そっと愛でる会 (3)
実際に小馬に乗ったのは、その次にジーメンス邸を訪れたときだ。
驚いたことにイザベルは少年用の乗馬服に身を包んでレーナを迎えた。びっくりしたレーナが自分も着替えた方がよいのかと尋ねると、イザベルは笑って「レニーはそのままで大丈夫」と答えた。そして、エプロンドレスを手渡した。
「お洋服をよごすといけないから、これを着てね」
イザベルはレーナがよそ行きのワンピースの上からエプロンドレスを着るのを手伝い、さらに編み方を教えながらレーナの髪を三つ編みにした。
「はい。これで風が吹いても大丈夫」
イザベルのサラサラな金髪も三つ編みにするのだろうかと思って見ていると、無造作に後ろでひとつにくくった。その姿はまるで絵本に出てくる王子さまのようで、レーナはちょっとドキドキしてしまった。
思えばこれが、レーナの初恋だったのかもしれない。初恋の相手は、幻想の王子さまでしかなかったけれども。
前回と同じように手をつないで厩舎に行くと、小馬にはすでに馬具が取り付けられていた。レーナ用に踏み台も用意してある親切ぶりである。
馬丁の手を借りながら小馬の背にまたがると、そのすぐ後ろにひらりとイザベルがまたがった。
「ひとりのほうがよかった?」
「ううん」
初めての乗馬体験にわくわくするのと同じくらい、実は内心では高さに怖じ気づいていたので、密着した背中に感じるイザベルの体温と後ろから回される腕に安心した。
この日の「乗馬」は馬丁が小馬を引いて馬場内を歩くだけだったが、本物の馬に乗れてレーナは大満足だった。引き馬で何周かした後、レーナはイザベルがひとりで乗るところが見たいとねだった。イザベルは快く応じて馬を駆ってみせたが、そのかっこよさにレーナはすっかり舞い上がってしまった。自分もいつかあんな風にひとりで馬に乗れるようになりたい。
初めて小馬に乗ったこの日、帰りの馬車の中でレーナはそれはもう大興奮で、母マグダレーナにいかに小馬がすばらしかったかをつたない言葉ながら熱く語った。その上でちゃっかり自分も欲しいとおねだりした。父にねだってダメだったのだからダメでもともと、母にもねだってみたわけである。
マグダレーナはすぐに却下したりはしなかった。少し思案した後で「お父さまにお話ししてみましょう」と言った。
夕食の席で、マグダレーナはヨゼフにジーメンス邸でレーナがイザベルの小馬を見てきたことを話した。見ただけでなくがっつり乗って来ちゃってるわけだが、そこはあえて触れない。
「それでね、この子にも小馬を持たせてはいかがかしらと思って」
「うーん、しかしレーナはまだ小さいだろう」
「だから小馬なのですよ」
レーナは期待に目を輝かせ、心の中では母に盛大に声援を送りつつ、両親の会話をおとなしく聞いていた。彼女は空気の読める六歳児なのだ。ついでにヴァルターもそれなりに空気の読める八歳児なので、おとなしく黙々と食事を進めていた。単に好物の肉料理を食べるのに余念がなかっただけとも言う。なお、長男パトリックは学院で寮生活をしているため、長期休暇以外は屋敷にいない。
「だが、女の子は馬になんぞ乗れなくてもかまわんじゃないか」
「いいえ」
マグダレーナは食事の手を止め、姿勢を正して真剣な視線を夫に向けた。
「わたくしも馬には乗れます。必要と思い、習ったのです」
「そうなのか」
生まれながらの貴族である妻に乗馬の心得があると聞いて、ヨゼフは意外そうな顔をした。
そうしてマグダレーナは、女の子といえども乗馬を習う必要性があることを説明し始めた。いわく、隣国で政変があったときに、馬に乗って逃げたか馬車で逃げたかで明暗が分かれたのだ、と。
「有事の際には機動性が生死を決すると、誰よりあなたはよくご存じでしょう?」
「それはまあ、そうだが……」
海上におけるヨゼフの強みは、最新型の蒸気船を導入したことによる機動性である。敵と争う際に機動性がどれほどものを言うかを身にしみて知っているだけに、それを持ち出されると反論ができない。女の子の習い事として乗馬が適切か否かという話が、いつの間にやら生きるか死ぬかの話にすり替わっているわけなのだが、そこに気づけない時点ですでにヨゼフは丸め込まれつつあるのだった。
マグダレーナはレーナに微笑んで片目をつぶってみせた。それを見てレーナは母の勝利を確信した。母つよい。母すごい。
実のところ隣国の政変時に馬車を使って逃げ遅れたという貴族は、よりにもよって四頭立ての豪華な紋章入りの大型馬車を使っていた。すぐ捕まった原因は遅いだけでなくやたら目立ったからであり、小回りがきいてあまり人目を引かない質素な馬車を使っていたなら話が変わっていた可能性は十分にある。
機動性の話をするなら、馬に乗れるかどうかよりも、状況に応じた移動手段を選べるかどうかこそが重要なのだが、マグダレーナはその点に触れるのを巧妙に避けて話を進めていた。
あるいはヨゼフも、論点が微妙にすり替わっていることには気づいていたかもしれない。しかしたとえ気づいたとしても自分から折れたであろう程度には、妻に甘い男だった。
「わかったわかった。小馬ならいいだろう。馬の選定はあなたに任せるよ」
「はい、承ります。よかったわね、レーナ。さあ、お父さまにお礼をおっしゃい」
「お父さま、どうもありがとう!」
「うむ」
母の口添えのおかげで乗馬の許可が下りたレーナは、小馬を手に入れると熱心に乗馬を習うようになった。いささかならず「淑女のたしなみ」の域を超えた熱心さだったが、それはレーナなりに幼い頭で乗馬の重要性について考えた結果だった。
つまり彼女は「速さが命」と理解したのだ。
母が言っていたのはそういうことじゃないのだが、残念なことに娘の勘違いに両親が気づくことはついぞなかった。
レーナがひとりで馬に乗れるようになると、ジーメンス邸訪問時にイザベルと一緒にちょっとした外乗に出たりもするようになった。イザベルの兄アロイスは黒馬を持っていて、レーナがイザベルと一緒に外乗に出るときにはレーナがイザベルの小馬を借り、イザベルはアロイスの黒馬にまたがった。イザベルはいつだって何をしていたってきれいで素敵だったが、黒馬に乗って風を切っている姿がレーナはいっとう好きだった。
こんな風に母親たちのお茶会ついでの交流は、レーナが十歳になるまで続いた。
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