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「第二機動歩兵中隊は全滅との報告を受けている。君が唯一の生き残りというわけだ」

 その大柄な事務武官は、男に向かってにこやかに笑った。男はベッドの上に上半身を起こした姿勢で、時折うずく傷の痛みに顔をしかめながら事務武官の言葉を聞いていた。

「早く帰国したいのは山々だろうが、なにしろ復員兵が多くてね、輸送機関の回転が悪いんだ。しばらくこの街に滞在してもらうことになるとおもうが……帰国が決まり次第に軍務当局より連絡があるから、退院後も常に所在を明確にするように。それじゃあ、これで失礼するよ」

「あ、あの……」

 立ち去ろうとする事務武官を男は呼びとめた。

「なんだね」

「中隊全滅についての事情聴取はしないのですか」

「そいつは私の仕事じゃあないよ」

 事務武官は笑って、

「私のやるべきことは、君の身分確認と帰国の手配だ。確かに君はあの事件の唯一の生き証人だから、本国に帰ればいろいろ忙しくなるだろう。せめてこの街にいる間は、戦争のことなんかすっかり忘れて養生するんだね」「──はい」

 男は事務武官の後姿を見送りながら、心では別の事を考えていた。

 全滅、か。喜ぶべきことなのかな。俺が敵前逃亡に当たるかどうか、客観的に判断を下せる者はいなくなったわけだ。うまく話を取り繕ってしまえば、俺は処刑されずにすむ。

 男はゆっくりと上体をベッドに横たえた。身体を大きく動かすと、まだ傷が痛む。貫通銃創が五つ、病院に運ばれた時にはひどく化膿しており、もう少しで毒素が全身に回るところであった。極度の衰弱から一時昏睡状態に陥ったこともあったが、十日程の入院生活の間に男の体力は回復していた。

 ノックの音。女が紙袋をかかえて入ってきた。

「もう終わった?」

「ああ、さっき帰っていったよ」

「ほら、おいしそうなリンゴでしょう。今日市場に入ったんですって」

 女は紙袋からリンゴを取り出し、かわいらしい果物ナイフで器用に皮を剥く。

「どんな話だったの?」

「ん、まあいろいろ、ね」

 男はリンゴを受け取り、寝転んだままで一口かじった。

「しばらくこの街にいなくちゃいけないみたいなんだ。都合でね。少し骨休めしろってさ」

「へえ、じゃあ退院したあと、どうするの? 軍でホテルでも取ってくれるのかしら」

「そこまでやってはくれんだろう。自分でどこか探すさ」

「心当たりあるわ。私が探しといてあげる」

「──悪いね、何から何まで。俺なんてほっときゃいいのに」

「別にいいわよ、気にしないで。だれかの世話をするって、私、好きなんだ。ほかにそんな人いないから……」

 男は女の顔を見た。

「家族、いないの? ……ごめん、聞いちゃいけなかったかな」

「ううん、両親は死んじゃったし、兄は外国にいるの。もう四年も会っていないわ」

 女は少し淋しげな顔をしたが、すぐに笑ってリンゴを頬張った。

「おいしい、このリンゴ」

 しばらく二人は黙ったまま、戸外の小鳥のさえずりに耳を澄ました。

 緑の少ないのは仕方のないことだが、それでもこの街にはどこからか小鳥が飛んでくるのだ。男はここに来て、久し振りに意識して小鳥のさえずりを聴いた。戦場の鼓膜を揺るがす爆音や、砂漠の病的な静寂を経験してきた男にとって、それは非常に新鮮で素敵な音楽だった。

 ふいに思い出したように、女が口を開いた。

「看護婦さんがね、あなたの持ってたあの包み、こちらで処理しましょうかっていってたけど」

「包み? ……ああ、あれか」

 男は苦笑いした。

「中を見られたのかな。大事な物だから自分で処理すると言っといてくれ」「ねえ、なにが入ってるの?」

「なんだと思う?」

 女は首を横に振った。

「そこのロッカーの中にあると思うから、持ってきてごらん」

 男は上体を起こし、女の目の前でバンダナをほどく。中から一個の髑髏が現れた。

「え、ちょっとやだ、なにこれ」

 女は驚いたような顔をしたものの、目はしっかりと髑髏を見つめていた。男は笑って

「大丈夫、死んでるよ」

「あ、当たり前でしょ……お友達?」

「同じ部隊でね。こないだの戦闘でやられたんだ。骨くらい故郷に帰してやろうと思ってさ。……おや?」

 男が目を細めた。

「なに?」

「いや、こいつ、頬骨が欠けてた筈なんだが……」

 コン、と一つ、拳で髑髏の右頬を小突く。確かに砕けた筈のそこには、ひび一つ入ってはいなかった。

「妙だな」

「あは、故郷に戻れるのが嬉しくて直っちゃったんじゃない?」

「そんな馬鹿な。第一、接いだ跡さえないんだぜ。どこかで別の髑髏と紛れたかな」

「紛れたとしたら、やっぱりここの病院でかしら」

「たぶんね。君にあう前夜までは、確かに頬は砕けてた」

「看護婦さんに聞いといてあげる。簡単に捨てちゃうようなものじゃないし、きっとどこかにあるわよ」

「頼むよ。ここまで来て行方不明になったんじゃ、あいつも浮かばれないからな」

 男は髑髏を包みなおし、女に手渡した。女はちょっと恐がるようなジェスチャーを見せたが、目は笑っていた。

「それじゃ、今日はこれで帰ります。なにか欲しいものがあったら……」「いや、別にない。ありがとう」

「じゃあまた明日」

 女はバンダナ包みを抱えて病室を出ていった。彼女の後ろ姿がドアの陰に隠れるのを見届けて、男は再びベッドに横たわる。

 天井を眺めながら、男は故郷の恋人のことを思い出していた。顔立ちだろうか、仕草だろうか、女のどこかしらがその恋人に似ていたからだ。

 元気にしてるかな、あいつ……


 一週間ほどして、男に退院の許可がおりた。男の怪我は抜糸もすみ、もうほとんど痛まなかった。

 退院の朝、女が迎えに来て男を下宿先に案内した。街はずれの、こじんまりとした家だ。

「きたない所だけど、我慢してね」

「そうでもないよ。きれいに片付いてるじゃないか」

 男はあちこちと部屋の中を眺めまわした。

「永住してもいいくらいだ」

「じゃ、永住する?」

「冗談だよ。……ところで、ここの管理人は? 一応挨拶しとかないと」「いまさら挨拶だなんて──あ、そこの部屋は覗かないで。私のベッドルームだから」

「あ、ごめん……え?」

 男は開けかけたドアを閉めようとして、ハッとして女を振り返った。

「今、なんだって? ベッドルーム?」

「そう、私の」

「──それじゃあひょっとして、ここ、君の家?」

「あら、いわなかったかしら」

 女はにっこりと笑った。

「ほかにあてはあったんだけど、もう先約がいたの。それならまあ、私の家でもいいかな、とか思って」

「でも一人暮らしなんだろ。まずいよ、やっぱり」

「あら、そんなことないわよ。あなた、悪質なオオカミさんには見えないし」

 男はおもわず苦笑した。

「そりゃ、俺はどちらかといえば善良なオオカミさんだけどさ」

「ならいいじゃない。まかせろといった手前、あなたの宿を確保するのは私の責任なんだし──。お茶でも入れるわ。適当にくつろいでて」

 そういうと、女は楽しげな足取りでキッチンに消えた。

 男はソファに腰をおろし、ふう、と大きな溜め息をついた。彼女は→→と男は考える。彼女は俺を誘っているのだろうか。一人暮らしの女の家に男を引き込むのだから、当然覚悟の上なのだろう。家族もなく、人恋しさがつのっているのに違いない。

 そういや、俺も女はご無沙汰だったな。

 男は目を窓外に向けた。陽光の中を小鳥が遊び、子供達の歓声が砂漠の街のざわめきに彩りを添えている。何もかもが平和だった。砂漠をさまよい、死を身近に感じていた頃とはすべてが違っていた。

「なによ、思い出し笑いなんかしちゃって。いやらしい」

 悪戯っぽい声でそういいながら、女がティーポットを抱えて戻ってきた。男は下心を見透かされたように思い、慌てて口を開いた。

「あ、いや──平和だな、て思ってさ。街も人も元気で、こないだまで戦争していたとは思えないよ」

「この街は結局、一度も戦闘に巻き込まれなかったの。基地はもっと東の方だったし、時々遠くで砲声が聞こえたくらいかしら。誰も少しも傷つかなかった。本当に平和な所よね」

 女は男と向かい合うように腰を下ろした。

「ねえ、一息ついたら買い物に行かない」

「買い物?」

「うん。あなたのパジャマとか、下着とか。あ、それからベッドも必要ね」 男は驚いたように

「おいおい。パジャマはともかく、ベッドなんて高いものはいらないよ。俺は別に、床で眠ったって平気なんだぜ。まあ、できることならこのソファを使わせてほしい所だけど」

「あら、お客様に床で寝てもらうなんてできないわ。それに、ソファを傷めたくはないし。といって、私のベッドで一緒に寝るなんてのは、ねえ」「あ、俺それがいい」

「ばか」

 女は屈託なく笑った。

「第一さ、俺はすぐにいなくなるんだよ。それは一週間後かもしれないし、ひょっとすると明日かもしれない」

「半年先かもしれないし、一年先かもしれないわ」

「まさか。それはないよ」

「ここはとてもいい街よ。あなたは今まで戦場にいたんだし、国に帰ればまた何かと煩わしいことがあるのだろうし。少し長居をしてみたら? 休養のつもりでさ」

「俺はできるだけ早く帰りたいんだ。国に家族を残してるし、それに──」「それに、彼女が待っている?」

 一瞬ためらってから、男はうなづいた。

「それじゃあ、仕方ないわねえ」

 女は少しおどけた口調でいった。

「でも、軍の方から連絡があるまでは、ここにいてくれるわよね? あなたのお友達だってまだ見つかんないんだし」

「──そうだな、それまではお世話になろうか。ありがとう」

 男はそういって、ティーカップに口をつけた。

 ウィルの髑髏はまだ見つかっていなかった。病院側の調査でも行方はわからず、結局男の手元には、誰のものとも知れぬ頭骸がひとつ残されていた。

 男は頭の隅で考える。一体、どこにいっちまったんだろう。病院に着くまで俺は髑髏を手放さなかった。だから紛れたのは病院でのことに違いないし、今手元にあるモノがウィルじゃないことも確かだ。頬が砕けたからバンダナで包んだのだし、あの最後の夜──ウィルが俺に語りかけた夜の奴の頬の空洞を、俺は印象的に覚えている。

「ねえ、そろそろ行かないと」

 女がいった。

 男は思考を中断し、そうだな、と返事をして立ち上がろうとした。ゆらり、と空間がよろめき、男は前のめりになった。

 あれ?

 ふいに空気が乾燥し、焦げるような熱線が肌を焼く。筋肉が急速に力を失って細かく痙攣を起こす。脳髄が痺れて、男は宙を限りなく落ちてゆく感覚に捕われる。

「──うしたの、ねえ」

 女の声に、ふっ、と男は我に帰った。立ち上がりかけた姿勢のそのまま、男は両手でテーブルをつかんでいた。手を離しまっすぐに立つ。身体の節々がこわばっていた。頭の痺れはとれていたが、喉のあたりから胃袋にかけて何やら重苦しい感覚が粘っていた。

「貧血?」

「あ、ああ……ちょっと立ちくらみしたんだ。心配ないよ。さあ、行こうか」

 男は何気なさそうにそういった。しかしうわべとは裏腹に、男の思考はひどい混乱をきたしていた。

 今のは何だったんだ? 貧血? いや違う、そんな単純なものじゃない。それに、この喉の締めつけられるような感じは──どこだろう、いつか、どこかで感じたものと同じだ。

 服をととのえ、男は女に続いて外に出た。

「無理はしないでね。まだあなた、病み上がりなんだし。なんなら私が一人で行ってきてもいいのよ」

 女が心配そうにいう。男は平静を装って、大丈夫、と応えながら、次第に消えゆく喉の違和感を記憶の淵に探っていた。そしてひとつの解答を得た時、男は愕然とした。

 これは、渇きだ。砂漠をさまよっていた時の、あの渇きの感覚だ──



 闇の中で、胸をつぶして血まみれになった兵士が男を追いかける。

 飛び交う銃声。消煙の香り。脳髄を揺さぶるような榴弾の衝撃。男は再び戦場にいた。ライフルをかかえ、ぬかるみの中を駆けていた。

 恒常的な空腹と脱力感。肌が焼ける感じと、渇き。

 爆風で、地面に兵士がたたきつけられた。脳漿の飛沫が男の顔に散る。男は立ち止まって兵士の死体を見つめた。すると、まるで操り人形のように兵士の上体が起き上がった。すっ、とその腕が持ち上がり、男を指さす。 何故貴様だけが生き残る。何故貴様だけが平和を貪る!

 兵士の呪詛が男の精神に忍び込み、心臓をじんわり締め上げる。

 俺の目はもう何も見えない。俺の耳はもう何も聞こえない。腕は潰れちまった。脚はちぎれ飛んだ。なのに貴様ばかりが、何故!?

 男は声にならない悲鳴を上げ、ライフルの引き鉄を引いた。無数の弾丸が兵士の肉体を喰い破り、ぼろ雑巾のようになったそれを後方へ弾き飛ばす。

 男は走った。戦争は終わったんじゃないのか? 俺は平和の中にいたんじゃないのか? 男は逃げ場を探して走った。安息の地を求めて走った。 ふいに何かに足をとられ、男は転んだ。手だ。半分腐りかけたような手が地面から生え蠢いて、男の足首をしっかりと握んでいた。男は銃床で力任せに殴りつける。ずるん、と肉が剥げ落ちて、真っ白な骨が砕ける様が目に見えた。

 起き上がろうとする男の目の前で、無数の手が地面から涌きだし、天空を握もうとするかのように伸び上がる。次に現れるものを予感し、男は夢中で駆け出した。男の目の端で、手から腕、肩へとそれは生え伸び、そして無惨な兵士達の死体となって地上を蠢いた。口々に呪詛を漏らしながら、彼らは男を追いかける。男は逃げた。兵士達の情念が背後から風のように迫ってきて、男の心臓に氷の手を差し延べる。

 ふいに目の前の闇から、一体の髑髏が浮かび上がった。右頬の欠けたそれが、ケタケタと陽気に笑った────────

 !

 目を見開くと、女の顔があった。心臓が早鐘のように鳴って、呼吸も速いのが自分で感じられた。

「どうしたの、うなされて……」

「──夢、か」

 額の汗を拭う。まだ恐怖が粘り気を持ち、男の全身に纒いついていた。「また戦場の夢?」

 女は上体を起こし、あらわになった胸を隠そうともせず、いとおしむように男の頭をかき抱いた。

「何も心配はいらないわ。ここは戦場じゃない、平和な、あなたと私の街──」

 そう、もう戦争は終わったんだ。殺しあいの毎日は終わったんだ。男は女の抱擁に身を任せながら、気分を沈めようと努力した。しかしどうしてもあの兵士の呪詛が耳にこびりついて、離れない。

 貴様ばかりが、何故──!

 男は女の身体に腕を絡め、胸の間に顔を埋めた。女の柔らかな白い腹が男の胸にあたり、温もりを伝えてゆく。

 トクン、トクン

 女の体温に包まれて、男の心臓がゆったりとしたリズムを刻み始める。男の精神に甘いものが忍びこみ、恐怖は次第に拡散して闇の中に溶けてゆく。

 男は女を下に敷くようにして重なった。女は無言で男を受け入れた。窓からほのかに差しこむ月の光に照らされて、二人の裸身の蠢く様が青白く浮かび上がる──

 行為を終えると、女はすぐに眠りに落ちた。微かに寝息をたてる女の髪をいじりながら、男は虚空をぼんやりと眺めていた。

 このところ、毎晩あの夢を見る。一体どうしちまったんだ、俺は。

 男が女の家に来て、既に一ケ月が過ぎようとしていた。いつの頃からだろう、男が戦場の夢を見るようになったのは。細部こそ違うものの、いつも夢の中で男は兵士達に追われ、とてつもない恐怖にかられるのだった。 男が女を抱いたのは、最初にその夢を見た夜のことだった。

 男のうなされ呻く声を聞きつけたのだろう、男が夢から醒め目を開いた時、ベッドの側に女はいた。男は恐怖の残滓に身を震わせ、無意識のうちに女の身体にしがみついていた。女は最初拒むそぶりを見せていたが、じきに抵抗をやめ、男の為すがままに身をまかせた。男はただ夢中で動くだけだった。女は優しく男を包み込み、ほのかなぬくもりで男の恐怖を溶かしていった。

 その夜から、男と女はひとつのベッドで眠るようになった。男は夢に脅えては女の身体を求めた。女の肌に触れていると、なんともいえない不思議な温かみが男の体内に浸透し、どんなに激しい恐怖も嘘のようにかき消えてしまうのだった。女とのセックスで男は、羊水をたゆたう胎児のような、そんな安楽な気分を体験していた。

 しかし──と男は考える。しかし、あの感覚は何だろう。夢にしてはリアルな飢えと渇き、それに太陽に焼かれる時の、肌を刺す痛み。まるで俺がまだ砂漠をさまよっていた頃の感覚そのままじゃないか。

 男は女を起こさぬよう、そっとベッドを抜けだした。テラスに出て、ほてった身体を夜風にさらす。

 最初にこの家に来た時にも、俺は同じ感覚を味わったっけ。でもあの時は眠っていたわけじゃない、ふいに意識がおかしくなって、どこか異空間に落ち込んだような、そんな状態だった。

 本当に俺はどうしちまったというんだ? 気が狂いつつあるのか、それとも……それとも俺はまだ、本当は砂漠に倒れているんじゃないのか。この平和な暮らしは、死ぬ間際の俺の一瞬の夢に過ぎないのではないか。

 ふん、まさかな。

 男は自分の考えを打ち消した。しかし一度思いついてみると、なんとも突飛なその考えが真実を語っているような気がして、どうしても頭から離れない。

 馬鹿な、何を考えているんだ。そんなことがある筈ないじゃないか。俺の今感じているこの世界が、まさか妄想だなんて。

 考えを無理に振り払い、男は部屋に戻った。眠る気も起こらず、ベッドに腰を降ろして、女の寝顔を眺める。

 そういや、俺とこの女の関係って、一体なんだろう。そんな疑問が、ふいに男の心に浮かんだ。お互い、相手に「好きだ」とかいったわけじゃない。ただ一緒に住んで、時折り肌を合わせるのだけれど、それだって別に愛を創造しているのでもなければ、単に快楽を求めあっているのでもない。俺は一体、この女に何を感じ、何を求めているのか。

 第一、俺は故郷に彼女を残しているのだし。

 男は故郷の恋人のことを思い出そうとした。しかし、どうしてもイメージがぼんやりと霞んで、はっきりと思い出すことができない。男は焦った。彼女はどんな顔をしていたろう。好みの服は? しゃべり方は?

── 俺は、彼女を忘れかけている。愛した女性を忘れかけている。

 まるで霧の夜に手探りで何かを探しているような感覚だった。顔を思い出そうとしても、漠然としたイメージだけで細部がさっぱり定まらない。男は落ち着いて、ゆっくりと想像の翼を広げてみる。しかし、そうして出来上がった顔は、故郷の恋人のものではなく、今男の傍らで微かな寝息をたてている女のそれだった。

 やはり俺は、この女を愛し始めているのか。それで思い出せないのか。──しかし、俺には帰るべき場所がある。もうじきこの街を出なくてはならない人間なんだ。

 男は何気なく故郷のことを想像しようとして、愕然とした。思い出せないのだ。町並みも、人も、家族のことさえも。おかしい、こんな馬鹿な。いくらなんでも、そんな筈が……。

 俺は、疲れているんだ。そう自分にいいきかせて男は再びベッドにもぐりこんだ。女の胸に手を触れ、その温もりを確かめながら、男は急ぐように眠りに落ちていった。



 翌日、女が映画に行こうといいだした。

「ちょうど休みが取れたんだ。見たい映画があるし、つきあわない?」

 まあ、いい気晴らしにはなる。男は喜んで行くと答えた。

 映画は恋愛物だったが、娯楽色がつよく、男も女も腹を抱えて笑った。映画館を出ると、二人は寄り添って歩きだす。休日ということもあって、街は大勢の人で賑わっていた。腕を組んで歩く恋人達。楽しげな家族連れ。どこからか流れてくる軽いアップテンポな音楽。男は久し振りに心から楽しんでいた。

 二人は喫茶店に入った。女はレモンスカッシュ、男はコーヒーをそれぞれ注文する。

「どうだった、今日の映画。たまにはあんなのもいいでしょ」

「ん、まあ気分転換にはなるね。久し振りだよ、あんなに笑ったのは」

「そう、よかった」

 女は嬉しそうに微笑んだ。

 そうか、やっぱり俺を元気づけようとして誘ってくれたんだ。男は女の笑顔を見てそう考えた。毎晩ひどい夢にうなされて、ここの所ふさぎがちだったからな。彼女を心配させてしまったようだ。俺ももっとシャンとしなけりゃ。

 男は窓の外に目をやる。

 小さいが、活気のある街だ。平和が確かな存在感を持っている。これが幻の筈がないじゃないか。死の寸前から急に平和につれもどされて、俺はとまどっているんだ。はやく健康を取り戻して、あんな夢を見ることのないようにしなきゃな。

 コーヒーが運ばれた。男はブラックのまま口をつける。

 ゴクリ

 血まみれの兵士が男の視界を塞いだ。ふいにすべての感覚がフェードアウトして、男は激しい飢えと渇きを覚えた。胃が奇妙な蠕動を起こし、嘔吐感が込み上げる。背中が焼けるように熱い。空気が異様に乾燥して、自然と呼吸は喘ぎにかわる。

 男は痙攣を起こし、身体を丸めた。無意識のうちに手を握る。何かが指の隙間からサラサラとこぼれた。

 砂? そう、砂だ。──そうか、やっぱり今までのはみんな幻だったんだ。ここは砂漠。俺は力尽きて倒れている。もう一歩も歩けない。一歩もだ。

 俺、死ぬのかな……

「しっかりしてよ、ねえ!」

 女の声が男の耳に突き刺さった。ゆらりと精神が揺れ、男は何か強い力に引き戻されるのを感じた。

 目を開ける。女が心配そうに男を見つめていた。いつの間に落としたのか、コーヒーカップの破片が床に散乱していた。

「──大丈夫?」

「ああ……出よう」

 男は先にたって喫茶店を出た。

「ち、ちょっとどうしたの、急に」

 女が慌てて後を追う。男はじっと前を見つめ、速いペースで歩き続けた。心臓の鼓動が激しく男の精神を揺さぶり、恐慌を助長させる。

 くそっ、とうとう夢の外にまで出てきやがった。しかし──なんてリアルな感覚だ。あれは紛れもない現実だった。そうだ、確かに今の一瞬、俺は砂漠に倒れていたんだ。

── この街は、本当に現実なんだろうか。今俺が歩いているこの街は、本当に存在するのだろうか。そういえば、おかしなことがいくつかある。俺は最後の戦闘の前に地図を確認しているが、このあたりに河はなかった筈だ。たとえあったとして、それならこの街が一度も戦闘に巻き込まれなかったなどとは考えられない。ここは軍事拠点として大きな価値があるのだから、まず第一に基地が置かれるし、敵からすれば格好の攻撃目標だ。 俺の帰国の手配が整わないのも妙だ。俺はあの戦闘の唯一の生き証人として優先的に帰国させられる筈なのに、もう一ケ月にもなる。時折り軍務局に出向いてみても、輸送機関の都合がつかないの一点張りで話しにもなりやしない。

── まてよ。

 男は立ち止まってあたりを見回した。休日の人の波は夕方になった今も衰えを見せず、楽しげな声があふれている。男の目は人波の中から何かを捜し出そうとさまよった。

 そういえば、俺はこの街に来てから、一度も街中で復員兵の姿を見たことがない。輸送機関がマヒするほどの復員兵がいる筈なのに、それらしい奴はどこにもいないじゃないか!

 ふいに男の頭の中で、すべての謎がひとつの方向を示した。そうだ、この街は平和すぎるんだ。俺に戦争を思い出させるようなものは巧妙に排除され、ただ俺の住みやすいように出来ているんだ。──この街は、俺を捕まえようとしている。捕まえたまま離さず、死ぬまで俺をここに引きとめようとしている。そして俺はその術中にはまって、故郷のこと、愛した女のことを忘れかけている。

 やはり、これは幻なんだ。

「どうしちゃったの、一体」

 ようやく女が追いついて、呼吸を弾ませながら男の顔を見上げた。男は喚くように女にいった。

「わかっちまったんだよ、俺は。これが幻だってね! 本当の俺は、今、砂漠に倒れて死を待っているんだ」

「──何の話?」

「そうだよ、この街は死ぬ間際の俺が見ている幻影なんだ。だからこの街は、俺の住みやすいように調整されている。見てみろよ、この街には復員兵が一人もいない。ここは主戦場の近くだし、輸送機関がマヒする位の人口がある筈なんだぜ? それがどうだい、実に快適な人波じゃあないか。この街に戦争の傷痕がないのは、俺に戦争のことを思い出させない為だし──そうだ、ウィルの髑髏がき綺麗な白骨に変わったのも、それが俺を戦場の思い出につなぎとめる大きな要素だったからだ」

「ちょっと待って、待ってよ!」

 女は喋り続ける男を押しとどめた。

「思い過ごしよ、みんな。それに……」

「いいや、違わないね。この街は、俺が創り出した幻覚なのさ」

「それにね、よく見てごらんなさい。どこに復員兵がいないんですって?」 女が首を巡らせた。男もつられて辺りを見回す。

 男のなかで、何かがぷつんと音をたてた。

 街ゆく人々の間に、ちらりほらりと軍服姿が認められた。怪我をして車椅子に乗っている者もいた。それも、急に涌いて出たというよりも、最初からそこにいたかのように自然だった。

「ば、馬鹿な、さっきまでどこにも……」

「疲れているのよ。ごめんなさいね、こんなところに連れだしちゃって。帰って休みましょう」

 女は、促すように男の腕に手を回し、歩きだす。男は引かれながら、何度も後ろを振り返って復員兵士達の姿を目で追った。

 馬鹿な、そんな……馬鹿な。

 女が眠ったのを確かめて、男は外に出た。特に理由はなかったが、眠くもないのに無理に寝て、あの忌まわしい夢に悩まされるのもしゃくにさわる。 街の中心部はまだネオンが明るく、賑やかそうだった。酒場に入って浴びるほど飲みたい気分もない。当てもなく街中をさまよっている内に、男はふと思いついて、最初に女と出あった砂漠に足を向けた。

 星明かりを頼りに歩きながら、男は考える。実際、これは俺の幻想なのだろうか。それとも、ただ疲れて幻想を見ているという幻想に取りつかれているのだろうか。

 しかし、自分で幻想の世界に逃げ込んだのなら、この幻想に反発し打ち消そうとしている自分は何なんだ?

 そう考えると、男にはこの幻想が自律的に構築されたものではないように 星明かりを頼りに歩きながら、男は考える。実際、これは俺の幻想なのだろうか。それとも、ただ疲れて幻想を見ているという幻想に取りつかれているのだろうか。

 しかし、自分で幻想の世界に逃げ込んだのなら、この幻想に反発し打ち消そうとしている自分は何なんだ?

── そう、この街はまるで意志があるように俺の精神を絡め取ろうとしている。彼女にしたってそうだ。俺は彼女に逃避する場所を求めていた。そうしたくなる魅力というか、そんなものを彼女は持っていて、その求心的な力に俺は捕らえられているんだ。

 そう考えると、男にはこの幻想が自律的に構築されたものではないように思えてきた。誰かが俺に幻影を見せている。誰が──

 ウィルか?

 そうだ、奴の髑髏はまだ見つかっていない。この街に来て以来、あいつは俺に姿を見せていないわけだ。そういえば、この街に来る前夜に奴は俺に話しかけてきた。ひょっとするとあれは幻覚なんかじゃなかったのかも知れない。その後、何か大切な夢を見たような気がするが……。

 気がつくと、男は目的地に立っていた。見渡す限りの砂漠。あっちの方角から俺は歩いて来たんだな、そう思うと感慨みたいなものまで涌いてくる。

 ウィルの髑髏がどこかにないかと無意識の内に探していたが、結局何も見つからなかった。冷たい夜風が砂漠を駆け巡り、男は身体が冷えてくるのを感じた。もう帰ろう。男は街の方角に振り向いた。

 !

 小高い丘があるため、街の建物は見えない。しかし、歓楽街のネオンが、夜空を一目でそれとわかるように染めていた。夜風にのって音楽やざわめきまで聞こえて来る。

 確かにあの時、俺は疲れ切っていた。しかし、これだけ明確な人の気配に気づかない筈がない。間違いない、あの夜彼女に出会う前日にはあの街はなかった!

 男は走った。俺は、自分すら知らぬ間に惨めな死を迎えるのはいやだ。砂漠に倒れて衰弱死するならそれもいい、だがそれなら、ちゃんと自分の死を最後まで見つめていたい。俺は現実に戻る。それには、彼女だ。彼女を問いつめるんだ。俺をこの世界にとどめている一番大きな要因は彼女なのだから。彼女の求心的な力が俺の精神をつなぎとめているのだから。

 家に飛び込むと、女は起きていた。ガウン姿でやかんをコンロにかけ、コーヒーをいれる支度をしていた。

「どこに行ってたの? 今コーヒーをいれるわ」

「話がある。俺を現実に戻してくれ」

「え?」

 女が怪訝な顔をする。

「俺は今、はっきりとわかったんだ。いいか、あの夜──君と出会う前の夜には、ネオンが夜空を染めるなんてことも、これだけ大勢の人間の気配も何もなかった。ところが、翌日には俺はこの街に来ているんだ。つまり、一晩でこの街は出来たってことになる」

「またその話……」

 女は哀し気な目で男を見つめた。

「本当はこんな所に街なんかないって、俺は知っていた筈なんだ。俺は部隊を離れる前に地図を見ている。そこから南方千キロ以内には、村ならともかく、こんな街は存在しないんだ──。でも、俺は命が助かると思ってうれしかった。それでこの街と妥協していたんだ。幻の中ででも生きていたいと思う気持ちが俺にあったんだ」

「きっと方角を間違えたんだわ。もうやめましょう。ここに街があるのは紛れもない現実、それ以外は嘘なのよ。いい? あなたと出会う前の日は安息日だった。もちろんお店はお休み。あの夜はみんな、自宅で静かにお祈りをしていた筈よ。気配がなくって当たり前じゃない」

「そんなごまかしに乗るもんか。第一、君だって幻……」

 女の平手が飛び、男の左頬で乾いた音が鳴った。女の目から大粒の涙があふれだし、頬を伝った。

「なによ、人の気も知らないで! 私が、私がどんなに心配してるか、わかっているの!? 」

 女はこぼれる涙を拭おうともせず、男の顔をキッと見上げた。

「自分で勝手に変なことを考えて、自分ひとりで落ち込んで、一体私はあなたの何なのよ。愚痴を聞かせるための相手? あなたは戦争でつらい目にあってきたのだから、かわいそうな人だから、そう思って大切にしてあげてるのに。ううん、同情じゃない。そうよ、好きよ、あなたが。愛してるわよ。それなのに、あなたったら、あなたったら──!」

 女はついに絶句して、涙ばかりが震える女の顔を伝った。男は無言で女の顔を見つめた。自分が言おうとした何もかもを忘れて、ただ女を愛しいと思った。女は男にしがみつき、堰を切ったように声を上げて泣き出した。男もたまらなくなって女をきつく抱き締めた。

「ごめん……ごめんよ」

 男はつぶやくようにいった。女は少し身を離し、男の顔を見上げた。

「あなた、自分だけが生き残ったことに、負い目を感じているのよ。戦場で無残に死んでいった人達を目の当たりにしているから、突然平和になって戸惑っているんだわ。気に病むことはないのよ、あれは戦争だったのだから……。戦争は、もうおわったの」

 湯が沸いたことを知らせる蒸気笛が鳴る。女は男をソファに導いた。

「今、コーヒーをいれるわ。飲みながら──そうね、あなたの故郷の話しを聞かせて」

 女がキッチンに行く後姿を、男はぼんやりと見ていた。

 生き残ったことに対する負い目。意外と図星かもしれない。結局俺は、戦わずに逃げ出したのだ。怖かった。ウィルがあんな姿になったのを見て、たまらなくなった。ジープで撥ね飛ばしたのは、敵兵ばかりじゃなかった筈だ……。

 男はカップをふたつ用意した。女がコーヒーを持ってきて、カップに注ぐ。

 幻想であるという決定的な証拠がない以上、それは現実なんだ。俺は生き延びた。いつ本国に帰れるか知れないが、それまではこの街で、この女と暮らすんだ。──いや、いっそここで一生暮らすことになっても構わない。コーヒーを注ぐ女の白い指を見つめながら、男はそんなことを考えていた。

 ふと気配を感じて、面を上げる。

 血まみれの兵士が、男に向かってにこやかに手を差し延べた。

 さあ、俺と一緒に行こう。

 飢えと乾き、熱射。

 男は悲鳴を上げて、思わず立ち上がった。女にぶつかり、コーヒーポットが宙を舞う。ふたが外れ、熱湯が男にかぶさった。

 ハッと息を飲む女。そして沈黙。

 クッ、ククッ

 男は笑った。笑いながら女を見た。女も無言で男を見つめかえした。

「熱湯だよね、これ。さっきまで、シュンシュンいってたんだよね。でも熱くないんだ。はは、ちっとも熱くないんだよ!」

「──忘れなさい。私達、もう一度やり直しましょう。それがあなたのためにも……」

「みんな消えちまえっ!」

 男が叫ぶ。

 女が消えた。続いて部屋が消え、空間がおかしな具合にねじ曲がった。 故郷の両親が現れ、すぐに消えた。

 血まみれの兵士が現れ、消えた。

 右頬の欠けた髑髏が現れ、哀し気な目をして男を見つめた。そして消えた。

 最後に、男の意識が遠のいた。

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