第10節 背中を押してくれる人、手を引いてくれる人
アイリスは天球棟を出ると、外灯に照らされる煉瓦路を走る。
夕方に降った雨で濡れた煉瓦路は光を反射し、コートシューズの踵から跳ねた雫はきらきらと輝く。濡れた地面を打つ自分の足音と乱れる呼吸の音だけが耳の中で鳴り、胸の内では希望の音が鳴っていた。
息は苦しいけれど、「行かなくちゃ」と心が叫んでいる。
アイリスは寮の前まで来ると門柱に片手を置き、乱れた息を整える。もう片方の手を膝に当て、そのまま寮に灯された光を見上げた。
空は黒と藍の間の色。それでも、それが白い棟だということがはっきり分かる。
アイリスはほっと息を吐き、そのままその場に崩れるように座り込んだ。
――私、いつの間にか、ここを自分が帰る家だと思い始めてる。
不思議な感覚が胸からせり上がってくるのを感じていると、靴音がアイリスの背後から聞こえてきた。
その音は少し離れた位置でぴたりと止まる。
「アイリスさん……? 大丈夫?」
アイリスはその声に振り向く。
そこには心配そうな顔をして、しゃがみ込んでいるアイリスを見つめている少女がいた。
その少女は――アイリスが今一番会いたい人は、そこにいた。
アイリスは門柱を支えにゆっくりと立ち上がり、ふらつきながら彼女に近付いた。
彼女の前まで進むとそこで立ち止まる。そして腕を伸ばし、その手で彼女の身体に触れた。
「雛姫さん……」
立ちすくむ雛姫を、アイリスはぎゅっと抱きしめた。
「アイリスさん……?」
「雛姫さん……ごめんなさい」
その身体は温かく、白茶の髪は柔らかかった。アイリスはその温度と感触を確かめるように腕に力を込める。壊さないように抱き締める。
数週間ぶりの懐かしい花の香りがした。
アイリスは自分の決意を、絞り出すように言葉にする。
「……私、本当は団体戦に出たいんです」
――伝えたいことは沢山あるけれど、言えないことも沢山あるけれど。
私のために怒ってくれた人だから。
その気持ちを大切にしたいと、心から思ったから。
心配してくれる人たちがいるから。助けてくれると言ってくれる人たちがいるから。
勇気はもう、沢山の人から貰ったから――
「私は新しい世界を見てみたいです。自分の可能性を、自分の価値を見付けてみたいです。
アイリスは雛姫の背に回している腕に緩め、彼女と向き合う。
「――だから、もう怖がって逃げたりしません!」
目の前の翡翠色の瞳は僅かに見開かれていた。
「雛姫さん。わたしのことを思ってくれて、大事にしてくれて、ありがとうございます」
瞳から、光の粒が流れていくのをアイリスは感じていた。
だけどそれはもう、悲しみの雫じゃない。温かくて優しい光の粒だった。
雛姫は俯くと、アイリスから受けた抱擁をそっと手を添えて緩めた。
再び彼女が顔を上げると、見えた翡翠の瞳は潤んで外灯の光を揺らしていた。
「私の方こそ、ごめんなさい。私の価値観をアイリスさんに押し付けて、傷付けてごめんなさい。嫌な態度も取ったもの」
アイリスは首を大きく振って否定する。
「アイリスさんにはアイリスさんの事情があること、本当は分かっていたのに。本当にごめんなさい」
雛姫は眉を下げ、不安そうな顔をしながらアイリスの瞳をじっと見つめる。
「私も雛姫さんを傷付けました。ごめんなさい」
「ううん、私の方がごめんなさい」
「いいえ、私の方がごめんなさい」
お互いに「ごめんなさい」をひとしきり言い合うと、雛姫がくすりと笑う。
「……私たち、似たもの同士の、お互い様ね」
雛姫は、アイリスの瞳から今にもこぼれ落ちそうな涙の粒をそっと指で掬った。
「だから、泣かないで――」
それは魔法のように、とても優しい指先だった。
◇ ◇ ◇
アレンはサロン棟の窓に腰掛け、カーテンの隙間から寮の外を見下ろしていた。
そこに見えるのは、妹ともう一人の少女が抱き合う姿。
アレンの口元は小さく弧を描く。
――やっと、仲直りしたか。
だけどアイリスなら逃げないで、絶対に自分で『選べる』と思ってたよ。
「アレン、アイリス嬢が戻って来たのか?」
妹の成長を密かに喜ぶアレンに、レオとフランが近づいて声を掛けてくる。アレンは顔を上げて首を横に振った。
「いや、まだみたいだ」
「なんだ、笑ってるからアイリスさんが戻って来たのかと思っちゃったよ」
「ただ猫が二匹じゃれてるのを見ただけだよ」
アレンは窓から半歩離れ、レオたちの方に向き直る。
「猫?」
「寮監の飼ってる猫かな。『マイル』と『ポンド』っていうんだよ」
「……じゃあ、その猫たちかも。それより、遅くなりそうだし、夕食は先に食べちゃおう」
「待ってなくて良いのか?」
「良いんだよ。アイリスが一人で食べたくなければ、一緒にもう一度食べるから」
「流石、アレンだね」「流石、アレンだな」
「なにが流石なんだよ」
アレンは二人のからかいの視線に対しても、上機嫌に答える。
「……アレン、なにかいい事でもあったのか?」
「さあ?」
アレンは小さく笑うと、傾げるようにレオとフランを見上げる。そして、そっと窓のカーテンを閉じた。
少しだけ成長し、寄り添い合った少女たちの時間は、何者にも邪魔することはできない。
◇ ◇ ◇
アレンたちが夕食を食べている時間、アイリスと雛姫は寮の裏庭にある東屋にいた。
雨に濡れていたベンチを魔法で乾かし、そこに二人で並んで座る。二人は互いの理解を深め合うように、ぽつぽつと話をしていた。
「ねえ、雛姫さんはどうしてそんなに私に良くしてくれるの? 私の魔力の波長が『心地良い』って言ってくれるけど、本当に?」
アイリスの言葉に、雛姫はすんとアイリスの匂いを嗅ぐような仕草をする。
「アイリスさんの魔力の波長は本当に良いわ。それはアイリスさんの魂が澄んでいるからよ。優しくて、柔らかくて大きなブランケットに包まれているみたいな心地になるの」
雛姫はうっとりするように自分の身体を抱きしめる。
アイリスは雛姫の言葉に、白百合が咲くような満開の笑顔を見せる。雛姫はそんなアイリスにそっと微笑む。
「……それにね、入学式の日に私に話し掛けてくれて、嬉しかったの。私、一人で好きなことに没頭する時間も大好きだけど、心のどこかで皆が私を『特別』だって遠巻きにするのが寂しかったみたい。私に普通に話しかけてくれるのはセレーナくらいだったもの」
雛姫の瞳の中の波が、小さく揺らぐ。
「だけどね私は自分が寂しいって思っているなんて、アイリスさんに会うまで知らなかったの」
「私が雛姫さんを寂しくさせちゃった?」
アイリスが不安がって聞くと、雛姫は首をふるふると振る。
「違うわ。アイリスさんのおかげで、私は新しい世界を知ったの。『寂しさ』のある世界。それはとても素晴らしいことだわ」
雛姫は『研究棟生』らしい顔つきで言う。
「『寂しさ』のある世界……」
「そうよ。私はこれからどんどん色んな世界を知ることが出来る。新しい世界を知れることは良いことよ。選べるものが増えるもの」
――学院長も言っていたわ。『選ぶ』のは私だって。
私だけじゃなくて、みんな何かを選んで、その度に世界を広げて道を進んでいるんだわ。
アイリスは雛姫の瞳を再びじっと見つめる。その瞳はやはり『凪いだ海』のようだった――
「私は雛姫さんの瞳が好きよ」
それはふと口からこぼれ落ちた言葉。
「初めて見たときから、とっても綺麗だなって思っていたの。凪いだ海みたいに澄んでいて、でも本当は深くて大きな海みたいな色」
全てを受け入れ、それでもなお揺るがない大きな海。
風で海面を撫でられても、その形を変えても、その器は決して変わらない。
それはまるで全ての水の受け皿。
「私、雛姫さんのことジェダイト先生に確かに聞いていたわ。だけど、雛姫さんの瞳を見て本当に仲良くなりたいって思ったの」
アイリスは雛姫の手を握る。
「私は魔力が大きいから、気持ち悪がられることもあったの。でも雛姫さんは初めてお話したときに、『心地良い』って言ってくれて、抱き締めてくれて、本当に嬉しかったの」
アイリスを抱きしめてくれる人は、この世でただ一人、
それ以外の温もりなんて、知らなかった。
アイリスは自分の靴のつま先をじっと見つめる。
「あのね……」
小さくそのつま先を揺らし、そして止める。
「私とアレンには、言えないことが沢山あるの。だから、また今回みたいに雛姫さんを傷つけちゃったりするかもしれない」
それは小さな『傷つける覚悟』。
関わらなければ、傷つけないかもしれない。だけど、アイリスにはもうその道は選べない。
だから、アイリスにとってそれは大きな覚悟。
「……それでも、私と仲良くしてくれると、嬉しいです」
アイリスが最後は首を傾げながら小さく呟くと、雛姫はそっと上弦の月を見上げる。
「別に友達だからって、『何でも話さなきゃいけない』わけじゃないと思うの。私にだって言えないことは、沢山あるわ」
雛姫はアイリスの手をぎゅっと握り返す。
「でも、秘密があっても、私たちの関わりは無くなったりしないと思うの」
アイリスは顔を上げ、雛姫の横顔を見つめる。
すると雛姫は、アイリスの顔に自分の顔を近づけ、内緒話をするように人差し指を立てた。
「……本当のことを言うと、私もまだ『友達』については勉強中で、よく分からないんだけどね」
雛姫がいたずらに微笑むと、アイリスもそれにつられて微笑む。
「それなら、わたしも雛姫さんと一緒に『友達』について勉強するわ」
アイリスも雛姫を真似て人差し指を立て、それを自身の唇に当てる。
そして、二人はくすくすと笑い出す。
「でも、あれね。こんなことを他の子たちに言ったら、きっと『難しく考えすぎ』とか『考えるより感じろ』とか言われるわ」
「あ! でも私も魔法については『考えるより感じろ』って感じかもしれないわ」
「私も武術に関しては特にそうかも」
「私は武術は全然だめ。ワーナー先生が筋肉と関節の話をしてくれたときは衝撃が走ったわ。そういうことだったんだわって」
「そっか、やっぱりそういうのも人それぞれなのね」
二人の少女の語らいは、食堂が閉じることを告げる鐘が鳴るまで続いた。
鐘の音が響く中、二人の少女の足音は同じリズムを刻み、弾んでいた。
◇ ◇ ◇
この学院には、背中を押してくれる人が沢山いる。
呪いが解けても、解けなくても、きっとこの経験はアイリスにとって、とても大きな財産になるだろう。
――背中を押してくれる人がいるのなら。
わたしは誰かに、手を差し伸べられる存在になりたい。
誰かの手を引いて、歩ける存在になりたい。
眩しく輝く太陽みたいにはなれなくても。
あの輝く月のように、誰かを静かに照らす存在になりたい。
雨のように、悲しみも全部包み込んで、護れる存在になりたい――
◇ ◇ ◇
アイリスはサロン棟のソファに座っているアレンの横に腰掛ける。
こちらを優しい笑顔で見つめる顔は、自分とよく似た顔立ちの、だけどやっぱり少し違う、男の子の顔をした兄。
それは少し前まで自分が見ていたものよりも、少しだけ大人びて見えた。
アイリスはアレンに甘えるように寄りかかり、瞳を閉じる。
「アレン。いつも私の手を引いてくれてありがとう」
アイリスがそう言うと、アレンが笑う。
「何言ってるんだよ。『聖域に行こう』って、俺の手を引いてくれたのは、アイリスの方じゃないか」
驚いて目を開けるアイリスにアレンは陽だまりのような笑顔をくれる。
「そうだったわ」
「だろう?」
握ってくれた掌は温かくて、アイリスはそれを「失くしたくない」と強く願った。
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