仮面 クロウゼス視点


いつも通りの朝が訪れ、鈍く重い身体を無理矢理に動かしてベッドを抜け、レストルームに入って鏡に映る己の顔色に絶句した。

まるで死者だな、と。

女一人の事でと他者は言うかもしれないが、俺にとってはそれだけの事柄だったのだ。

冷えた水で顔を洗い、強引に鈍る頭を冷ましていく。

コンコンと扉を叩く音がして、入室の許可を出せば案の定ヴァンスが入ってきた。


「本日の朝稽古は如何なさいますか?」

「今日はいい。それより着替えと朝食を部屋に頼む」

「畏まりました」


ヴァンスがベルを鳴らし、別の侍従に食事を運ぶように告げて着替えに入る。

白いシャツに騎士団の訓練着のズボンという簡素な出で立ちで椅子に座り、コートとクラバットをベッドに投げた。

シャツの襟元を開け、ぐったりと天井を仰ぐ。

また今日も門前でアレが待ち受けているのかと思うと憂鬱で仕方ない。

深く息を吐けばヴァンスに顔の向きを直される。


「髪を整えましょう」

「……あー、そうだな。頼む」


簡単に髪を整えてもらい運ばれてきた食事を手早く口に運ぶ。

早々に食事を終えてヴァンスに視線を移すと昨夜兄上にもらったピアスが差し出され、人目に入らない位置にあけているホールに差し込みながら昨日のあれは夢ではないのだと心が沈む。


「婚約……するなら新しい首飾りが必要か。煌びやかで無駄に華美なデザインのものを発注しといてくれ。完成は早い方が良いな。宝石はイエローアパタイトと赤い宝石は何でもいい。全鑑定師にハオスワタから何かしら発注を受けたことがないか調べるよう通達し、もしあれば適当なものを選んでもらえ。それと、もう一つ首飾りを作る」

「もう一つ、ですか?」


誰かのものを奪うことを好むノミンシナの性格上、他の女が自分の所有物と揃いのものを持ってることは許せないはずだ。

必ずフェイブルに接触してくるだろうことも、首飾りを回収しようとすることも安易に想像できる。

今回作るのは、ノミンシナに贈る物と同じイエローアパタイトを使った上で多少デザインの劣る物だ。


「発注先は如何致しましょうか」

「……両方ともカートイットに頼む」


ヴァンスは少しの間を置いて遠慮がちに口を開いた。


「フェイブル様に酷ではございませんか?」

「フェイなら分かってくれるはずだ。俺が選んだ宝石を見ればきっと。それとお義父様……いや、カートイット伯爵には今の注文と共に不義理を働いたことへの謝罪を伝えておいて欲しい」

「畏まりました。では、ご指示通りに」


気怠く重い腰を上げ、飾りのないクラバットを付けてコートを手に持つ。

私室を出る直前に数秒目を閉じて、紳士の笑みを作り上げた。


「さぁ、行こうか」


魔女の待つ地獄へ。そう心の中で呟いて待ち構えていた兄上と共に城へ向かった。



馬車が騎士棟の門前に到着し、兄上と共に下車すれば案の定はしたなく露出度の高いドレスを纏った紅蓮の魔女がいた。


「おはよう、クロウ」


吐き気がするほどに甘く囁く声に俺は微笑み、彼女の細腰に腕を回して露になっている額に唇を落とす。


「おはよう、シーナ」


赤くケバケバしい魔女は一度丸くした目をゆったりと細め、俺の頬に指先を当ててなぞる様に下へ動かし、その指をクラバットの結び目に当てた。

そこは昨夜までフェイブルとの婚約の証があった場所だ。


「ふふっ、見立て通りの紳士で嬉しいわ。まだ年若いけれど貴方は大人のやり取りが出来る子だと思ったのよ。小娘には勿体ないわ」


殺意すら湧くその言葉も今はまだ流してやろう。

そう心に決めて俺はクラバットに触れているノミンシナの手に自分の手を重ねた。


「私も嬉しいよ、シーナ。麗しい君に選ばれたのは光栄だ」

「あぁ、クロウ……キスをしてくれないかしら?勿論、唇によ?貴方の愛を感じたいわ」


ノミンシナは空いた手で俺の形の整った唇に触れる。

兄上や御者を任せていたヴァンス、門番を務める騎士たちの冷ややかな視線が刺さるが、今更そんなものはどうでも良かった。

唇に触れる指先を甘く食んで彼女の耳元に顔を寄せる。


「唇は婚約式まではお預けだよ、麗しい人」


流れのままに頬にキスをして、顔を離す。

化粧品の匂いとコロンのきつい匂いが合わさり極めて不快だったが決して表情には出さず、俺はこの世で最も彼女を愛おしんでいるように振る舞う。


「その瞳、好きだわ。やっぱりあの小娘とは家の事情で婚約させられていたのね?」

「想像にお任せするよ。私は私の婚約者に相応しい女性を最も愛すると決めている。ただそれだけだ」

「まぁ!わたくしのことね!嬉しいわ」


満面の笑みを作り出した彼女はチラッと背後の兄上に視線を向ける。


「あぁ、紹介が遅れて悪かったね。此方は私の兄でシャーレッツオの嫡男マリウスだ」


ノミンシナの隣に立ち、兄上を紹介すれば彼女は蠱惑的に且つ下卑た笑みを浮かべ淑女の礼をとる。

婚約者の兄までも品定めするとは男漁りに余念が無いようだ。


「兄上、此方はハオスワタ侯爵のご令嬢でノミンシナ。私の婚約者だよ」

「よろしくお願いしますわ、お義兄様」

「こちらこそ、宜しく。しかし、まだ義兄と呼ぶのは尚早ではないかな?」

「まぁ!では、マリウスと呼んでも宜しくて?わたくしのことはシーナで結構よ」


真紅の唇が弧を描き彼女の手が兄上に触れる。

本当にこの女は見目さえ良ければ誰でも良いらしい。

兄上の片側の口端がピクリと動き、俺とよく似た表情を作り上げる。


「シーナ、私達はそろそろ行かなくては。クロウも入団したばかりだし、評価が落ちるような事の無いように」

「あぁ、そうね!わたくしの婚約者が評価の低い男だなんて許されないものね。それに、わたくしも行く場所があるの。お暇するわ」


彼女はハオスワタの家紋がついた馬車に乗り込み、何処かへ向かった。

ふと隣に立った兄上が何事かを言おうと口を開いて、俺はそれを小さく囁いて制止した。


「兄上、ここは騎士棟ですよ?」


ここは紅蓮の魔女の手駒の巣窟だ。迂闊な発言や行動は許されない。

兄上もそれを理解したのだろう。俺の肩を軽く叩いて門の中へと入り、俺もあとに続いた。

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