双聖皇のアトランティス - Atlantis of Gemini -

第5節 はじめての『先輩』

　アイリスは微睡（まどろみ）の中、部屋に差す光に夜の色が帯びるのを感じた。

　夕食の時間になるまでの短い時間、ベッドで横になり休んでいた。

　新しい世界に歓喜の色が塗られることで忘れていたが、長い船旅が終わり、久しぶりの陸上であることを今更ながらに思い出す。

　――海の上は、ゆらゆらと揺れていた。

　船の上でずっと感じていた潮風の匂いは今はなく、アイリスを包むのは清潔なリネンと嗅ぎ慣れない石鹸の香りだ。

　身動ぎするとシーツの外側から紅茶と花の香りが入り込む。

　潮でベタついていない髪と肌はとても心地良い。だけど、ここは少し静かすぎるかもしれない。

　波の音、気持ち良さそうに空を翔ぶ海鳥たちの鳴き声。それらは無音よりも心地良く、遠くから風で運ばれてきた夜会で奏でられている宮廷音楽と比べれば華やかではなかったけれど――

　アイリスは微睡みの中、そんなことを思っていた。すると。

　――ゴーン、ゴーン

　長く重い鐘の音が響いた。

　意識の少し遠いところで聴こえるその音は、この部屋を満たしていた静けさをあっさりと打ち破った。

　そのまま瞼を閉じていると、ゆるゆると身体が揺さぶられる。

　それはアイリスが良く知っている手だった。

「アイリス、起きろ」

　上から降ってくる声は、聞き慣れた兄の声。

　アイリスはゆっくりと瞼を上げる。

「――ん」

「夕食の時間だぞ。迎えが来てる」

　アイリスはゆっくりと顔を上げ、アレンの視線の先を追った。

　そこには、お仕着せを着た寮のメイドが入り口で頭を下げながら控えていた。

　アイリスが起き上がろうとすると、アレンがそっと腕を伸ばして支えてくれる。アレンはそのままアイリスの顔を覗き込むと、少し曇った顔をした。

「夕食を食べたら早く休んだ方がいいな」

「うん」

　この兄はやたらと過保護だ。

　でもたぶん、アイリスもアレンに過保護だ。

　アイリスは身支度を整えると、アレンに手を引かれながら部屋を出た。

　　　　◇　◇　◇

　夕食の時間を知らせる鐘が鳴り止んだ後、アレンはアイリスと一緒に男子寮と女子寮を繋ぐサロン棟まで寮のメイドに案内された。

「サロン棟の最上階は食堂になっております。学院生の皆さまにはそちらで朝食と夕食をとっていただきます。授業のある日の昼食は、天球棟の食堂でお召し上がりくださいませ」

　メイドの後について廊下を進み、アイリスの部屋がある三階からサロン棟に入っていく。

　照明は寮よりも明るいが、落ち着いていて暖かな雰囲気があった。

　何より驚いたのは、建物の中心を広い螺旋階段が貫いている吹き抜けた造りになっていることだった。アレンはこんなに長い螺旋階段を見るのは初めてのことだった。

　ぐるりと螺旋階段を囲うように円形に施された手摺に両手を掛ける。

　そこから階下を覗き込めば、今いる三階と同様に、各階で階段が枝分かれるようになっていて、そこから降りられるようになっているのが見えた。

　上を見上げると、屋根裏に聖堂のような天井画が描かれていた。白い鳥が青空を翔んでいて、そこに花弁が舞っている図式はとても美しかった。

　メイドの説明によれば、一階はエントランスフロアで寮監部屋と受付スペースがあり、二階と三階は団欒スペースになっているそうだ。

　寮内には生体感知の魔術が張り巡らされ、入退出が管理されているため、全ての階から寮へ渡れるようになっているらしい。

　一度階段から離れて奥に進んでいくと、数時間前に知り合った男女二人の姿に気が付いた。

　夕方に挨拶をした生徒会のクラーラとシンだ。

「それでは私はここで失礼させていただきます。良い夜をお過ごしくださいませ」

　そう言って深々と礼をしてくれたメイドにアレンはアイリスと一緒に案内をしてくれた礼を言った。

　そして、約束をしていた二人の男女が座っている一画に進んでいった。

　彼らがいるのは、贅沢に空間を使ってソファやテーブルが配置されている団欒スペースの窓際だった。

　アレンたちが向かっていくと、クラーラもこちらに気が付いたようで、ソファから立ち上がりこちらに向けて優雅に手を振っている。

　その横で、生徒会副会長のシンも座ってこちらを見つめていた。

　彼らの元にたどり着くと、クラーラは上機嫌にアイリスの両手を握った。

「ごきげんよう。お待ちしておりましたわ。アレンさん、アイリスさん」

　アイリスはそっとその手を握り返す。

「こんばんは、クラーラ様、シン様。良い夜ですね」

　アイリスが挨拶を返すと、クラーラはそのままアイリスの手を引き、最上階へと向かう螺旋階段へとゆっくりと歩を進めた。

　アレンは少し戸惑いながらアイリスとクラーラの後を進んだ。

　いつもアイリスをエスコートするのは自分の役目だったため、こういう時にどうしたら良いのか分からなくなる。

　手持ちぶさたとでも言えば良いのだろうか。

　一方のシンは慣れているのか、自然とアレンの横に並び、話を振ってくれた。

「二人とも少しは休めたか」

「ええ、おかげさまで妹は鐘が鳴っても寝ていましたよ」

　アレンがニヤリと言うと、アイリスが慌てて後ろを振り向く。

「アレンったら、やめてよ！」

　その頬はほんのりと朱に染まっている。

　シンは慌てるアイリスを見て、何とか見て取れるくらいの短い時間ではあるが、微笑ましいという感じで笑った。

「初日なのだろう。疲れただろう。今晩は早く休むといい」

「そうね。休暇中なのだし、しばらくはゆっくり過ごされて」

　クラーラはそう言いながらアイリスの背中にそっと手を添えた。

「「お気遣いいただき、ありがとうございます」」

　アレンの笑みは少し胡散臭かったかもしれないが、それに気が付いたのはアイリスだけだったと思う。

　　　　◇　◇　◇

　サロン棟最上階の食堂に入り、アイリスは周囲を見渡す。

　学院内と同様にそこは閑散としていた。

　元々テーブル間のスペースが十二分にある広い場所のため、学生がほとんどいないことをより顕著に感じられた。

「休暇中はいつもこんなに人が少ないのですか」

　きょろきょろを辺りを見回しながらアレンが尋ねる。

「そうだな。基本的には遠方の学生が残っているだけだからな。それに遠方出身者でも中央中立地域出身の学生の家に滞在する者もいるんだ」

　シンが答えると、クラーラが楽しげに続けた。

「確かに人が少ないのは寂しいですけれど、休暇中はメニューが少し特別だからこれはこれで良いものですわ。帰省しない学生が少しでも楽しめるようにと、シェフたちが色々と工夫をしてくださっているのよ」

「だから俺みたいな遠方出身の者や、課題なとで帰省したくてもできない学生たちは食事の時間を楽しみにしているんだ」

「私たちは武術や魔術で体力も消耗しますから、食事はとても大事な時間なのよ」

「なるほど。楽しみです」

「沢山食べないとっ」

　アイリスは、騎士の訓練を始めたばかりの頃のアレンの「食事も訓練」という言葉を思い出し、気合いを入れた。

　クラーラたちの後に続いて窓際の景色の良い席につくと、給仕はアレンとアイリスが新入生であることにすぐに気が付いてくれた。

　楽しい雰囲気ながらも丁寧に好みを聞き出して、おすすめを教えてくれながら注文を取ってくれたことが、アイリスにはとても楽しかった。

「お待たせいたしました。ウィンデルベルク料理楽しんでくださいね」

　明るい給仕が持ってきてくれた料理を見て、アイリスとアレンは喜色満面になる。

「「お、美味（おい）しそうです」」

　ぱぁっという効果音が聞こえてきそうな二人の表情に、生徒会の二人はつられるようにして笑った。

　マーレ皇国（おうこく）では見たことがない野菜や果物を見ては、二人はそれが何かを好奇心旺盛な子供のように二人に尋ねた。

　そしてクラーラとシンはそれに丁寧に答えてくれた。

　そうやって食事を楽しんでいると、一足先に食事を終えた男女三人組が四人のテーブルの横を通りがかり、声をかけてきた。

　一人は、活発そうな茶髪の男子学生。

　一人は、人懐っこそうな赤髪の女子学生。

　もう一人は、真面目そうな黒髪の女子学生。

「クラーラ先輩、シン先輩、お疲れさまです！」

「お先ですー。クラーラ先輩、シン先輩」

「先輩方、そちらは新入生ですか」

「お、双子ですか。珍しいなー」

「ほんとだー。お人形さんみたいー。きれいな銀髪ー」

「先輩方だけで独占されるとは」

「ずるいなー」

「ずるいー」

「ずるいですね」

「俺はランス。騎士棟所属だ。これからよろしくなー」

「私はメアリ。魔術棟所属だよー。これからよろしくねー」

「私は蘭（ラン）。研究棟所属です。これからよろしくお願いします」

　まるで「言いたいことは言った」というように三人組は去っていく。

　嵐のように来て、嵐のように去っていった。

「今のは、今度二年生になる生徒会の後輩たちだ」

　呆れたようにシンが説明すると、クラーラも苦笑いする。

「ごめんなさいね、騒がしくて。でも良い子たちなのよ」

「はい、そう思います」

　アレンは呆けながらも頷く。

「そうですね。私も良い方たちだと思います」

　アイリスは兄の顔を覗き見ると、アレンは少しだけ困った、でも嬉しそうな顔で笑っていた。

　アイリスはその笑顔を見て、「ここに来てよかった」と既に思い始めていた。

　　　　◇　◇　◇　

　その後は食後の紅茶とデザートを楽しみ、食事を終えると四人はサロン棟で分かれる。

「「とても楽しい時間でした」」

　双子は声を揃えてクラーラとシンに礼を言う。

　そして一瞬の沈黙と二人の目配せの後、二人ははにかみながら再び声を揃えた。

「「ありがとうございます。……クラーラ先輩、シン先輩」」

　双子は先ほど覚えたばかりの呼び名を早速使う。

　使い慣れない敬称に照れた様子の双子にクラーラとシンは思わず微笑んだ。

　　　　◇　◇　◇

「良い夜を」

　――おやすみなさい、可愛らしい双子の兄妹さん。

　クラーラは、兄妹が早く学院に馴染めれば良いと思いながら自室に戻った。