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 少し前まで、私は川向こうの繁華街に住んでいた。

 夜のない街だった。

 闇は瞬くネオンに埋もれて、人々の足音が無秩序なリズムを一晩中刻む。

 どこか満たされない人間のため、何か満たされない人間が、足りない何かの代用品を切り売りして成り立っているような、そんな街だった。

 アルコールとタバコのにおい、化粧品が酸化した油の匂い、いくつもの音楽が重なって聞こえる不協和音、男や女の嬌声と怒鳴り声。

 切れかけたネオンの明滅に照らされて野良猫が子どもを産むのを見たある夜、私はこの街を離れようと思い付いた。

 物心ついた頃から家族はいない。

 どこに居ようと私の自由だと気付いたのだ。

 その日のうちに家を出て、川にかかる橋を渡った。

 背中から聞こえていた街の喧騒が徐々に小さくなり、やがて聞こえなくなると、今度は虫の声がリリリ、と歌う声が耳に届いた。

 橋の上から見る夜空には、ゴミ箱をひっくり返したような満天の星が輝いていて、橋げたを見下ろすと、水がさらさらと音を立てて下流へと運ばれて行くのが見えた。

 その時、はじめて知ったのだ。

 世界はこんなに静かで、夜はこんなにやさしくて、耳に心地よい音はそこら中に溢れているのだと。

 

 橋を渡り切った先は、ひなびた住宅街だった。

 心地良いと言うには冷たい秋の夜風が、肌を撫ぜて行く。

 繁華街より気温が低い。

 宿になりそうな場所を探さなければ凍えてしまいそうだった。

 狭い道路に点在する街灯の明かりを追いかける。

 ふいに、膝がガクンと傾いた。

 足先に冷たい感触が広がる。

 アスファルトの窪みが水たまりになっていた。

 足を突っ込んでしまったのだ。

 「うわあ…」

 引き上げた足を地面にこすり付けてみたけれど、すぐに乾く訳はない。

 また夜風が吹いて、足元の体温を容赦なく奪って行く。

 「おや、どうしたんだね」

 ふいに、声がした。

 驚いて声の方向を見る。

 5メートルほど向こうの街灯の下に、杖をついた老人が立っていた。

 「こんな夜中に一人で、どうしたの」

 それはこっちのセリフだ。

 橋の向こうの繁華街では、ネオンが星みたいに煌めいている。

 老人が出歩く時間ではない。

 「いえ、別に、何も」

 たどたどしく答える私に、老人はゆっくり近付いて来る。

 茶色いズボンにベージュのセーター。

 髪は全部が白くて短い。

 男性だ。

 目は細く、薄暗い街灯の明かりだけでは閉じているのか開いているのかよく分からなかった。

 老人は私の足元を見ると、ほほ、と笑った。

 「かわいそうに、水たまりに落ちたのだね」

 恥ずかしくて、少し後ずさる。

 「家出少女かな?」

 老人は3メートル先で立ち止まると、こう言った。

 「うちに来るかい?こんな寒さじゃ凍えてしまうよ」

 少し、沈黙が続いた。

 突然家に、なんて非常識だと思うけれど。

 私は家出でもないし、もう少女でもないけれど。

 目の細いこの老人は、たぶん悪い人じゃないし。

 こんな寒さじゃ凍えてしまうのは、きっとその通りで。

 「…おじゃまします」

 私は老人の提案を受けることにした。

 こういうのが嫌いな友達もたくさんいるけれど、きっと私は抵抗がない方なのだと思う。

 杖をつきながらゆっくりゆっくり歩く老人の隣を、歩調を合わせてのんびり歩く。

 老人の取り留めのない話に適当な相槌を打ちながら、街灯のあかりをひとつ、またひとつ追い越して行く。

 家に付いたら、まず足を拭かせてもらおう。

 風の入らない暖かな部屋で、朝までゆっくり眠ろう。

 この日の私は、そんなことばかり考えていた。

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水曜日の猫 音無かぶと @shatihokorocker

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