そっと愛でる会 (4)

 レーナが十歳になると、長兄パトリックが王立学院を卒業した。

 学院を卒業したパトリックは領地に居を移し、本格的にハーゼ伯として領地経営にたずさわり始めた。それまではパトリックを学業に専念させるため、後見人であるヨゼフの派遣した監査人が家令と相談しつつ業務を行い、重要な案件についてはヨゼフが領主代行として処理していた。


 年若い新米領主を支えるため、領地へは母マグダレーナが同行した。その際にレーナも一緒に連れて行ったので、四歳の頃から六年間続いたイザベルとの交流はそこで途絶えたのだった。


 当初の予定では、パトリックが領地経営の引き継ぎを終え、ある程度仕事に慣れたら半年から一年ほどでマグダレーナとレーナは王都に引き上げることになっていた。しかし着任早々、パトリックひとりの手には余る事案がいくつも発生する。マグダレーナとヨゼフの手を借りてひとつずつ解決していくも、結局すべてが落ち着くまでに四年近くが経過していた。

 レーナはその間ずっと領地に滞在することになり、四年後に学院に入学するまでイザベルと再会することはかなわなかった。


 大好きなイザベルと会えなくなって、レーナは寂しかった。寂しさのあまり乗馬にのめり込み、早駆けを極めてしまうくらいには寂しかった。


 子どもがひとり静かに何かに熱中しているとき、うっかり「手のかからないよい子」などと勘違いして見過ごしていると、だいたいが何かしらろくでもないことをやらかしているものと相場が決まっている。このときのレーナがまさにそれだった。

 もし両親が気づいたらやめさせていたに違いないのだが、あいにくヨゼフもマグダレーナも、さらには長兄パトリックも、領地内のもめごとの始末に追われて忙しく、レーナがあるまじき方向へ乗馬技術の磨きをかけているとは誰も気づけなかったのだ。

 やっと領地内のもろもろが落ち着いて、レーナの「乗馬」の方向性は何かおかしいと家族が気づいたときには、残念なことにすでにいろいろと手遅れだった。


 親の目の届かないところで乗馬にのめり込んでいたレーナだったが、馬に乗ればやはり思い出すのはイザベルのこと。乗馬だけでは埋めきれない寂しさを埋めようとするかのように、レーナは記憶の中のイザベルを絵に描きまくった。かくして、無駄に非凡なふたつ目の才能を開花させることになる。


 誰に見せるつもりもなく、ただ自分のためだけに描いた絵だった。だが、うかつにも自室の机の上に出しっぱなしにしてあった数枚を、冬の長期休暇で帰省していたヴァルターが目にしてしまった。


「おお? これイザベル嬢か。誰の描いた絵?」

「……私」

「え、レーナが描いたの? これ全部?」

「うん」

「こんな才能あったのか。すごいな、お前。一枚くれ」

「だめ」


 なぜか欲しがるヴァルターに、レーナは即答で断った。

 こんなもの、他人に見られたら恥ずかしくてたまらない。特にイザベルには間違っても見せられない。まかり間違って見られて「気持ち悪い」などと思われた日には、きっと消えてしまいたくなる。こんなに描きまくるだなんて、ちょっと気持ち悪いような自覚がレーナにもあるのだ。


「何でだよう。いいだろ、一枚くらい」

「だめ。だって、他の人に見られたら恥ずかしいもん」

「いや、これ恥ずかしい出来じゃねーから。むしろ誇れ」


 褒められること自体は悪い気がしないが、兄の交友関係を考えたら不安しかない。


「絶対に誰にも見せないって約束するなら、あげてもいいけど……」

「ハインツとアロイスだけ。それならいいだろ? あいつら喜びそうだからさあ」

「ほら、だからいやなの。そんなことしたら、イザベルさまもご覧になりそうじゃない。やっぱり、だめ」

「ん? その言い方だと、イザベル嬢に見せなきゃいいってこと?」

「うーん。まあ、そうだけど……」

「なら大丈夫だ。誓って見せない。約束する。だから、くれ」


 催促するように笑顔で手を出す兄に、レーナは不信に満ちた視線を向けた。別にヴァルターが約束を破ると思っているわけではない。きっと嘘はついていないし、約束は守るだろう。彼が正直で誠実な人間なのは、わかっているのだ。が、同時にどこか大雑把なところがあることもよく知っているので、こういう言い方をされるときは特に、何だか信用ならないような気がしてしまう。


「そもそも学年が違うから、間違ってもイザベル嬢に見せる機会なんてないよ」

「それもそうか」

「うんうん。あいつらだって、陰でこういうもの見て喜ぶような気持ち悪いことしてるなんて本人に知られたくないだろうし、余計なことしゃべる心配もないからさ」

「…………」


 レーナを安心させようとしたはずのヴァルターの言葉は、逆に彼女の心に鋭く突き刺さってしまった。だって「陰で見て喜んでいたら気持ち悪いと思われるような絵」を描いたのはレーナなのだ。自分でもちょっぴりそう思わないでもないものの直視することを避けていた事実を的確にえぐられ、彼女は落ち込んだ。


 傷ついた顔をして黙り込んでしまった妹に、ヴァルターも自身の失言に気づいてあわてて全力で機嫌を取り始める。しかし、いつもならわりと簡単に機嫌を直すレーナも、このときばかりは手強かった。おかげでヴァルターは何とか機嫌を取ろうと「王都にある老舗の乗馬用品店で何でも好きなものを買ってやる」と口にしてしまい、小遣いの中から手痛い予定外の出費を余儀なくされたのだった。


 乗馬用品で懐柔されたレーナは「絶対に他の人には見せないでね」と、しつこいほど念を押した上で一枚の絵を兄に渡した。


 休暇が終わり寮に戻ったヴァルターは約束どおり、レーナの注文をすべて満たす乗馬用の革手袋を送ってきた。ただし、とんでもない内容の手紙とともに。そこには「ハインツがどうしても欲しいって言うんだけど、あげてもいい?」という意味のことが書かれていた。


「だからやだって言ったのにいいいいいいい!」


 怒れるレーナは鼻息も荒く、便箋の紙面いっぱいに大きな文字で「だめ」とだけ書いて返事を出した。兄がその便箋を開いたときの顔を想像して溜飲を下げたが、彼女の災難はまだ終わらない。

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