第3節 はじめての喧嘩


 シン・クロウリーが去った後のジェダイト教室クラスはざわめいていた。


「……ふぅ」

 教室クラス委員長であるセレーナは「どうしたものか」と考えながら周囲を見渡す。

 帰り支度をしていたはずのクラスメイトたちは、手を動かすふりをしている。しかし、好奇心をアイリス・ロードナイトを中心としたセレーナたちが居る方に向けている。静かにざわめきながらも、賢明な彼らは直接の行動には起こさない。

 それは、この『自由』な『聖域』の、『自由』を重んじるサンクチュアーリオ学院生ならではの振る舞いだった。

 そのことにセレーナは密かに安堵した。これなら大丈夫かしらと。


 ――しかし、その安堵を打ち破る人物が現れた。それは誰よりも『自由』なはずの彼女だった。

「……アイリスさん、どうして団体戦断っちゃったの」

 クラスメイトたちが聞きたくても聞けなかった質問を投げたのは、誰よりも自由な少女――セレーナの幼なじみの雛姫だった。


 誰よりも自由な雛姫の様子はいつもと違っていた。口数は少なくも穏やかな雛姫の声音は、いつもよりも硬質で、いつもよりも低い音だった。

 幼馴染の異変を誰よりも早く察したセレーナは、その肩をそっと掴み、首を振った。

 深緑しんりょくの瞳で、雛姫の翡翠色の瞳を見つめる。


 ――本人が決めたことを、周りがとやかく言うことではないわ。

 そんな気持ちと願いを込めて。

 しかし、雛姫はアイリスの瞳から一切目を逸らさないことで、彼女に返答を要求する。

 ――雛姫、あなただって分かっているでしょう。『踏み込んではいけないこと』もあるのよ――


「……アイリスさん、どうして?」

 セレーナの無言の訴えも空しく、雛姫はなおも追及を止めない。

 そして対するアイリスも、下を向いたまま帰り支度の手を止めない。

 いつも人の目をじっと見て話をするとセレーナは感じる。


 まだ短い付き合いだ。だが、少なくとも、このひと月の彼女はそうだった。

 人慣れしていなさそうなのに、人懐こそうな瞳で、いつでもみんなと楽しそうに話をしていた。

 彼女はとても誠実な瞳で、たとえ返答に困ったとしても、彼女は言葉を選びながらとても誠実に話をしていた。

 好きな事の話をするときは、その藍玉の瞳を美しく輝かせて楽しそうに語っていた。

 相手が少し戸惑うくらいに真っ直ぐに相手の瞳を覗き込み、真っ直ぐに相手と向き合う女の子。それがセレーナ・トーン・ブルーレースのアイリス・ロードナイトという少女に対する印象だ。

 それなのに、今の彼女は――


「……シン先輩に言った通りよ。私ではみんなの足を引っ張ってしまうから」

 アイリスは感情が地ならしされたような声でそう言うと、やっと顔を上げる。彼女の表情は「笑み」だが、その表情にはいつもの柔らかさはなかった。

 花が咲くような彼女の笑みはいつも周りを穏やかに癒したが、今の彼女は冷たい『氷の花』だ。


「足をひっぱるナンテ、そんなことないヨ。アイリスすごい魔法つかいダヨ」

 アイリスの冷涼な雰囲気に少し怯えながらも、セレーナの横に立つ風鈴が言う。

 しかし、アイリスは頑なだった。彼女は小さくかぶりを振って言った。

「ううん、私より相応しい人は、沢山いるわ」

 その言葉に、相対している雛姫の肩がぴくりと動いた。

「……それ、本気で言っているの?」

 尋ねる雛姫に、表情はなく、剣呑な雰囲気を醸し出していた。

 その雛姫を見て、風鈴は「ひえっ」と恐怖し、セレーナの腕にすがりついてきた。セレーナは風鈴の背中を擦り、一旦状況を静観することにした。

 ――たぶん、周りが何を言っても、もう雛姫は止まらないわ。

 ――こんな雛姫、見たことがないもの。

「本気よ」

 強く、切るように言うアイリスの顔を雛姫は疑いの眼差しで見つめている。

「本気でそう思っているなら、それは『冒涜』だわ」

「……『冒涜』?」

 強い言葉を使う雛姫に、アイリスは一瞬怯んだような顔をする。しかし、すぐに凛々しい表情を見せた。この表情は、『覚悟』だろうか。


 セレーナはアイリスの表情をつぶさに観察する。

 学院内のマナーとして、学院生たちは本人が語らない限りは、お互いの身分についてはあまり詮索はしないことになっている。

 しかし、セレーナは家業を手伝った際にそのロードナイトという姓を聞いたことがあった。

 その姓から推測するに、おそらく彼女とその兄は西大陸第三位の大国――マーレ皇国おうこくの皇族縁者。

 この状況なのに、高貴な身分を感じさせる彼女の振る舞いにセレーナは「流石」と思ってしまう。

 そしてそんな身分が彼女を縛っているのではないかとも想像する。

 セレーナのそんな物思いをよそに、雛姫とアイリスの口論は熱を帯びていく。


「そうよ、『冒涜』よ。選ばれたのに、それを簡単に捨てるのは『冒涜』よ。……それを欲しい人は沢山いるのに」

「別に捨てる訳じゃないわ。それを欲しがっている、もっと相応しい人がいるから、そういう人が受け取れば良いって言っているのよ」

 淡々と交わされる言葉の数々。

 理性と感情が入り交じった応酬。

「でも、それを受け取った人は、アイリスさんの『お下がり』を貰ったって言われるわ」

「どうして私が断ったら、『お下がり』になるの? もっと相応しい人がいると言っているじゃない」

 感情が段々と出てきた雛姫と感情が徐々に消えていくアイリス。それはとても対照的だった。


 ――雛姫が言っていることは正しい。

 これだけ大勢の人間が見ている中で勧誘され、そしてそれを断れば、当然次に誘われた人は『彼女の代わり』だと言われる。彼女が断ったからそれを手に出来たと。


 セレーナの腕に縋り付いている風鈴は、セレーナと二人で昼休みを過ごしていたときに既に団体戦選手に誘われている。

 そのときにシン・クロウリーがアイリスを誘わず、敢えて人の多いこの時間の、この教室で勧誘するということは、だ。


「……アイリスさん、そんなに人の心は簡単じゃないわ」

「そうね。私には、人の心なんて分からないから」

 アイリスは人の心が分からないと言いながら、にこやかに笑う。

「私にだって人の心なんて、本当は分からない。それでも分かることもあるわ。シン先輩は、アイリスがを手にするのに相応しいから誘ったのよ」

「候補の一人としてでしょう」

「絶対に違うわ。あの人は本気よ! あの人は『諦める』って言っていたのよ。聞いていたでしょう!?」


 ――そう、シン・クロウリーはアイリス・ロードナイトを団体戦の選手にすることに『本気』なのだ。決して逃がすまいと、この大衆の面前で彼女を勧誘したのだ。

 彼の『本気』が分かったから、セレーナは助け船を出すように、アイリスに返答を促したのだ。

 ――上手くはいかなかったけれど。


「あの人は絶対にまたアイリスさんを誘いに来るわ」

「来たとしても断るわ。相応しい人は、他にいるもの」

 綺麗な微笑が怖かった。優しい雰囲気の彼女を怖いと思うのは不思議な感情だった。


「どうして、そんなに頑ななの……」

 雛姫は悩ましげに呟いた。

「足を引っ張るって、分かるからよ」


「……どうして自分の気持ちに素直になれないの」

「素直になっているわ。その上での『妥当な判断』よ」


 アイリスの言葉に、雛姫は火がついたようだった。雛姫は両脇に下ろした拳を強く握りしめ、震えながら言った。

「違うわ! アイリスさんは考え過ぎているだけよ! もっと、『自由』になれば良いじゃない!」

「……わたしは『自由』よ! だから、断ったんじゃない!」

 雛姫に呼応するようにアイリスも声を荒げる。


「うそよ!」

「うそじゃないわ!」


「絶対に違う!!」

「違わないわ!!」


「本当は出たいって思っているくせに!!!」

「思っていないわ!!!」


「……だったら。……――だったら! 断った後に、あんな寂しそうな顔、しないでよ……!」

「……――っ!」


 その言い争いは、泡沫が弾けるように終焉を迎えた。

 アイリスは顔を真っ赤にして、勢い良く鞄を閉めた。そして、彼女にしては珍しく足早に、逃げるようにバタバタと教室を出て行った。


 セレーナは視線を窓際の席に移す。

 アイリス・ロードナイトの双子の兄、アレン・ロードナイト。

 走り去った妹を追いかけると思った彼は、彼女とそっくりな横顔で、彼女が去った扉をただじっと見つめていた。

 そして彼の友人たちも何か言いたげな視線で彼を見つめていた。しかし、彼は何を考えているか分からない涼しげな表情をしている。そして、すぐに帰り支度を再開した。

 彼はあくまでも静観を貫くようだった。

 セレーナはその様子を意外に思いながら、雛姫の方に振り返った。


 セレーナはそのあり得ない光景にただただ驚いた。

 取り残されたもう一人の当事者である雛姫は、瞳いっぱいに涙を溜めていた。

「雛姫……」

 セレーナは見たことも無い幼馴染の様子に、なんと声を掛ければ良いか分からず、言葉を詰まらせた。

 悩んだ末に、セレーナはそっとハンカチを差し出した。


 ――雛姫この子は私が思っているよりもずっと『自由』じゃないのかもしれない。

 私が思っているよりも、ずっと色々なことを考えているのかもしれない。

 だって、この子はいつだって、『自由』でありながらも求められる役割だけはきちんと果たしたもの。

 この子の性格を思えば、『新入生代表挨拶』なんて断っていてもおかしくなかった。そういう出来事は、思い返せば沢山思い浮かぶ。

 目立つ子だけれど、その分沢山努力もしてきたわ。そして、他人の期待にきちんと応えてきた。

 だからアイリスさんに『本気』で怒ったんだわ。

 本当に不器用な子。他にやり方もあったでしょうに――


 セレーナは雛姫の鞄を持つと、久しぶりにその手を引く。そしてその手を掴んだまま、未だざわめく教室を後にした。





    ◇ ◇ ◇





 アイリスは、目の前の少女をじっと見つめる。

 今の彼女は、『凪いだ海』じゃない。


 ――これは『全てを飲み込む渦潮』だ。


 聖域に来るまでの船旅の途中で、一度だけ目にしたその激しく荒々しい流れが脳裏に浮かんだ。

 これは気を抜けば、簡単に巻き込まれてしまう奔流ほんりゅうだ。

 だけど、アイリスにはアイリスなりの想いがあった。


 彼女に嫌われてしまうことは、とても悲しいことだけれど。だけどアイリスにはそれよりも怖いことがあるのだ。

 優先するべき想いがあるのだ。


 ――こんな風に他人ひとと言い争う日がくるなんて。

 これはアイリスにとっては『はじめての喧嘩』だ。


 アイリスは鞄を握る両手に力を込めて、教室を一人で出て行く。

 変わりたいと願っているのに。

 変わりたいと願っていたはずなのに。


 だから、『聖域ここ』に来たのに――


「……私って、どうしてこんなに臆病なんだろう」

 小さな呟きは、やたらと高い天井とやたらと広い廊下に反響して、誰にも届かない。

 廊下の窓硝子から外を眺めれば、遠くに薄紫を背景にした山の連なりが見えていた。

 その色は、アイリスの偽りのない本当の瞳の、その片割れの色に、とても良く似ていた。

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