第4節 雨だって、笑えるんだ


 夜になり、雨が降り出していた。

「しばらくは雨の日が続きそうね」

 クラーラは彼に向かってそう呟く。

 彼はサロン棟の出窓の前で両肘をつき、雨が降る学院を眺めていた。

「団体戦、貴方は出てくれるかしら」

 クラーラはこちらに背を向けている騎士棟一年のアレン・ロードナイトに、そう尋ねた。


「クラーラ先輩」

 彼は出窓に乗り出していた身体を起こし、クラーラの方を振り向く。

 アレンは眉尻を下げ、少し困った顔をしながら微笑んだ。

「……そんなに不安そうな顔をしなくても、俺は今更断ったりしませんよ」

 濁りを知らないシルバーブロンドがさらりと揺れるのを眺めたあと、クラーラは頬に手を当てた。

「いやだわ、わたくし、顔に出ていたかしら」

「少しだけですよ」

 彼は曖昧に微笑む。

「……私、そんなに分かりやすかったかしら」

「そんなことないと思いますよ」

 今度は普通の笑みだと思う。

「……感情には敏感なのかしら」

 クラーラは絨毯の模様を見ながら小さく呟いた。そして目の前の白銀の少年の影を視線で追う。


 ――純粋なところがあって、世間慣れしていない男の子。でも立ち振る舞いは妙に様になっていたりする。そういう人はこの学院には、それなりにいる。

 おそらく、彼も箱のような小さな世界で生きてきたのだろう。箱は箱でも、それはいつ潰れてもおかしくない箱で。

 自分の居場所を護るために必死な人間は、得てして人の負の感情に敏感になる。

 『不安』、『心配』、『嫌悪』や『憎悪』。そういうものに――


「心配しなくても、俺もアイリスも必ず団体戦に出場しますよ」

 思考を飛ばしていたクラーラをアレンは力強い眼差しで見つめていた。

「断言、するのね」

 クラーラは探るように藍玉の瞳の色を伺う。

 そんなクラーラをアレンは真っ直ぐに見つめ返した。

「俺とアイリスは長い間ずっとずっと一緒に居続けた、兄妹ですよ。俺は、アイリスの『強さ』を信じています」

「……そう。それなら私も信じることにするわ。貴方とアイリスさんの強さを」

 クラーラは窓の外を眺める。

 そこにはアレンの背中と、彼に向き合う自身の姿が映り込んでいる。クラーラは、硝子に映り込む自分に見せつけるようにくすりと微笑んだ。


「そして、私たちのが必ず成功することを信じているわ」


 窓の外は雨が降り続く。

 窓硝子には雨粒が流れ落ち、その粒は外灯の光を反射していた。





    ◇ ◇ ◇




 クラーラは、既に『補欠選手』として、アレンを団体戦に勧誘していた。

 それは、彼を初めて騎士俱楽部に招待した直後。彼の妹のアイリスが体調不良で病欠しているときのことだった。


 彼が一人でいるタイミングで、クラーラは彼を騎士棟のある一室に招いていた。

 その部屋にはクラーラ、アレン、そしてもう一人がいた。


「アレン・ロードナイト。わたくしたちと取引を致しませんか」

 クラーラとそのもう一人はアレンにある取引を持ち掛けた。

 アレンはその取引に乗り、団体戦出場を決めた。十二名の正規選手に加えた、補欠選手二名の枠のうちの一枠。

 それが、次に彼が闘う場所。 





    ◇ ◇ ◇





 その日の朝の教室には、糸が張るように緊張が走っていた。

 昨日の放課後の騒動は、ジェダイト教室クラス全体に衝撃をもたらしていた。


 その明朝の教室は、当然のように緊張感が満ちていた。

 当事者の一人である雛姫が登校してくると、クラスメイトたちは一斉にその姿を見る。

 しかし、彼女は教室の入口をくぐると、脇目も振らずに真っ直ぐに進み、最前列の席に座る。昔からそこは、小柄で真面目な彼女の特等席。

 ここ最近は、『彼女』が同じ教室にいる限りは、決して自ら座ろうとしなかった席。担任教師によって指定された彼女だけの席。


 様々な感情が飛び交う中、もう一人の当事者であるアイリスが教室に入ってきた。クラスメイトたちは固唾を吞んで、その行方を見守る。

 熱い視線が飛び交う中、藍玉の瞳と翡翠の瞳がパチリとぶつかる。しかし、「ふい」と翡翠の瞳が逸らされた。

 そんな事態に教室全体に衝撃が走る。

 ――あんなにべったりだったのに、アイリスさんを無視した……!?


 そしてその日は一日中、居心地の悪い空気が教室中を漂った。

 冷静な態度を貫く当事者たちをよそに、クラスメイトたちはそわそわとし、調子を狂わされた一日だった。

 その位、雛姫がアイリスに懐いている姿は彼らの中に水のように浸み込んで、彼らにとっての日常になっていたのだ。





    ◇ ◇ ◇





 その日の夕方。

 天球棟から自室に戻ってきた雛姫は鞄を床に落とし、地面に両膝と両手をついた。


「アイリスさんが不足しているわ……」

 項垂れる髪は雨に濡れ、そこから水滴が滑って床についた手の甲に落ちる。

「ううん、でも私は間違ってない、まちがってな、い……はず――」

 雛姫はかぶりを振り、滲む涙を堪える。


 雛姫は断ち切るようにすくりと立ち上がり、寮のメイドにお湯の準備を頼んで浴室に向かった。

 濡れた制服が肌に張り付いて気持ちが悪いと感じた。心地の悪さに、全てを洗い流して、楽になってしまいたかった。


 雛姫は入浴を済ませると軽食を食べ、机に向かって課題を開く。

 そして、一心不乱にそれに取り組んだ。

 そうしていないと、落ち着くことが出来なかったから――


 ペンが紙を掻く音と雨音だけが室内に響く。

 そんな雛姫の雨の日々は暫く続くことになった。





    ◇ ◇ ◇





 ジェダイト教室クラスの一員であるフランは、他のクラスメイトたちと同様にそわそわと一日を過ごした一人だった。

 フランは常識人と言われるけれど、友人同士のいさかいに冷静でいられる程には大人ではなかった。


「なあ、レオ、フラン。夕食まで鍛錬しないか」

 帰り支度を終えると、アレンがレオとフランに声を掛けてくる。

 アレンは渦中にある二人の少女の内一人、アイリスの兄だ。

 しかし、アレンは教室内で唯一けろっとした表情をしていた。それはフランにとっては意外でしかなかった。

 「意外だよ」と言うと、アレンは「そうかな」と笑ったけれど。


「なあ、アレン。本当に良いのか?」

 レオが尋ね、フランも不安な表情でアレンを見つめ、そして尋ねる。

「アイリスさんと一緒にいなくていいの?」

 フランとレオが心配を隠せない顔でそう言うと、アレンはふっと笑う。

 姉しかいないフランには断言は出来ないけれど、それはたぶん『兄』の表情だった。


「良いんだよ。アイリスにだって一人で考える時間は必要なはずだ」

 ――距離の近過ぎる仲の良い兄妹だと思っていたけれど、アレンはアイリスさんに対してこういう接し方もするんだ。

 ――やっぱり意外だな。


「アイリスさん、どうして断っちゃったんだろう」

 フランのその問いに対して、アレンは何も答えず、曖昧に微笑んだ。


 フランにとって、いや、きっとこの学院の学生にとって、団体戦出場を断るという選択肢は通常考えもしないものだ。

 ――なぜなら、それはとても名誉なことだからだ。

 卒業生も、それを輝かしい経歴として語っている。フランの両親もそうだ。

 フランはその話を小さな頃から語り聴かせられ、そして当然のように憧れた。

 だから、雛姫の言葉はフランにとっては良く理解が出来る言葉だった。『選ばれる側』でありながら、あの言葉をあんなに真っ直ぐに言えることは羨ましくもあり、「格好良い」と純粋に思った。

 雛姫のことは昔から知っているけれど、初めて彼女の心を垣間見た気がした。


 フランの姉のメアリも魔術棟の代表として今年選ばれたらしい。

 フランは今年は選ばれそうにはないけれど、高等部の三年間のうち、いつかは選ばれたいと思っている。 


 それはフランの『夢』のひとつだから――





    ◇ ◇ ◇





「アイリスさんは過剰にプレッシャーに感じているのかもしれないけれど、参加したら、きっと楽しいと思うんだけどなあ」

 屋内鍛錬場でフランは剣を振りながら呟くと、アレンがこちらをじっと見つめてきた。

 だからフランは話を続ける。

「絶対、楽しいよ。『新人戦』は確かに試験だけどさ、僕たちとっては同時に『お祭り』でもあるんだよ」

 フランの言葉にアレンは首を傾げた。

「お祭り……?」

 フランは素振りの手を止めて、こちらを見るアレンの方に向き直った。

「そうそう、団体戦出場は皆が憧れるものではあるけど、そんなに重荷に思うようなことじゃないよ。だって、『本気のお祭り』なんだから」

 フランが頬を上気させて言うと、アレンがお腹を押さえて笑った。

「ははっ! それ、アイリスに聞かせてやりたいよ」


 フランはアレンの笑顔を見て思う。

 ――アレンはやっぱりアイリスさんのお兄さんなんだな。


「それに一年生で、しかも兄妹で団体戦出場なんて新人戦ファンとしてもちょっと魅力的な響きだよね」

 フランが人差し指を立てて説明すると、アレンが少しだけ真剣な目でフランを見つめた。

「フランもメアリさんと同時出場目指してるんだろう」

「うん、まあ今年は力を付けて、来年参加が現実的な目標かな。それに『新人戦』じゃなくても、まだ春期の考査『卒業戦』でもチャンスはあるからね」


 その時、フランは妙案を思いつく。

「そうだ! 僕、学生解説員に応募しようかな」

 フランが思い付いたままに発言すると、傍らで聞いていたレオが明るい声を出す。

「お、いいじゃん。フランの実況とかおもしろそう。解説が細かすぎて全然伝わらねえの」

「ちょっとレオ? 僕のこと馬鹿にしてる?」

フランはむっと頬を膨らませると、レオは両手を激しく横に振った。

「してないっ! してないって!」

「二回言うってことは、してるよね。いいよ、もし解説員に選ばれたら、レオの普段の恥ずかしい話を暴露することにするから。ネタはいくらでもあるからね!」

「――すみませんでしたっ!!!」

 レオは勢い良く頭を下げ、それを見てフランとアレンは顔を見合わせながら思わず噴き出す。


 ――そうだよ。

 雨は悲しいものなんかじゃない。

 雨だって、笑えるんだ――――


 フランは今はすれ違ってしまっている少女たちに、そう伝えたかった。

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