豪快ステーキ
互いの住むマンションは思いのほか近かった。
セリナの通う大学もよく知っているところで、自転車で行ける距離だった。さらに行きつけのスーパーが同じで、互いに割引シールが貼られる時間帯まで把握していたのだから、今まで見かけなったのが不思議なほどだった。
「お邪魔します」
セリナが勝手知ったる様子で我が家に入ってくる。
手には重そうなエコバッグが握られている。それを受け取って、冷蔵庫に保管する。
「いくらしたの?」
「内緒です」
結局、競馬場では軽食も含めてちょっと高めのランチ程度にしかお金を使わなかった。だから、セリナからはお礼になっていないと文句を言われた。
高級焼肉店のページを開いて、にこやかにここに行きましょうと言われた帰り道。目を見張るような値段にめまいを覚えながら、ステーキなら自分で焼くと口を滑らせたのが果たしてよかったのか悪かったのか。
たった今冷蔵庫に収められたのは、きめ細やかなサシの入った分厚く美しい肉だった。ご丁寧に値札シールは剥がされ、高級感のあるトレイと存在感のある肉が庶民的な冷蔵庫の中で一際異彩を放っていた。
私は緊張を和らげるために、缶ビールを開けてぐびりと飲み込んだ。
途端に喉の奥が弾けて、心地よい痛みが食道と胃を刺激する。
「今度、店長主催でBBQやるらしいんですよ。サキさんも来ませんか?」
セリナがよっこいしょとソファに腰かけながら、私に話しかける。
クリスマスイブの短期アルバイトでそれなりに評価されたらしいセリナは、長期でやらないかと店長から直接スカウトされていたらしい。
特に断る理由もなく、今は週に2、3日のペースであのスイーツ店で働いている。
「えー、若者ばっかでしょ。浮くし」
「そんなに年齢変わらないと思いますけど……。ちなみに店長のおごりらしいですよ」
「行く」
即答した私をおかしそうに眺めてから、セリナはスマホの電源を入れた。
私はビールを飲みながら、台所をきれいに片付けて、肉を焼く準備をする。
「今日雪降るらしいですね」
「そうなんだ?」
基本的に家に引きこもって生活している私は、天気の情報に無頓着だった。
窓を見れば、確かに重苦しい雲が低く降りてきていた。
「早めに帰らないとですね」
ぼそりと独り言のように呟かれた言葉に、私は深く考えもせずに反応する。
「別に泊まっていってもいいよ」
「そういうわけにはいかないんです」
思いのほか硬い声音を出したセリナ。
それがなんだかおもしろくなくて、からかうような口調でおどけて見せる。
「さんざん泊まっていったくせに」
「はいはい、そうですよ。私はよそ様の家に無断で何泊もする女ですよー」
そう言ってセリナはベッドから毛布を取ってきて、ソファに猫のように丸くなった。
私はその様子を見て笑いながら、フライパンを熱しつつ冷蔵庫から取り出した肉に塩コショウを振りかけていく。
肉を焼くというのは、一発勝負の真剣勝負だ。
何度もひっくり返すと香りが逃げるし、焼き加減を確かめているうちに焼き過ぎてしまうことも多い。
私は気合を入れて、熱々に熱されたフライパンに下味をつけた肉の塊を一息に落とした。
じゅあっと激しい音がして、肉の焼ける匂いが辺りに漂う。
タイミングを見計らい、裏返し。
しばらく焼いて、固くなる前に引き揚げる。
「できたよ」
「いい匂いー!」
セリナはむくりと起き上がると、お皿に移されていたステーキをローテーブルに運ぶ。あとは白米と、みそ汁と、ピリ辛の高菜漬け。それですべて。
全部テーブルに並べて、二人でいただきますをして、食べる。
会話はない。この霜降り肉を食べる時に安易な会話なんてできない。
全身全霊でお肉を堪能して、お茶を飲んで一息つく。
「めちゃくちゃおいしかったんだけど」
「焼き方最高でしたよ。焼けてるのに柔らかくて、ジューシーで」
「いや、元々の品質のおかげでしょ。ほんとにいくらしたの? 聞くの怖いんだけど」
「内緒です」
きゃぴ、と星が飛びそうなおちゃめな表情をして、セリナが黙秘する。
「借金はしてないです」
「それしてたら怒るわ」
ふんわりと、時間が流れる。
満腹になった身体はだらりと怠惰になっていて、他人が遊びに来ているにも関わらず睡眠を貪ろうとどこかで画策しているようだった。
「あ、雪」
セリナが立ち上がって、カーテンを捲る。
はらはらと舞い落ちる大粒の雪の結晶が、窓を彩っていた。
「ちょっと外出てみません?」
「いいよ」
弛緩し始めた身体に鞭打って、上着を羽織り外に出る。
振り始めてからさほど経っていないはずなのに、道路にはうっすらと雪が積もっていた。
「わー、すごい」
セリナがマンションの塀の上に積もった雪を掬う。
それを握り締めて、そしておもむろにぴゅんと投げた。
当然のように私のお腹のあたりに当たって、上着に白く跡が付く。
「小学生かよ……」
「あはは」
ぽす、ぽす、と音を立てて、2発目、3発目の雪玉が命中する。
意外にもコントロールがいいらしい。
やられっぱなしは癪なので、私も塀の上の雪を搔き集め、手のひら大の雪玉を作成する。その間にも、背中には乾いた音を立ててセリナの雪玉が命中している。
「そんなに大きく作っても、当たらなければ意味ないですよ」
ニコニコとしながら、セリナが煽ってくる。
私はにやりと不敵に笑いながら、彼女に接近する。
「当てるんじゃなく、当たる距離に追い込むんだよ」
ダッ、とほぼ同時に駆け出した。
舞台はマンションの駐車場兼駐輪場。人気はなし。
逃げるセリナの背を追って駆ける。けれど、なかなか捕まらない。
車をジグザグに迂回し、太い柱の影を飛ぶように移動するセリナ。思わず苦笑が漏れた。
「さては、運動神経いいな、おまえ」
「体育は好きなんですよね」
なんとか駐輪場の隅に追い込むも、彼女は余裕の表情を崩さない。
「当たるんですか? それ」
「当てる」
握り締めていた雪玉は、体温で溶けたのかぬるりと滑っていた。
それでも、彼女に向けて繊細な力加減で以てそれを放る。狙うは胴体だ。
「あ……」
案の定というべきか、投げるという動作を普段からしているわけではない私には難しい操作だったのか、雪玉は狙いを逸れてあっさりとあさっての方向へと飛んでいった。
ガシャン。
自転車に当たり、ぐらりと鈍色の物体が傾いだ。
セリナがそれを慌てて受け止める。
「あっぶな……」
自転車は密集して止めてあった。つまり、一つ倒れれば、連鎖して横の自転車も倒れるということだ。
「……さんきゅ」
じとりとした目で見られたが、頭を掻いて誤魔化した。
「帰ろっか」
「そうですね。サキさんが何かを壊す前に」
セリナはそう言って歩き出した。
私は反論することができなくて、黙って後に続く。
くしゃん。
エレベータの中でセリナが鼻をすする。
「お風呂入ってく?」
「いや、それはちょっと……」
部屋に辿り着いて、またくしゃみ。
暖房の効いた部屋に入っても、なんとなくセリナの顔色は優れない。
「入ってきなよ、今更何を遠慮する必要があるの。今沸かすから」
「じゃあ、はい。すみません……」
しゅん、とうなだれたセリナを置いて、お風呂の準備をする。
何を心配しているのか。友達だと思えるぐらいには気心が知れていると思っていたのに、そう感じているのは私だけなのだろうか。
リビングに戻ると、セリナが神妙な面持ちで正座して待っていた。
「あの。サキさんにお伝えしないといけないことがあります」
「はい」
そう言ったものの、あーとかうーとか言って頭を抱えているセリナ。
私は首をかしげて、挙動不審な彼女を黙って見ていた。
しばらく経ってもなかなか言い出さない彼女に、私はテーブルに広がっていた汚れものをまとめて、シンクに持っていった。スポンジを手に取って、洗い物をしようと思ったところで、彼女がやっと口を開く。
「私、女の人が好きなんです」
「そうなんだ」
ジャー。
水がお皿に跳ねて、表面に着いた油を洗い流す。
それだけでは汚れが取れないので、洗剤を付けて綺麗に油汚れを絡め取っていく。
「……それだけ?」
「他になんて反応すればいいの?」
「もっと、こう。びっくりした感じとか」
「そうなんだろうなって思ってたし。というか、元カノ?から電話来てたよ。言うの忘れてた」
「は?」
そう言えば、怒涛の看病で伝えるのを忘れていたのだった。
あの刺々しい言葉を思い出して、自然としかめつらになる。
セリナは自分のスマホを慌てて確認して、そしてがっくりと肩を落としている。
「まじですかー」
「ごめんごめん。伝え忘れてたのは悪かった」
「そこはまあ、そんなに気にしてないんですけどね……」
拗ねたように毛布を被るセリナ。
その後頭部を見ていると、なんとなく彼女の恋愛に興味が湧いてくる。
「今は彼女いるの?」
「いませんよー」
くぐもった声が聞こえる。その含みのない声に、元カノを引きずっているわけではないらしいと推測する。
「次の人は見つけないの?」
「難しいんですよ、いろいろとね」
今度は諦めの混じったような声。
こんなに造形のよい彼女でも難しいことがあるのか。あるんだろうな、よくわからないけれど。
くるくると思考を巡らせていると、じっとセリナから見つめられていたことに気が付く。
「なに?」
「自分はタイプなのかとか聞かないんですね」
一瞬、何を言われたのかわからなくて、思考が停止する。
タイプ、とな……。
「そこまでうぬぼれてない」
自分がセリナから恋愛対象として見られる可能性を全く考慮していなかった。
そもそも、そんなことはありえないと思っていたのだ。私はどこにでもいる冴えない女で、彼女には不釣り合いすぎる。
「なんで? サキさんかわいいのに」
「逆に、私とセリナで恋愛って、理解が追い付かないんだけど」
あはは、とセリナが笑う。
高く空虚に笑う声に、給湯器の音が被さった。
「そういうところ、好きですよ」
彼女はそれだけ言って、浴室へと消えていった。
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