第12話 ありがとう
髪にローションを馴染ませた後、後ろ髪を結び、更にその上にサイドの髪を束ねて「くるりんぱ」と、手馴れた様子で葵が髪を整えていく。
いつもよりボリューミーかつふわふわな質感で、しっとりと濡れた髪が艶かしい。
薄く透明感のあるメイクに濃い紅を引き、瞳にはブルーのカラコンを装着。
今日の『さながら誘』の完成だ。
本日は配信日。
既に機材のチェックは終わっている。
軽く進行表に目を通す。
SNSで挙がっていた質問を幾つか拾い、それに対する解答も用意されている。
今日は雑談メインの緩めの配信。
一時間の予定で、締めに、登録者数50万人に向けての記念イベントの告知をして終了となる。
来週には到達しているだろうか。
それ以上伸びると、葵の我慢が限界を超えそうだ。
数を稼ぐための無茶な要求がこちらに回って来かねない。
今でさえおかしな発言がチラホラあるくらいなのだ。
葵の口からお色気作戦と聞こえた時にはぎょっとしたものだ。
食事は一時間前に軽めに採った。
お腹が膨れすぎると、気が抜けて集中力が切れる恐れがある。
迂闊なことを口走ると、一つのミスでも盛大に拡散されてしまう世界だ。
もっとも、ミスなんて数えきれないほどしている。
しかし幸いなことに、外野がフォローしてくれたり、ミスを喜んでくれる層もいるので、いずれもマイナスに働くことはなかった。
だからといって次がどうなるかは予想出来ない。
せめて気構えくらいはしっかりしておこうということである。
配信が間近に迫り、『さながら誘』アカウントのWriterには多くのリプが寄せられている。
楽しみにしている声が多い中、「どうせあいつは男だって」、熱に浮かれる信者を窘めるような書き込みが散見された。
いつものことである。
10~20のアカウントが発信元であると聞かされている。
中には捨て垢であったり、他から聞いた情報を鵜呑みにして、自らが発見者だと名乗る者もいて、正確な数が分からないのだ。
葵から言わせれば、間違った情報ではないし、性別論争のお陰で登録者数が伸びた経緯もある、彼らは敵じゃない、とのことだ。
味方でもないけどね、と笑って付け加えていたが。
私は自身の衣装を見下ろす。
無地の薄紫のタートルネック。
首からかかるシルバーのネックレス。
軽くパッドで盛られた胸部。
タートルネックこそが男疑惑を生む元凶なのだが、一部で、タートルお姉様と付けられた呼び名を思い出す。
中には、亀お姉様、なんて呼ぶ子もいて、これには笑ってしまった。
ウィークポイントが個性になることもある。
ネット社会では何が跳ねるか分からないものだ。
そう苦笑しつつ、私は心を落ち着かせるために目を閉じた。
状態は限りなくフラットに近い。
朝までの憂鬱は何処へ行ったのやら。
これからのことを思えば前途多難だが、円満に解決したと思いたい。
少なくとも、胸に渦巻いていた濁った靄は、温かい灯火へと変わっているのだから。
と、机の脇に置いたスマホが振動した。
目を開けて、手元に引き寄せると。
しおりん:もうすぐだね。ドキドキする!
みどりん:待ちかねたよー!
:猫のスタンプ(ワクワク)
私は『WeLoveYou』通称ラブ誘、と彼女たちが呼んでいるグルチャに強制参加させられる運びとなった。
メンバーは六人。
橋苗栞。
岩島碧。
佐伯望。
厳島早織。
相良葵。
相良悠。
さおりん:お姉様はよ
のぞみん:幼女スタンプ(愛してる)
この子たちは葵の同級生。
家に何度か来たことがあるので顔は知っている。
中身までは知らなかったが、『さながら誘』のアドバイザー兼熱烈な信者だったらしい。
あおいん:もうちょっと待ってね~
妹よ、名前の最後に『ん』は絶対入れなきゃならないの?
あおいんはちょっと無理があるでしょ。
ゆうん:もう寝て下さい。
:豚のスタンプ(懇願)
ゆうんて……。
私たち兄妹だけ無理やり感が半端ない。
話を少しだけ戻すと、朝一で私に女子会のことで迫ってきた二人であるが、教室で会話内容を公にすることは憚られたので、すぐさまグルチャに引っ張りこまれたわけである。
そこで如何に『さながら誘』を愛しているかを熱烈に語られた。
その会話に、さおりんとのぞみんも加わって、ログを巻き戻すとカオスな状況が広がっている。
私は終始あたふたしていた。
抱え込んでいた不安は、彼女たちの強烈な愛に掻き消され、その愛情の深さ故に別の不安が持ち上がったくらいだ。
ログを少し掘り返す。
しおりん:誘さんと付き合いたいな……
さおりん:残念、お姉様は私が予約済
のぞみん:誘姉の処女は私が貰います!
みどりん:ボロボロにされた誘を所望!
彼女たちは……、女装した私のことを、異常なほどに愛してしまっていた。
葵の同級生はともかく、毎日のように顔を会わせていた橋苗しおりんと岩島みどりんが、内面にこんな感情を隠し持っていたのかと驚きを禁じ得ない。
四人は、男としての私ではなく、女装した私に恋をしていた。
はっきり言わせてもらえば異常である。
しかしそんなことを言ってしまえば、女装した私がそもそも異端なのである。
これからの関係性はどうなってしまうのだろう。
私は女子会でどう振る舞うべきなのだろう。
でも最初に伝えたいのは。
ただひたすらに。
感謝している。
ということである。
『さながら誘』のお母さんになってくれてありがとう、と。
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