第2節 信じる神もきっと違う


 中央中立地域内、ウィンデルベルグ島の玄関口であるカナロア港。

 現在いま、アレンとアイリスの兄妹は、そのカナロア港で学院から派遣されてくる案内役が来るのを待っていた。


 二人がマーレ皇国おうこくの港を発ったのはまだ薄暗い早朝だった。彼らの事情から人目を避けた出航だった。

 だから、双子の兄妹は明るい陽射しの差す港を生まれて初めて訪れている。


 自由の許されなかった生活の反動から来る好奇心のままに、二人は「街を見て回りたい」と護衛兼監視役のダニエルとイザベルにおねだりしたが、きつく反対されて渋々それを諦めた。

 その代わり、カナロア港の埠頭にある要人用の待合室で案内人が来るまでの時間を潰すことにした。


 その待合室は見張り台も兼ねている白塗りの高い棟の中にあった。通された待合室には眺望の良いバルコニーがあり、大きな窓からは部屋全体を照らす程の太陽の光が注いでいた。


 アレンは、アイリスの日差し除けの帽子が飛ばないように、彼女の肩に垂れていた薄紅色のリボンを結ぶ。そして、バルコニーまで手を引いた。

 バルコニーに出ると、双子は息を呑んだ。

 まるで吸い寄せられるように手すりまで進み、そこから身を乗り出して、周囲を眺めた。


 眼前に広がるのは美しいグラデーションのエメラルドグリーンの海。そして広いバルコニーから周囲をぐるりと見渡せば、この港街が見えた。

 緩やかな坂道に沿って建てられている色とりどりの建物。まるでお祭りでもしているかのように活気のある市場。街を彩る鉢植えの草花。賑やかさを生み出している街や旅の人々の声。


 宮殿の奥深く、静かな場所で十五年の時を過ごした彼らが知らなかった風景。色も音も匂いも何もかもが新しい世界。

 それは感傷というよりも、もっと鮮やかな、希望の景色だった。





    ◇ ◇ ◇





 新しい環境を見つめる二人の瞳はアイリスが造った魔術道具ピアスによって、他者から見ると藍玉アクアマリン色に見えるように偽装されている。

 ――『オッドアイの偽装』

 これも国を出る条件の一つだった。

 双子という要素だけでも目立つ二人にとっては、奇異の視線を避けられるという意味でも好都合な術だった。


 今、アイリスが創った偽りの藍玉は彼ら自身の瞳の輝きを、少しも濁らせてはいない。

 艶やかなシルバーブロンドもキラキラと日差しを反射する。海上にいたときよりも和らいだ海風が二人の髪を優しく揺らした。


 海に面するこの街は、ふた月前に出た故郷のマーレ皇国を兄妹に思い出させた。

 双子が暮らしていた双星宮からも遠くに海が見えていた。

 毎日、目を凝らしながら、羨むように、憧れるように眺めていたあの場所を思い出す。


「でも、空の色は違うんだな」

「でも、海の色は違うのね」


「見ろ、アイリス! 見たこともない色の鳥が飛んでるぞ! やっぱり暖かいからか」

「見て、アレン! みんなドレスの裾が短いわ! やっぱり暖かいからかしら」


「なあ、どう思う。ダニエル、イザベル」

「ねえ、どう思う。ダニエル、イザベル」


 双子は思い思いの感想を口にしながら、背後に控えているダニエルとイザベルを振り返った。

 護衛二人はそのはしゃぎっぷりを見て、微笑みながら顔を見合わせる。

 長い航海中もはしゃぎ続けていた双子に、護衛の二人はこれまで冷やしたことのない肝を冷やしもしたが。

 


 ――しかし、幼少時からその存在や置かれていた立場を知る者としては別の想いもある。

 いつも息を潜めるように暮らしていた彼らが、心から楽しそうにしているのを見られることは素直に嬉しいことだった。


 流石に、アレンが船上で剣の稽古をしているときに勢い余って海に落ちかけたときや、アイリスが船上で風魔法を使って船を加速できるかを隠れてこっそり実験し、魔力の使い過ぎの反動で卒倒されたときは、あらゆる意味で「首が飛ぶ」とも思ったが。

 それも今となっては良い思い出かもしれない。

 色々な意味で二度と同じ思いはしたくはないが。



 護衛二人が感慨に耽っていると、開けたままにされていた部屋の扉がノックされた。


「両殿下の仰る通り、ウィンデルベルグ島はマーレ皇国と比べると温暖で、生き物も文化も少し異なるかもしれませんね」


 ノックの音に続いた知らない声にアレンとアイリスは振り返る。

 そこには短い黒髪の東大陸風の顔立ちの男が微笑みながら立っていた。

 年の頃は二十代後半だろうか。細身の身体に白いシャツと濃灰色のベストに、同じ色のズボンを合わせている。

 優し気な雰囲気がその立ち姿から漂っていた。


「今は初夏の過ごしやすく、街も賑やかで緑の美しい時季ですよ」


 その男は室内に一歩進みながら続ける。

 二人がきょとんとしてその男を見ると、彼は居住まいを正し、挨拶を始めた。


「ご歓談中、大変失礼致しました。私はサンクチュアーリオ学院で教師をしている雅治マサハル・ジェダイトと申します。本日は両殿下の案内役を拝命いたし参上仕りました」


 雅治が恭しく礼をすると、それに応えるようにアレンとアイリスも自己紹介をした。


「はじめまして、マーレ皇国から参りましたアレン・ロードナイトと申します。これから妹共々どうぞよろしくお願いいたします。ジェダイト先生」


「はじめまして、同じくアイリス・ロードナイトと申します。これから兄共々お世話になります。ジェダイト先生」


 雅治は微笑みながらも興味深げに双子の藍玉アクアマリンの瞳を見つめていた。





    ◇ ◇ ◇





 マーレ皇国の皇子アレンと皇女アイリスの双子から、後ろに控えていたダニエルとイザベルも紹介された後、雅治は彼らを迎えの馬車まで案内する。

 

 アレンとアイリスは横並びで座り、その正面に雅治とイザベルが座る。

 馬車内は広く、あと数人は乗れそうだが、ダニエルは護衛のために御者席に詰めていた。


 雅治が御者に合図を出すと馬車が動き出す。

 首都サンクチュアーリオに隣接するカナロアの港街から学院までは馬車で一時間ほど。少し距離はあるが、整えられた道だ。

 双子の兄妹は貴族のお忍び姿というような楽な服装をしているので、そこまで窮屈ではないだろう。

 どこか緊張した面持ちの双子を見て、雅治は少しだけ窓を押し上げた。すると、その隙間から初夏の爽やかな空気が車内に流れ込んだ。

 それはちょうど首都へ向かう並木道に入ったときだった。


 兄のアレンは目を閉じてその空気を深く吸い込む。

「海の匂いと全然違うな」


 妹のアイリスがそれに呼応するように目を閉じる。

「知らない緑の匂いがするわ」


 差し込んだ木漏れ日に双子は柔らかく微笑んだ。二人の白いシャツに緑を含んだ影がちらちらと差している。


 アレンは左隣に座るアイリスの方を見た。

「天気が良いな」


 アイリスは遠くに思いを馳せたように呟く。

「どの場所でも木漏れ日って心地良いのね」


 話し声が聞こえ、三人は窓の外を見る。

 沿道には様々な人と様々な色があった。


 ――髪の色も、瞳の色も皆違う。

 ――様々な人種、職業、信じる神もきっと違う。


「……あそことは全然違うのね」

 アイリスは薄桃色のスカートをぎゅっと握りしめる。


「そうだな」

 アレンは胡桃色のズボンをぎゅっと握りしめる。


 アレンの瞳には憧憬が、アイリスの瞳にはうっすらと光る雫が滲んでいた。

 そこから二人はほとんど口を開かず、じっと外を眺めていた。

 流れる景色を瞳に焼き付けるように――


 雅治は驚く。

 彼らがここに来るまでの経緯の一部は内密ながらに父親から聞いていた。

 詳しいことは分からないが、事情があってまるで幽閉されるように暮らしてきたと。

 

 ――しかし、ここまで純粋に外の世界に焦がれていたとは。


 彼らはまるで生まれたての赤子のように大きな瞳で世界を覚えようとしている。


 彼らはきっとこれからここで多くのことを学ぶだろう。

 一つ一つを埋めていくように――


 雅治は静かに祈る。


 ――彼らの運命に幸多からんことを。

 ――彼らの向かう先がこの日差しのように明るく、彼らの行く道を照らさんことを。


 雅治は誰にも聞こえない声で祈る。


「彼らの信じる神が、彼らに加護を与えますように」と――――


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