第5節 道はふたつじゃない


 アイリスは夜の大講堂にいた。

 そこは入学式が執り行われた場所。

 学院生としてのはじまりの場所。


 アイリスは祈りを捧げ、自分の心と向き合う。

 手に握りしめているのは、マーレ皇国の神獣『アンジェラス・バード』をかたどった、祈りのための首飾り。


 膝をついて祈るアイリスの頭上では、天球型の天井を雨が滑り落ちていく。

 そして、ガラス張りの天井を打つ雨音が響いていた。しかし、それ以外の音が大講堂に響いた。

 それは長身な男性の靴音。その音の主に覚えがあったが、アイリスは振り向かない。


「……君の願いはなんだろうか」

 足音と声の主は濡れ羽色の髪が特徴的な魔術棟首席のシン・クロウリー。

 ここ最近、アイリスの世界を煩わせる元凶だ。


 本当は、彼が悪いわけではないことをアイリスは分かっている。それでも――


「貴方が私を諦めてくれることです」

 アイリスは彼に背を向けたまま、冷たい声で答える。

「申し訳ないが、その願いは叶えてあげられそうにないな」

 アイリスはゆっくりと振り向き、恨みがましく彼を見上げた。

「しつこくしないと、仰ったではないですか」

「ああ、だから二日に一回しか誘っていないだろう」

 アイリスはジトリと目の前の男を見上げた。

「十二分にしつこいと思いますが」

「……そうだろうか」

 彼は真剣な顔で疑問を口にする。


 やはり、この人は一筋縄ではいかない。

 アイリスだって何も知らないわけじゃない。彼が本気なことくらい、アイリスだって分かっている。

 彼は生徒会役員で、学院で最も忙しい最高学年の三年生、しかも魔術棟首席で学院次席。そんな彼が、アイリスのために時間を使っている。

 そんなことが分からないくらい、アイリスは馬鹿じゃない。


 ――ただ、意気地がないだけ。

「私には、シン先輩が思うような能力はありません」

 ――私はただ、魔力が多いだけ。

「私にはあまりにも経験が足りません」

 ――私はただ、本で読んだだけの知識があるだけ。

「きっと、……いいえ。私は必ず、みなさんの足を引っ張ってしまいます」

 可能な限り、絞り出す声から感情を消す。


 私はただ――――――

 アイリスは押し付けるように強く瞼を閉じた。

 拒絶するように。

 しかし、それはいとも簡単にこじ開けられた。


「言いたいことは、もう言ったか」

「え――」

 アイリスは目を開け、一歩後退る。そしてその距離を詰めるように、シンが一つ歩を進めた。


「『経験不足』がなんだと言うんだ。これから経験すればいいだけの話じゃないか」

 シンは真剣に、当たり前の事のように語る。

「足を引っ張ることの、何が悪い」

 アイリスはまた一歩後退る。


 ――言い訳を、ひとつひとつ、潰されている気がする。 

「君はまだ一年生だろう。それを支えるのが、先輩おれたちの役割だ」


 ――逃げ道を、ひとつひとつ、潰されている気がする。

「俺たちが信用できないか」

 ――足場が、ひとつひとつ、崩れ去っていく気がする。


 アイリスの身体はそれでも逃げるように、足掻くように、足を引きずった。

「――――っ!」

 そして、後ろに傾いだ。ふらついた足元はもつれて、倒れそうになる。

 しかし、アイリスの身体は倒れることはなかった。代わりに骨ばった手に、その手首が捉われる。 

 アイリスは濡れたコートシューズを見つめ、項垂れた。

「……わかりました。……でも、少しだけ、考えさせてください」

 苦いものが口の中で広がるのを感じながら、そう絞り出した。


 アイリスが体勢を立て直すと、シンは小さく笑ってアイリスの手を離す。

「ありがとう」

 アイリスはそう言った彼から距離を取る。

「――いいえ、こちらこそ、ありがとうございます」


 その「ありがとう」は何処に掛かった言葉なのか、アイリス自身も分からずにいた。





    ◇ ◇ ◇





 アイリスと雛姫が言い争った日から、早くも一週間近くが経っていた。


 レオが知る限り、これまでシン・クロウリーがアイリスを団体戦の選手に勧誘しに来たのは、あの日を含めて三回だ。

 あの日までは、アイリスと雛姫の二人は毎日一緒にいたのだ。それにも関わらず、今は目も合わせることはない。

 授業中に必要なことがあれば会話をするが、それは酷く他人行儀で、周りの人間の方がハラハラとさせられていた。


「長いね……」

「あれか、頑固か」

「……」

 レオとフランの呟きに当事者の兄のアレンは無言で笑う。

 今日は授業が休みの週末だった。

 レオの実家の農園から送られてきた果物をアレンとフランに分けるために三人でレオの部屋に集まっていた。

「思ってたんだけどさ。アイリス嬢ってちょっと卑屈が過ぎないか」

「ちょっと、レオ!」

 呆れたようなレオをフランはすかさず諫めるが、アレンは小さく笑った。

「ああ、その通りだと思う」

 アレンはレオの言を肯定する。

「言っとくけど、アレンも結構卑屈なところあるぞ」

 レオはオレンジを齧りながら、アレンを横目で見やっている。

「いや、だからさあ、レオ」

「ああ、うんそうだな。その通りだと思う」

「いや、そこは普通否定するところ――いや、まあ素直なのがアレンか」

 アレンはこういう時、いつも意外な反応を返してくるからレオは戸惑う。

「まあ、否定しようがないからなあ。俺たち兄妹は、卑屈なんだよ」

 アレンは何かを想い出すように、遠くを見つめている。

 アレンは時々、こういう顔をする。懐かしむような、諦めるような、でも曖昧な笑みで全てを受け入れるような。


 ――これは、少しだけなら踏み込んでもいいのだろうか。

 レオはベッドの上で掻いていた胡坐を解き、アレンとフランが座っているソファの近くまで椅子を運んでそこに座った。

「それは、アレンとアイリスの育った環境に影響を受けているのか」

「ああ、そうだな」

 レオがアレンの藍玉の瞳をまじまじと見つめると、アレンは自身の過去を語り出した。





    ◇ ◇ ◇





「俺とアイリスは五人兄弟なんだけど、俺とアイリスは兄さんたちとは、あまり折り合いが良くないんだ」


 ――アレンとアイリスには、二人の兄と一人の姉がいた。

 兄弟だろうが他人だろうが、呪われているという人間に対して好意的に接することはそもそも難しいことだ。

 だから、兄二人は自分たちの母親が長い眠りにつく原因となった双子に対して、好意的な感情を向けることはなかった。

 もし、アレンが逆の立場でも、そういう風になっていたと思う。

 姉は会う機会があれば親切にしてくれたが、それでも双子にどう接すれば良いのか戸惑っているようだった。

 そして、そんな彼女は、三年前に他国に嫁いでいった。


 兄たちのことは、決して恨んだりなんてしていない。それは正直な気持ちだ。

 そんな感情を持ち合わせられる程に、アレンは彼らのことを知らない。なぜなら、一緒にいる時間など、ほとんどなかったからだ。


 血で繋がっただけの、兄姉たち。

 彼らはアレンとアイリスに罹った呪いが何かを知っていた。

 アイリスの生命力は魔力に食い潰され、普通には生きていけないことを知っていた。

 そして、アレンが魔法をほとんど使えないことを彼らは知っていた。

 アレンたちがマーレ皇国の皇族でなければ、それは大した問題ではなかったのかもしれない。


 しかし、あの国では、あの皇宮では違った。

 マーレ皇国は、皇国の歴史よりももっと古い時代に、彼の地に魔法をもたらした神獣――アンジェラス・バードが降り立ったと言われる場所にある。

 そんな、古式魔法の権威と呼ばれる国。

 あの国では、まがりなりにも皇位継承権を与えられる血筋の者が、魔法を使えないことの意味は――とても重かった。


 あの国では、魔法は神の加護の象徴。加護がない皇族に存在価値などない。

 魔法の国の皇族にして『呪い』に罹り、しかも一人は全くと言って良い程に魔法が使えない。

 それは、アレンの肩に、そして人生に重くのしかかった。


 アレンとアイリスは、いつ殺されてもおかしくなかった。寧ろ、生かされていることの方が不思議だった。

 形式のみでそれを知る者はごく少数ではあるが、皇位継承権の順位がついていることも不思議でしか無かった。


 アレンとアイリスが名乗る『ロードナイト』は、マーレ皇国の皇位に近い者が使う姓ではない。

 それは本来、皇位継承権を持たない皇族や皇族縁者が使う姓である。

 それは大々的に公表されているわけではなく、その姓を知る者も多くはないが。

 ロードナイトは、『君主Lord 騎士Knight』。

 つまり、皇帝の、皇国の盾となるべき存在だ。

 例え、その身を犠牲にしても――





    ◇ ◇ ◇





「俺とアイリスの生まれた家は、代々魔法に長けた家系なんだ」

 全てを語れるわけではないのだろう、アレンは言葉を選びながら語る。

 レオはその誠実さを受け止めるために、アレンから目を逸らさない。

「だけど俺は知っての通り、魔法がほとんど使えないだろう。そのせいか、兄さんたちは俺を存在しないもののように扱っていたんだ」

 アレンは俯く。

 その瞳に銀色の髪がかかる。


 ――だからアレンは時々そっと気配を隠すのか。まるでどこか違う場所にいるみたいに、硝子を隔てているみたいに、目の前のものを何処か遠くに見ているんだ。


「アイリスは兄たちが俺に対して言った言葉とか行動について、勝手に負い目に感じているんだ。別にアイリスのせいで俺が魔法を使えないわけじゃないのにな」

 アレンは再び顔を上げる。

「でも、俺もアイリスに対して負い目を感じてることもあるんだ。お互いに、そして色々な人に対して俺たち兄妹は負い目を感じてる。――だから、卑屈なんだ」

 そう言って、アレンは微笑んだ。哀しみや後悔をそっと隠すように。


 レオは自分が経験したとある出来事から、アレンの話を他人事のように捉えることが出来なかった。

 だから、正直な気持ちを正直な言葉で紡ぐ。

 アレンの誠実さに、レオも応えたくなってしまったから。

「――なんか、馬鹿馬鹿しいな」

「ちょっと、レオ!」

 フランはレオの冷たいとも思える言葉に立ち上がって怒る。だが、レオはあえて聞こえない振りをした。


「『形』も『重さ』も違っても、俺だって、負い目を感じている人は沢山いる」

 レオは知っている。

 ――負い目は誰も幸せにしない。

 レオが負い目を感じた相手は、笑えないまま、この学院を去った。

 それでも、負い目を感じ続け、卑屈だったレオを引き上げてくれた人たちがいた。

 その荷物は、決して、無くなったわけではないけれど。それでも何度落ちても、何度でも手を差し伸べてくれる人たちがいた。

 ――だから、笑える現在いまがあるんだ。


「自分が笑えないのに、どうして誰かを幸せにできるんだ」

 それは、後悔の言葉でもある。

 でも、レオはアレンよりもフランよりも先輩だから、伝えなきゃいけないことがある。

「負う荷物が重くて笑えないなんて、そんなの馬鹿馬鹿しいだろう。選択肢が『負うか』、『負わないか』のふたつなんて、誰が決めたんだ」

 そんなに純粋じゃ、すぐに駄目になる。

 この世界じゃ、生きていけなくなる。 

「捨てるとか、忘れるとか、誰かに持ってもらうとか、押し付けるとか、力が付くまで置いておくとか、他にも色々あるだろう!? 選べる道は!」


 少し熱くなったレオに、フランは目を見開き、アレンはなぜか可笑しそうに笑った。

「俺も思ったんだ。レオなら『そんなの馬鹿馬鹿しい』って言うって」

 それは、清々しい笑み。

 レオはここ最近のアレンの冷静な態度の理由が、少し分かった気がした。

「やっぱり、俺はレオの言う通り、お綺麗なままでいようとしているって、気が付いたんだ。でもこの学院じゃ、この世界じゃ、お綺麗なままじゃ、生きてなんていけないんだ」


 ――そうか、アレンは変わったんだ。

「レオやフラン、みんなが教えてくれたんだ」

 そしてアレンはやっぱり清々しく笑った。





    ◇ ◇ ◇





 この学院に来たとき。

 レオと初めて話したとき。フランが初めて話しかけてくれたとき。護身術の授業のとき。アストルム老師にこの腕輪をもらったとき。騎士倶楽部に参加したとき。団体戦に誘われたとき。


 この短期間で、アレンにとってのきっかけは、分水嶺ぶんすいれいは、いくつもあった。


 それは、すごく幸せなことだ。

 だってそれは選択肢が増えることだから。

 生きていける道が増えることだから。


 今までは道はふたつしかないと、そう思っていた。


 ――生きるか、死ぬか。

 生かされるか、殺されるか。


 でも、そうじゃなかった。

 道は、ふたつじゃなかった。

 それは、とても幸せなことだ。


 アレンとアイリスは、呪いを解く糸口を探すためにここに来た。

 それは、生きるため。だけど、それだけじゃない。

 だから。


 ――アイリス、こんなところで立ち止まっている場合じゃあないだろう。

 アレンは心の中で、アイリスに呼び掛ける。


「俺とアイリスは、今まですごくすごく狭い世界にいたんだ。でも世界はとてつもなく広い。道は数え切れない程に用意されてる」

 その道は幾重にも繋がり、また選んだその道から無限に分岐している。

「それが『聖域ここ』に来て、みんなと出会って、分かったんだ」


 アレンの腰に下がるアンジェラス・バードの長剣、騎士棟所属の証であるイエローダイアモンドの指輪、アストルム老師にもらった銀の腕輪。

 アレンの持っている物たちは、人との繋がりのそれぞれがアレンの道標。


 そしてそれは目に視えるものだけじゃない。

 目に視えるものと視えないもの。それぞれがアレンが選んだ道の先の、分岐点のひとつ。

 そして今ここに立っている。


 ――アレンとアイリスが道を選んだんだ。

 あの狭い場所から手を伸ばしたんだ。

 聖域に来ることを、選んだんだ――――

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