私と悪魔と王妃様

元とろろ

 真珠のような光沢の白いそれに手を触れる。

 人肌ほどに生温い。ゆらゆらと揺れる小さな動きが私の手のひらをそっと押し返した。

 生きている。

 王妃様が繭にお籠りになってから一月が経つが、今日も無事に生きているのである。

 それは私にも悪魔にもわかりきったことではあるけれど。


「そろそろ羽化しますよ」


 淑やかな声が部屋の隅から投げかけられる。

 豪奢な椅子に座って優し気に微笑むのがこの国唯一の悪魔だ。

 彼女は結い上げた金髪をふわりと揺らして微笑んだ。

 青い瞳に宿る感情は読めない。目尻の下がった形状だけは優しげだとも思うけれど。


「私、これから少し落ち込みます」

「ええ、そうですよ」


 悪魔は穏やかな笑顔のままで、いかにも当然だという調子で応じる。

 確かに当然なのだろう。

 彼女は前知魔なのだから。


 今の時代、大抵の国は悪魔を一つ城付きにして厚遇している。

 城、ひいては国を特定の悪魔と紐づけることによって、それ以外の悪魔を遠ざけるというのが狙いである。

 どんな悪魔も大きな災いを呼ぶものだが、逆に言えば悪魔なしで大禍は起きない。

 悪魔に関わりなく起こる小さな災いは置いておき、特定の災禍しか降りかからないという状況を作ることができるのだ。

 だから悪魔という存在自体にそれ程抵抗のない国は、比較的穏当だと思える悪魔を引き込んで城付きの地位を与えている。

 この国の場合、それが前知魔なのである。


 自分の未来を知ってしまうという災いなのだけれど、詳細に未来がわかるのは王族だけで私のような侍女は全てを知れるわけではない。

 王妃様の場合は元々が他国の方だったから、前知魔の影響を受けたのは当然この国にいらっしゃってからのことだった。

 もっとも国王陛下の方では以前から王妃様と結婚することもそれが上手くいくということも知っていらしたはずだ。詳しい内容は公言なさらないけれど。

 王妃様も結婚直後は幾らか戸惑っていらしたけれど結局趣味の刺繡が思うほど上達しないということ以外に不満はないご様子だった。

 婚姻した以上この国の王家の一員であり、やはり私などより詳細な前知を受けているようで、いくつかの事柄は私にもお話してくださった。


 だから今回の羽化についても私が感じているよりもはっきりとわかった上でなさっていることになる。

 王妃様自身がどのような思いを抱いているかというのはわからないのだけれど。


 前知というのは自分のことしかわからない。

 そして王族に近いほど詳しくわかるようになる。

 私の場合、城に出入りする前は何かをする前にそれが成功するか失敗するかだけがわかった。

 今ではその日の内に自分がすることが大抵わかる。

 今日はこれから王妃様の羽化に立ち会い、その結果に少し落ち込みながらも侍女として通常の仕事に戻る。

 そうするというのはわかっていても何故そうするのかはわからない。

 決まった通りの未来を演じることに、もしかすると理由などないのかも知れない。

 どう行動するかだけでなく、どう考えるか、どう感じるかということも全て決まった未来をなぞっているに過ぎないのかも。

 最も詳しく未来を知るお方、何にも心を動かさず粛々と日々を過ごす国王陛下のお姿を見ると、そのような考えも浮かんでくる。


 一方で、それが前知のない国では馴染みのない考え方であるらしいということも知識として知っている。

 だとすれば他国からやってきた王妃様の心内には、環境の変化によって戸惑いか失望か、大げさに言えば人生観の変化とか、なにかそういうものがあったのではないだろうか。


 この城に来たばかりの時、婚姻の式を行うまでのわずかな期間、まだ身分の上では他国の姫であられた時は、情緒の面では昔の私と大きな差はないように思われた。

 あちらの国の災いは半分人でない体で生まれるというもので、王妃様の場合は腰から下が虫の体でいらっしゃった。綺麗な翡翠色の幼虫であられた。


「刺繍のことは残念ですけれど、他は問題ありませんわね」


 若々しいというよりもむしろ幼げな甘い声でそう呟いていらっしゃった。

 この国ではちょっと見られないほどバッスルが後ろに長く伸びたドレスをお召しになって、大人ぶったすまし顔をしていらっしゃった。


「刺繍はね、これからも続けるのですけど、人並み以上には上達しませんのよ。それれでも諦めきれずに続けてしまうのですわ。本当にうまくならないこともそれが嫌なのもわかっているのにねえ」


 そう仰る様子は王妃様自身が不思議そうでもあり歯痒そうでもあり、国王陛下ほど達観なさっているようにはとても見えなかった。


 しかしもしかすると、この羽化も刺繍と同じようにうまくいかないとわかっていながらせざるを得なかったのではないか。

 人は誰でも大人になるもの。王妃という立場であればなおのこと。いつまでも羽化をせずにいるということはできないだろう。


 この羽化について、王妃様自身が仰っていたことと言えば。


「私、綺麗な翅を生やすのよ」

「まあ、どんな翅でございますか」

「まだ秘密よ。でも昔はアゲハみたいな翅がいいと思っていたの。貴女、そうでなければ私の為に悲しんでくれる?」

「王妃様が悲しむことほど辛いことはありません。でもどんな翅になるのかはご存じなのでしょう?」


 今にして思えば。

 アゲハみたいな翅がいいと思っていたとは、明白に過去形の言い方だ。

 王妃様はそうはならないと前知なされたのだ。

 そしてそれをとっくに受け入れておられるのだ。


 侍女としてお仕えしてる期間は確かに長くはない。

 それでも王妃様の悲しみが最も辛いというのは嘘ではない。

 半分は虫のあの方がこの国にいらっしゃった時から不思議な程に気に入っている。

 初めてお会いするその日の朝から、そうなるだろうという前知の通りに誠心誠意お仕えしている。


 しかしあの方と悲しみを共にする機会は、あの方がご自身の未来全てを知ったあの一時にしかなかったのではないか。


「今は考え事よりお出迎えを」


 悪魔が囁く。

 同時に繭が大きく揺れる。

 いつの間にか正面の一部が薄く透けていた。

 磨りガラスのような薄壁越しに、しっとり濡れて御髪が額にぺたりと張り付いた王妃様のお顔が見えた。

 顔貌が変わったわけでもないのに、どこか大人びたような表情で微笑まれた。


 ああ、白い。アゲハとはまるで違う。首から下はまだ見えないけれど、そのことは知っていた。


 王妃様がぐっと身を乗り出すようにして、ぷつりと繭を突き破った。

 それから私も絹の布巾で王妃様の御髪を拭いて、その透明な液のしみ込んだ布で繭を溶かしほぐすことでやっと羽化のお手伝いをできるようになるのだ。


 頭と両手さえ出ればあとは一気にずるりと抜け出る。

 王妃様の白い玉体を先ほどとは別の、今度は大人一人をすっぽり包める大きな絹で寝かせるように受け止める。やはり温かい。

 後に残された白い繭と琥珀色の蛹は少し湿って草いきれにも似た香りを放っている。


 王妃様は力を抜いた様子で横たわり、腰から下の虫の体が大きく弛張を繰り返す。

 そこに生えた翅がゆっくりと広がる。

 ふわふわとした産毛の生えた可愛らしい翅。

 どこからどう見ても蚕蛾に似た白い翅だ。

 完全に翅が張ったのを確認してから濡れた体を絹で拭う。

 体液は繭を溶かした透明なものと赤錆色の老廃物の二種がある。

 柔らかな体を傷つけないように丁寧にお世話をし、三度布を変えてようやく満足できる程度に綺麗になった。

 白い、美しい体だ。


「白い翅はお嫌いですか」


 私は私がそう口に出すことを今朝知った。

 私がそうするというのは知っていたけれど、どんなお返事があるかはわからない。

 返事を聞けるということはわかっているけれど、そのお言葉は王妃様のものだ。

 前知でわかること、自分のことという範囲を超えている。


「今はまだがっかりしているけれど、後で好きになるのはわかっていますから。ふわふわですしね」


 大人びた微笑みは残念などとは感じさせない。そういう顔ができるのは王妃としてはいいことなのだろう。

 王妃の顔を見せる彼女に、私もただの侍女として応える。


「新しい服をお召しになってください。仕立屋はきちんと今のお体に合わせていますから」


 そのドレスを作った仕立屋も自分の作品だけが見えていて、それを着る王妃様の未来は知らなかったはずだけれど。

 王妃様が繭に籠ってすぐのこと。それまでの物と比べてバッスルだけは控えめになり、その他の部分は一回り大きく作られたその服を受け取って、ちゃんと成長なされるのだと嬉しくなった覚えがある。

 いいことだとは思っているのだけれど。

 それでも少し落ち込みながらも侍女として通常の仕事に戻る。

 この気持ちは私の内から生まれたものか、時間が決められた通りに運んだものか、なんだかわからなくなってしまった。


「未来はいいものですから、大丈夫ですよ」


 悪魔が自分の席から動かないまま、相変わらず私と王妃様に優し気な眼差しを注いでいた。

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