第10節 開花していく未来
雛姫は
「翔んで 【カザキリ】」
雛姫が息を吹きかけると、その灰黒色の羽根は一羽の大きな鳥と成る。
本物の魔鳥の羽根が使われているその羽根ペンは、素となった魔鳥の姿を模している。その鳥は鷲のような姿をしているが、大きさは馬よりも大きく、大人が三人は乗れそうな程にその背は広い。
「ピィー ピィー ピィー」
カザキリと雛姫に呼ばれたその鳥は、鳴き声も姿も凛々しく美しい。
自身の主である雛姫を同じ翠色の瞳に雛姫を映すと、カザキリは雛姫の頬に嘴を優しく摺り寄せる。
カザキリの嘴の動きに合わせて、雛姫の白茶色のウェーブがかった髪が柔らかく揺れる。
雛姫がその嘴に手を添えて撫でると、カザキリは嬉しそうに「ピィー」と鳴いた。
そしてカザキリは雛姫を背に乗せて、雛姫が望むままに縦横無尽に庭園図書館を飛び回った。
◇ ◇ ◇
「また雛姫に先を越されたわね」
セレーナは背中で弛く一束に結ったピンクブロンドの三つ編みを残念そうに傾がせた。
悔しがる言葉を言いながらも、その音は楽し気に弾んでいた。
「でも一年生は暗号魔術が施されていないし、試験としては少し物足りないかもしれないわね」
そう言ってセレーナは笑う。
これは雛姫に対して言った言葉ではない。彼女自身の感想だ。
セレーナは伊達に初等部から周りの推薦で委員長をやり続けているわけではない。
セレーナは間違いなく優秀だ。
雛姫という突き抜けた存在の陰に霞んでいるように見えるが、周囲は彼女を認めているし、実際にこれまで同学年で雛姫と渡り合えるのは彼女くらいだった。
「折角三年生の試験レベルでもそれなりに対応できるように対策してきたのに、少し残念ね」
そんな言葉を、そんな努力を、さも当たり前のように語る。そんなセレーナだからこそ、麒麟児と呼ばれる雛姫と一緒に居られたし、理解者であれたのだ。
「――っと。余計なことを考えている暇はないわね。急がないと」
セレーナの顔は真剣なものに変わる。
「私は研究棟生で、ジェダイト
それは長年セレーナが口にしている言葉だった。
「私は皆のお手本にならないといけないのよ」
セレーナが駆けた後に、白百合の花が揺れた。
◇ ◇ ◇
赤い髪の少年が庭園図書館の中を駆けていく。
少年は
「あった。あった。『木春菊の章』の場所」
フランは書架番号を辿って進み、目的の書架から本を抜き取る。
そして、その本を開いて溜息を吐いた。
「もーなんなんだよー。みんな速すぎだよ……」
既に十数名程の名前が刻まれた花を見て、フランはぼやく。
その名前の中には、フランの友人たちの名前も刻まれていた。フランはその中の一人の名前に目を留める。
「あれ、すごいな。アレンも結構がんばってるんだ」
魔法がほとんど使えないという、この学院では弱点とも呼べる特徴を持つ友人の名前を見てフランは驚く。
「……これは僕も負けてられないな」
フランはあまりそういう素振りは見せないが、その実、友人たちに負けないくらいの負けず嫌いだ。
フランはきりりと視線を上げる。
フランは『花の書』から、書架から抜き出した本に収めるための花を摘む。
そしてそっとその花を開いた頁に置いた。
フランは透明な花に色が塗られたのを確認すると、次の書架までまた移動を始める。
「――僕は特別じゃないから」
フランは地面を蹴り、少しずつ速度を上げていく。
「だからこそ、真面目に地道にやっていくしかないよね。ひとつひとつ確実にいこう!」
赤い髪の少年は夢と現実をしっかりと見つめながら、次の場所に向けて再び駆けていった。
◇ ◇ ◇
本の中で眠る透明な花の中に、ただ一輪咲いた色花があった。
その淡い菫色の花弁に刻まれた名前を見て、アレンは微笑む。
「アイリス、頑張ってるみたいだな」
アイリスとアレンは同じような順番で花を収めていっていた。そんな事実を競技場に居る観客たちは知っているが、本人たちは知らない。
アレンは次の花を取り出すために、『花の書』を再び開く。
「よし、次の場所に行くか」
アレンは『花の書』の中の目的の花に触れると、藍玉の瞳を閉じる。
ゆっくりと深く呼吸をして集中する。
――空気に溶け込むように、自分が世界と一体となる
空気を満たす陽光のように。
草原を駆ける風のように。
夜空を流れる光のように。
風に揺れて尾を揺らす黄金の稲穂のように。
その想像は現実を超える。
「――――」
次の瞬間。
アレンは菫の花壇を一瞬にして離れ、薔薇の花が咲く一角に立っていた。
「このくらいの距離なら『
アレンは自分の存在を確かめるように繰り返し手を握った。
◇ ◇ ◇
アレンの試験中の映像を見ていた競技場内が騒めいた。
[騎士棟のアレン・ロードナイト君ですが、一瞬にして場所を移動したように見えました。私はこれと同じことをする方を良く知っています]
そう言った解説員をしている魔術棟の女学生は、視線をとある蜂蜜色の髪の女子学生が座る席に向けた。
その視線の先にいるクラーラに、隣に座るシンが問いかけた。
「『空間魔法』で失格を取られないところを見ると、やはりアレン・ロードナイトが使っているのは君と同じ技か」
解説員をしている同級生が言うまでもなく、周囲にいる学生や教師までもがクラーラに視線を向けていたことから、他の人たちも同じ疑問を持っているのだろう。
「さて、どうかしら?」
クラーラはとぼけるように言いながらも、周囲の反応に満足そうに笑っている。
つまり、シンの問いへの返答は『肯定』だ。
「……そもそも彼は魔法が使えないようなものだったな」
シンは椅子に深く腰掛けると深く息を吐く。
「突然その力に目覚めたかもしれないでしょう」
珍しく驚いているシンにクラーラは気を良くしたようで面白がっている。
「いや、分かっている。このひと月、君が彼と二人で何か訓練をしていたことは既に耳に入っている」
「本当にあなたってそういうの好きですわよねえ」
そして、そんなシンとクラーラの会話に興味を寄せた人物がもう一人。
「――へえ。アレンはあの技が使えるのね」
研究棟次席のケイティが値踏みするように魔水晶に映るアレンを見つめていた。
一昨日実施されたシンたち三年生の研究戦の夜、ケイティが妹のアイリスと随分と楽しそうに魔法魔術の話をしていたという噂は耳にはしていたが。
どうやら『
「クラーラ、それにシン。あの兄妹を研究棟にいただきたいのですが」
ケイティは顎に手を当てながら、至極真面目な顔で言う。そして、シンもクラーラもほぼ同時に返す。
「差し上げるわけないでしょう」
「やるわけないだろう」
「そうですか。残念ですね」
ケイティはさほど残念でもなさそうに言う。彼女なら許可を取らずとも、その知略でなんとかしようと考えるのだろう。
「それにあんなのはまだ未完成品ですわよ。アレンさんはあれで完成度は二割と仰っていましたわ。そして、今見た私もそれと同じ評価です」
「あれで二割ですか」
「あら、少しお話し過ぎてしまいましたわね」
「……フロールマン。君が彼と特訓を始めたのはこのひと月程だろう」
「ええ。そうですわ」
シンとケイティは、クラーラの宝石のような瞳をじっと見つめ、彼女の言葉に息を吞んだ。
◇ ◇ ◇
それはひと月前の出来事。
騎士棟の団体戦選手が一堂に会した作戦会議の後、クラーラがアレンを連れ出した日の事だった。
クラーラはアレンを旧訓練場に連れて行き、詳しい説明もせずに、その剣を抜いた。
そして散々アレンをその剣で打ちのめした。
「かはっ――! はあ……はあ……はあ……」
アレンは片膝を地面に着きながら呼吸を乱す。倒れこまなったのはせめてもの意地だった。
「この工程はこのくらいでいいかしら」
クラーラは愛刀のレイピアを鞘に戻すと、額の汗を密かに拭う。
「……これからまだ何かやるんですか、クラーラ先輩」
クラーラはすっかり息の上がった少年を見下ろし、満足する。
「ええ、ここからが特訓の本番ですわ」
「えっ――」
綺麗な顔を曇らせた少年にクラーラは心の中で「正直な子ね」と笑う。
「私があなたに授けるのは、私の『速度』の技ですわ」
クラーラの言葉を聞くと、先程まで息も絶え絶えだったアレンは、今はその瞳をきらきらと輝かせている。
「本当ですか……!?」
「そして、今の打ち合いは単なる特訓の下準備です。あなたを疲弊させるための」
「そんな……確かにいつもの訓練となにが違うのかと思いましたけど……」
アレンは一瞬にして肩を落とす。
「ふふふ。ボロボロになりながらも余計なことを考えられるなんて、随分と余裕そうですわね。これからが『お楽しみ』ですのに」
「お楽しみ?」
アレンの疑問を無視して、クラーラは指をパチリと鳴らす。
すると、砂漠の国で織られた幾何学模様が美しい絨毯が現れた。
柔らかい音と共に芝生の上に敷かれたその絨毯の端にクラーラは跪き、その絨毯の中央をぽんぽんと叩きながら後ろを振り返った。
「アレンさん。上着を脱いで、ここに寝なさい」
「――……へ?」
一言漏らしたアレンの顔は見る見るうちに赤くなっていく。
――この子、何かおかしな勘違いをしているのではないかしら。
「特訓に必要なことですから、間抜けな声を出していないでさっさとその暑そうなジャケットと靴を脱いで、ここに寝転びなさい!」
慌てたクラーラは、なぜか自分も恥ずかしくなって、早口になる。
「……す、すみません」
顔を真っ赤にして謝りながら、いそいそとジャケットと靴を脱ぐアレンを見て、クラーラはなんだか悪いことをした気分になった。
「こほん。では、気を取り直して」
クラーラは咳ばらいをすると、アレンの頭の横に膝をつく。
アレンは澄んだ藍玉の瞳でクラーラの顔を見ていた。
「これからあなたにしていただくのは、『想像』の訓練です」
「『想像』ですか……。でも、俺は魔法は――」
「あら、『想像』が必要なのは魔法だけじゃないんですのよ」
「……?」
クラーラの言葉に、アレンは寝転んだまま首を傾げる。
「アレンさん。私の『速度』を支えているのは魔法ではないんですのよ」
「……そういえば以前、『魔法を使ったら、もっと速くなってしまう』と言っていましたね」
それは彼にとって初めての騎士倶楽部の夜に彼と相対したときのこと。
その時は、まさか彼にその技を授けることになるとはクラーラも思っていなかった。
「その通りですわ。あの技は一見魔法のように見えますが、マナや魔力を消費するものではないのよ。ですからあれは魔法ではないのよ」
クラーラは勿体ぶったように説明する。
「これからあなたに教えるのは、私の『速度』を可能にする『技術』ですわ」
「『技術』」
クラーラは敢えて騎士の心を持つ人間に受け入れやすい言葉を選ぶ。
「アレンさん。あなたには、光の速度で移動できるように訓練をしていただきます」
勝気な笑みを浮かべた後、クラーラはアレンの反応を確認しない。その顔に手を伸ばし、銀糸の前髪を指で除けてその目元を覆った。
「じゃあ、まずは目を閉じて」
そっと触れた手に、震える睫毛が当たる。
「睫毛、長いのね。羨ましいですわ」
「……あの。緊張するので、変なこと言わないでください」
「ふふ。ごめんなさいね」
クラーラは目の前にいる少年のこれから開花していく未来を想像して、微笑んだ。
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