

 喉の奥でパチパチと炭酸が弾けて、少しだけ冷静になった。


 放り出していたスマホを見る。

 画面は暗く沈んでいた。

 恐らくロックがかかっているだろうから、かけ直して文句を言うことはできなかった。渦中の人物はといえば、うっすらと汗をかきながら熱い吐息をこぼしているだけだった。


「なに、どういうこと……?」


 頭を抱えてみたが、状況が全く読めなかった。

 新しい女。遊び相手。セリナと親し気に呼んだ女。


「めんどくさ……」


 私は考えることを放棄して、汗をかいていたビールをちびりと飲んだ。

 室温の上昇につられて温くなってしまったビールは、苦くてまずかった。


 その日、鹿籠六の荒い呼吸をバックミュージックに、私は一人で飲み明かすこととなった。

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