第11節 その『席』を私にください


 三年生の教室がある天球棟の一画は朝からざわめいていた。


 雪の精霊のような容姿で有名な新入生のアイリス・ロードナイトとその兄のアレンが訪ねて来ていたからだ。

 彼らの目的は魔術棟首席のシン・クロウリー。


 魔術棟所属のアイリスは教室の入口に兄を待たせると、周りの視線に脇目も触れず、真っ直ぐにシンに向かって歩いていく。

 シンが座っている席にたどり着くと、彼女は膝を曲げて深く頭を垂れた。シンの足元に白いスカートがふわりと広がる様は、まるで舞い落ちる白い花弁のようだった。

 シンの濡羽色の髪は、その様子を見てわずかに揺れる。


「これまでの数々のご無礼を、どうかお許しください」

 アイリスは深い淑女の礼をしながら、綺麗に磨かれたシンの靴を見つめて言う。それから僅かに顔を上げ、シンを見つめた。

 アイリスの前髪の隙間からわずかに覗く藍玉の瞳は、柔らかさの中に強さのようなものが窺えた。

 アイリスは再び口を開く。

「そして団体戦に参加させていただきたいという私の我儘をどうかお許しください」

 アイリスはより深い礼をする。

「今更虫のいい話かもしれません。ですが、もしもまだ、その『席』が空いているというのなら。その『席』を私にください」

 頭を垂れたままのアイリスの頭上にシンの声が降る。

「本当に君に、その『席』に座る覚悟はあるのか」

 それは落ち着いた声。淡々とした、でも責めているのとは違う音。

「『覚悟』のような難しいことは、まだ正直私には分かりません。ですが、私はたとえ自分が未熟でも、弱くても、その『席』に座りたいです。どんなに不格好でも、その『席』に縋り付きます――もう、逃げ出したりしません」

 アイリスは芯の通った視線でシンを射る。


 アイリスは思う。

 ――この人に対しても筋は通さないといけない、と。


 シンとアイリスの視線が混ざり合う。二人は一時も目を逸らさなかった。

「……分かった。アイリス・ロードナイト、君の団体戦への参加を歓迎する」


 シンの承諾で、アイリスはその『席』を勝ち取った。アイリスは、その『席』を欲しいという人から、機会を奪った。

 でもそれは、自分で選んだこと。だから、アイリスは自分が出来ることをする。


「ご厚意に感謝申し上げます。選んで頂けたからには、いいえ、選んだからには私の責務を全うさせていただきます。……色々とご迷惑をお掛けしてしまい、誠に申し訳ございませんでした」

「いや、こちらこそありがとう。魔術棟代表として、君の勇気に感謝する。こちらも必死だったとはいえ、しつこくしてしまって申し訳なかった」

「こちらこそ、気にかけていただきありがとうございました。ご迷惑をお掛けした分、お返しできるように精進いたします」

「頼りにしている」


 アイリスとシンが形式ばった会話をしていると、コツコツと、聴かせるための足音が響いた。

 それはシンにとっては不穏な足音――

「……ねえ、シン・クロウリー? 貴方、朝から年下の女の子を足元に跪かせているなんて、一体どういう趣味をしているのかしら」

 ――そこにはシンをまるで汚いものを見るような目で見つめるクラーラがいた。

「いや、それは誤解だ」

 シンは顔色も変えずに努めて冷静に弁明する。

 そしてアイリスに手を差し伸ばして立ち上がらせようとした。

 しかし、それは蜂蜜色の髪に警戒心を纏わせたクラーラの視線によって阻まれた。クラーラはシンの代わりに、アイリスの手を取って立ち上がらせる。そして、そのままアイリスの両手を握ったまま、真剣な顔をアイリスに近付ける。

「アイリスさん、もしシンに何か変なことをされたら、いつでも騎士棟に転棟してきていいのよ?」

「――本当ですか!? 私も騎士棟に入れるんですか!?」

 クラーラが言った意味とは違う意味でアイリスは返答する。

 そしてそのことによって、クラスメイトどころか、野次馬をしていた隣の教室の生徒たちにもシンは暫く誤解を受けることになった。


 そして『アイリス・ロードナイトが団体戦参加を断り続けていたのは、シン・クロウリーが彼女に只ならぬ感情を抱いており、執拗に追い駆けまわされることに恐怖したからだ』という噂が飛び交った。





    ◇ ◇ ◇





 朝日が天球棟の廊下の大きな窓から降り注いでいた。

 アレンとアイリスは一年生の区画まで送り届けてくれたシンとクラーラの二人に礼を言う。

「「お二人とも、とうもありがとうございました」」

 目の前に広がる光景に、アレンはなぜか彼らと初めて会った日の夕暮れを思い出す。

 朝の廊下の風景をやっと見慣れた――それ程の僅かな時しか経っていないはずなのに、アレンとアイリスは変わった気がする。

 背筋を伸ばすことが当たり前になり、ほんの少しの勇気と強さを手に入れた。

 ――そして何よりも、自分たちを見守り、助けてくれると言ってくれる人たちを手に入れた。


「色々とありがとうございました、シン先輩」

 アイリスは魔術棟の代表であるシンに改めて深いお辞儀をして言った。そして、アイリスはその日初めてシンに笑顔を見せた。

 その笑顔を見て、うっすらと彼の顔に安堵が乗るのをアレンは見逃さなかった。

「そういうふうに普通に接してくれると助かる」

 シンは疲れたように、しかし何かを成し得たような満足さを湛えた顔で、アイリスに小さく微笑んだ。

「君は暗い顔をしているよりも、そうやって笑っている顔の方が良く似合う」

 シンがいつもよりも口角を上げて何気なく放った一言に、アイリスは恥ずかしそうに頬を染める。

「……もしかして、からかっていますか? やっぱり、何度もお断りしたことを怒っていますか」

 アイリスは何を取り違えたのか、アイリスが彼から逃げ回っていたことをからかわれたと思ったようだ。

 そんなアイリスをシンは不思議そうな顔をして見つめる。

「いや、本心から言ったんだが」

 真剣な顔でそう言うシンに忠告の声が放たれた。

「……シン、貴方うちの若い子に殺されるわよ」

 クラーラがアレンの方を見て、溜息を吐く。

 シンがその方向に首を振ると、アレンが瞬きもせずにとシンの顔を見つめていた。

 綺麗な顔に、綺麗な笑顔を貼り付けて。その左手は、腰に携えた長剣の鍔を忙しなく撫でていた。


 そして、始業時間を予告する鐘が鳴った。





    ◇ ◇ ◇





「――――私、本当はアレンと闘いたくないだけなのっ……!!」

 アイリスの声がジェダイト教室クラス中を木霊する。教室内のクラスメイトたちは啞然としながらその叫びを聞いていた。


 これはアイリスの一人芝居。

 それは雅治による点呼が終わり、その日の最初の授業が始まる前の出来事だった。

 アイリスは団体戦に参加することをセレーナと風鈴に伝え、そこからさざ波が広がるように教室中にその情報が伝播した。

 そこからフランがおずおずと心変わりの理由を尋ね、現在に至る。


「だって、個人戦なら直接アレンと争う確率は低いけれど、団体戦だとそうはいかないんでしょう!? 私には、アレンを傷つける可能性があることなんてできないわ。だって私の存在価値は、アレンの傷を治せることだけなのに、そんな私がアレンに傷をつけるの? そんなのおかしいじゃないっ……!!」

 アイリスは悲嘆に暮れたように頭を抱えて見せる。

「こんなことなら、私も騎士棟に入れば良かった……!」


 それはいくらなんでも無理では――と、その場にいる全員が思ったが、全員がそれを言わないでおいた。

 そんな皆の微妙な顔を見つめながら、「一応は騎士棟のスカウト付きだ」と、アレンはひっそりと思う。

 アレンはアイリスの一人芝居に置いてけぼりにされたクラスメイトたちの輪を切るように進み出て、アイリスの両肩を支える。

 これで、一人芝居から二人芝居だ。

「そんなこと気にするな……。アイリスと一緒に団体戦に出られる方が楽しみなんだから。俺は補欠選手だけれど、兄妹で出場なんて滅多にないことらしいから一緒に楽しもう」

 アレンはわざとらしく目を伏せた後、アイリスと見つめ合う。

「アレンがそう言ってくれたから、私は参加することを決めたのです」

 アレンとアイリスはわざとらしく微笑み合う。


「「「――なんなんだ、この兄妹。お騒がせな」」」

 その言葉を口に出す者もいれば、口に出さない者もいた。彼らはとても優しいクラスメイトたちだ。


 アレンとアイリスはそんな優しい人たちに囲まれ、今やっと新しい地図のスタートラインに立ったのだ。





    ◇ ◇ ◇




 ――秘密だけが重なっていく。

 時を経るごとに、生を刻むごとに、砂時計の砂のようにそれは降り積もって。

 ほんとうはその砂時計を逆さまにしてしまいたかった。

 ほんとうはその砂時計を割ってしまいたかった。

 だけど、そのすべてを明かさなくても、紡いできた糸が切れるわけじゃない。

 そう知ったから。

 だから、アレンとアイリスは前に進める。

 このくらいの嘘ならきっと許されるはず。

 だってこれも理由の一つ。

 完全なる偽りの言葉じゃないから。

 ――これだって本当の理由だもの。


 だから。

 ふたりの秘密は、いまは手に入れたばかりの『したたかさ』に、少しだけ隠させて。

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