アルバイトはじめました


「松葉下さん、久しぶりだねー!」


 私の手を握ってぶんぶんと振っている優男は、家の近くにあるスイーツ店の店長だ。

 パティシエとして若くして独立し、住宅街にカフェ併設の店をオープンさせている、いわゆるやり手の店長だった。


「店長、お久しぶりです。でも、いいんですか?」

「いいもなにも、大歓迎だよ! 経験者に来てもらえるのはありがたいし、それに松葉下さんは仕事が丁寧だしね」


 お世辞なのか本心なのかはわからなかったが、ニコニコと人懐っこそうに笑う店長にほっと胸を撫でおろす。

 いつの間にか入っていた肩の力が、すっと抜けていくのが分かった。


 派遣会社からしばらく派遣先の紹介は難しいと伝えられた私が選んだのは、失業手当支給までの繋ぎとして、アルバイトをすることだった。

 新しくバイト先を探すよりはと学生時代に働かせてもらっていたところに連絡を取ると、あっさりと短期のアルバイトとして雇ってもらえた。


 店長と世間話をしながら店内を軽く見回してみる。

 変わらないものもあれば、大きく様変わりしているものもあった。

 5年も経つのだから当たり前だ。ただ当時から建て付けの悪かったスイングドアが、若々しく刷新されたスタッフによって未だにキイキイと音を鳴らされているのが、妙におかしくて、少しだけ泣きそうになった。


「松葉下さんには店頭でケーキやシュトーレンを売ってもらいたいんだけど、大丈夫? 服装は上からこの赤いコートを羽織ってもらえれば、あとは自由にしていいからね」

「はい、わかりました」


 少しくすんだ赤いコートを受け取ると、ずっしりと重かった。

 肩が凝りそうだなとげんなりしたが、昔は何の苦もなく着ていたことを思い出して苦笑する。


「わかってるとは思うけど、当日は2人一組で販売してもらうから、トイレや休憩なんかはカバーし合ってとってね。あと、松葉下さんのペアの子、ちょっと見た目があれだから、もし何かあったらよろしくね」


 店長が笑いながら肩を叩いてきた。

 私は、はあ、と気のない返事をして、店長のマニュアル通りの諸注意を黙って聞く。


 見た目があれって?

 シュレックみたいってこと?


 慣れ親しんだ環境に気が緩んだのか、ふわりふわりと取り留めのない疑問が頭に浮かんでは消えていく。

 そんなふうにぼんやりとしていると、いつの間にか店長の話は終わっていた。いくつかの質問をして、特に問題はなさそうだと互いに確認してからその場は解散となった。




 ◇◇◇




 12月、師走。

 目出度く派遣切りにあった私は、世の中に存在する家族や恋人たちのために、寒風吹きすさぶ中、店先に立っていた。


 隣には、見た目があれと言われていた女が立っている。

 当然ながら緑色の肌ではなく、普通のアジア人の黄色味がかった肌だ。

 少し身長が高く、155cmの私からすると見上げなければならない。

 大学生らしく、ちらりと見かけた鞄には重そうな参考書がいくつも入っていた。


 私は店に面した街路の様子を窺う。

 人通りはまばらだった。近所の幼稚園が終わる時間帯なのか、幼児と母親が何組か通り過ぎるのを見送った。時折スーツを着た人が、こちらをちらりとも見ることなく行き交っていく。


「結構暇なんですね」


 隣の女が不安げな声で話しかけてきた。

 顔を見上げようとして、捻った首が軋む。


「まあ、まだ昼間ですし」

「お客さん、ちゃんと来るんでしょうか……」

「ちゃんと来ますよ。夕方頃になると人気のある商品は売り切れると思います」


 私の言葉に、女は安心したような笑顔を見せた。


 真面目なんだろうな、と思った。顔に似合わず、という枕詞がどうしてもついてしまうのは、いいことなのか悪いことなのか判断が難しいけれど。


「あの……」

「……たぶん、今のうちに商品案内の練習をしておいた方がいいと思いますよ」

「で、ですよね。練習します」


 綺麗に伸びた眉尻が下がり、女が慌てたようにメモ帳を取り出してパラパラとめくっていく。


 ちょっと言い方がきつかったかもしれない。

 きゅっと強く結ばれた、形のいい口元に視線をやって思う。


 それにしてもだ。

 どれだけ前世で徳を積んだら、こんな造形に生まれられるのだろう。


 一言でいえば、雑誌からモデルが飛び出してきたかのようだった。

 顔だけではなく手足の長さや頭の形まで綺麗で、全身のバランスがとてもよかった。そしてどことは言い難いけれど、セミロングの髪をなびかせたその姿はハッと目を惹くような華やかさを持っていた。


 ぽつぽつある人通りの中に、こちらをちらりと見てはひそひそと囁く人や、じっと凝視してくる人がいて、それらがすべて隣の女のせいだということは考えるまでもなくよく分かった。


 面倒なことにならないといいけど。

 そう思いながら、ふと店長の言葉を思い出した。そうして合点がいく。

 あれはなにか問題が起きたらちゃんと対応してね、という依頼だったのか。

 しかし、それは販売という仕事の範疇に入るのだろうか。入るのだろうな。だから社会経験もある私を入れたのかと納得して、そして嘆息した。


 引き受けてしまったものは仕方がない。

 私は気持ちを切り替えると、仕事用の笑顔を作って、こちらに興味のありそうな通行人に声を掛けるべく息を吸い込んだ。




 ◇◇◇




 モデルもどきの女は鹿籠六かごろくセリナと名乗った。


 変わった名字だけれど、私も大概だと思い直して下手にコメントすることはしなかった。人間どこに地雷があるかわからない。馴れ馴れしく声をかけてもいいことなどないと、いろんな経験を経て知っている。


「1080円になります」

「80円あったかしら……」


 不器用な手つきで財布の中身を漁る年若い母親をにこやかに待ちながら、私はちらりと隣を見やった。

 鹿籠六は母親と連れ立てやってきていた小学校高学年程度の男の子に、ケーキを詰めた紙袋を手渡しているところだった。

 男の子が面倒くさそうにケーキを受け取ろうと顔を上げて、そして一瞬で赤面する。


 私は、ああまたかと鼻で笑ってしまった。

 気の毒な男の子は、彼女に見とれてぽうっとなってしまっている。

 しばしの後、私の生暖かい視線に気づいた男の子が、頬を染めながらも私を睨みつけてきた。そうして奪い取るように袋を掴むと、たっと駆け出していく。


「あ、どこ行くの!」


 母親は慌てたように叫ぶと、会計を済ませてその背中を追いかけて行った。


 鹿籠六と2人揃って親子を見送る。

 ふと隣から、遠慮がちな声が掛けられる。


「……あの、松葉下さん」

「……なんですか?」

「私、接客向いてないですか?」


 男の子には少し刺激が強すぎただけだし、半分は私のせいでもある。

 なのにどこか悲しそうな顔をしているのは、どういう心理なのだろう。


「始めて1時間でわかるわけないでしょう」


 お茶を濁した回答に、鹿籠六は眉をしかめて難しそうな表情を作った。


 男の子にも鹿籠六にも悪いことをしたかなと思ったけれど、特に何かフォローを入れるつもりもなかった。

 頭を切り替えて、にこやかな表情で集客を始める。


 結局、その日はバイトが終わるまで鹿籠六は固い表情を崩すことはなかった。




◇◇◇




 1日、2日と何事もなく過ぎた。

 鹿籠六も慣れてきたのか表情に余裕が出てきて、最近はよく笑うようになっていた。そうすると、そこにだけスポットライトが当たったかのように輝いて見えて、人々が目を留める確率も格段に増えていった。

 私は鹿籠六の邪魔をしないよう、ケーキの梱包やレジといった事務作業を一手に引き受けた。そうした方が鹿籠六が客に集中できて、目に見えて集客率が上がったからだ。


 露骨だな、と思わないでもなかったが、人はそういう風にできているものだ。綺麗なものには群がる。汚いものには蓋をする。


 ふっと、商品を買いに来た客が、夜の街灯に群がる虫のように見えてきて、私はひとつ頭を振った。


「どうしたんですか?」

「なんでもない」


 鹿籠六が不思議そうに私を見る。

 端正な顔が人間らしく歪んで疑問符を浮かべる。


 今想像したことを伝えたら、その顔は嫌悪に染まるのだろうか。

 私を軽蔑のまなざしで見て、声高く批判するのだろうか。


 ——よくない考え方だ。


 そう思うけれど、思考は坂を転がり落ちるようにして下へ下へと沈んでいく。

 私は気を逸らそうと、辺りを見回した。


 日はすっかりと落ちて、あちこちで色とりどりの電飾が光り輝いている。

 人々は年末に向けて緩んだ空気を纏い始め、プレゼントを買う方も貰う方も、双方心を躍らせている。


 すっ、とこころに空いた穴の中を、酷く冷たい風が通り抜けたような気がした。

 私は忙しくしていた手を止めて、いつの間にか肺に溜まっていた淀んだ空気を吐き出す。


 寒いな、と思った。


 分厚いコートを来て、暖房器具が足元を赤く温めていても、どうにも冷え切ってしまった部分が胸の中心にあることを自覚する。


 私はくるりと後ろを向くと、客から見えないように目を閉じて、感情の波が去ってくれるのを待った。




「……ります」


 声が聞こえた。

 ここ最近、耳慣れてきた声だった。

 そこからは焦ったような、困ったような感情が読みとれて、私は弾かれたように顔を上げた。


「お客様、ですから今は仕事中でして……」

「バイト代ぐらいいくらでも払ってやるから、ちょっとだけ付き合ってくれよ。な?」

「いえ、あの……」


 サラリーマン風の若い男が2、3人、鹿籠六を取り囲むようにして立っていた。彼女は眉尻を下げて表情で周囲に助けを求めていたが、スタッフも含めて皆が事態を遠巻きに見つめているだけだった。


 私はさっと周囲に目を走らせて店長を探す。しかしケーキ作りに忙しいのか、厨房にこもったまま事態に気が付いている様子はなかった。


 仕方がない。これも仕事か。

 私は大きく息を吸って気合を入れると、サラリーマン風の男たちの前に割り込んだ。

 とても酒臭い。


「お客様、本日は期間限定のショートケーキが売り切れてしまい大変申し訳ございません。代わりと言っては何ですが、こちらのビターチョコレートケーキでしたら1割引きでご用意できますが、この機会にいかがでしょうか」


 私の言葉にぽかんとした表情を浮かべる男たち。

 私は畳みかけるように商品の説明を続ける。


「こちら、甘さがかなり抑えられており、男性のお客様にも大変人気のある商品でございます。逆に甘いものがお好きでしたら、こちらのティラミスもおすすめです。口の中でまろやかに溶けていく感覚が病みつきになります。さっぱりとした後味をお求めでしたら、季節のフルーツをふんだんに使用したフルーツタルトなども……」


 正攻法で世の中を渡っていけるのは選ばれた人間だけだ。

 もちろん私はそのくくりには入っていない。


 眉をひそめて互いをつつきあう男たち。

 ひそひそと話しては笑いが漏れている。


 笑えばいい。頭のおかしな女だと、見下せばいい。

 そういうことには慣れている。


 すっかりと気勢を削がれた男たちは、滔々としゃべり続ける私を尻目に、互いに目配せを交わすとあっさりと引き上げていった。


 去り際に様々な悪口が聞こえてきたような気もするが、それを気に病む繊細さはとうになくしている。


「ありがとうございましたー」


 後ろ姿にぺこりと頭を下げる。

 

 周囲を見渡して、特に異常がないことを確認する。隣に目をやると、鹿籠六が申し訳なさそうな表情をして突っ立っていた。


「あの、すみませんでした」


 力のない声で謝られる。

 悪いのはあのサラリーマン客で、彼女が謝ることではないだろうにと思ったけれど、それを言葉にすることはなかった。

 ひとつ頷いて休憩するように促すと、鹿籠六はもう一度頭を下げて無言のままバックヤードに戻っていった。

 沈んだままの表情に、なんとなく居心地が悪くなる。


 しばらくすると遠巻きにしていた客が潮が満ちるように戻ってきて、くるくると立ち働いているうちに鹿籠六も戻ってきた。

 そうしてケーキを売り切って、その日の仕事は終了した。




 ◇◇◇




 12月24日。クリスマスイブ。

 昔は色とりどりのネオンに目を奪われ、陽気な音楽に気分が高揚した、そんな日。

 わくわくと待ち遠しかったその日は、いつの間にか灰色の毎日に飲み込まれ、何の感慨も湧かない日となってしまっていた。


 アルバイト最終日。

 鹿籠六は慣れた様子で、さざ波のように押し寄せてくる客を捌いていた。

 私もいつものように商品を梱包して箱に収め、レジを開け閉めしてきっちりと代金と交換していく。


「めちゃくちゃ人多いですね」

「今日が本命だしね」


 初日からは考えられないようなてきぱきとした動きで、私たちは互いの領分をカバーし合いながら黙々と商品を捌いていた。

 今日ばかりはご飯を食べる時間もないだろうとげんなりしながらも、私はどこかこの仕事を楽しんでいた。


 それはお客さんから直に向けられる感謝であるとか、子どもたちの嬉しそうな笑顔であるとか、理由はいくつかあったが、意外にも鹿籠六との相性が良かったことも要因の一つであった。

 彼女は仕事の覚えが速かった。それだけではなく、私やお客さんの動きに目を配り、欲しい時に欲しいものを出してくれる察しのよさを持ち、嫌なことがあった時にもすぐに気持ちを立て直してくる姿勢といった、おおよそ人が好ましいと思えるものを持っている人だった。


 彼女ならどこへ行ってもやっていける。

 私とは違う、明るい未来が待っていることだろう。


 そうして忙しく立ち働いていると、あっという間に閉店時間となった。

 空腹に軽くめまいを覚えながら、私は空になったショーケースを満足げに眺める。

 隣では鹿籠六がどこか気落ちしたような雰囲気で佇んでいた。


「ほんとに売り切れましたね」

「残念そうだね」

「余りものが貰えるかもと思っていたので」


 鹿籠六はそう言うと、タイミングよく鳴き出したお腹を手のひらで抑えた。


「あの、よければこれからご飯いきませんか? この前のお礼もまだでしたので」

「この前?」


 お客さんに絡まれたときのことを言っているのだと気が付いて、私は頭を振った。

 さっさと家に帰ってビールでも煽ろうかと思っていたくらいだから、特に不都合はなかった。けれど、鹿籠六とはこれきりだと思っていたので戸惑いが大きい。


「別にいいよ、お礼なんて」

「おごるので! お願いします!」


 ぐっと顔を近づけられて、私は思わず顔を逸らした。

 美人に至近距離から見つめられた経験などなくて、あまりの迫力に心臓が早鐘を打つ。

 鹿籠六は引く気配もなく、じっと私の反応を待っているようだった。

 その姿勢のまま一向に動くそぶりを見せない彼女に、覚悟を決めてからちらりとその顔を見上げてみる。


 そこには唇を引き結び、仕事中にも見たことのないような悲し気な表情をした鹿籠六がいたものだから、私はどうにでもなれと首を縦に振ることしかできなかった。

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