そっと愛でる会 (2)
ジーメンス邸に連れて行かれると、ヴァルターはすぐにアロイスやハインツと一緒に外に遊びに行ってしまい、残されたレーナはいつもイザベルとふたりで遊ぶ。
イザベルはいろいろなことをレーナに教えてくれた。
たくさん持っている絵本を読んで聞かせてくれたり、図鑑を広げて身近な植物や小動物の名前を教えてくれたり。絵本は外国語のものが多かった。ジーメンス公は仕事で国外に出る機会が多く、そうした際に妻子へのちょっとした手土産を欠かさないらしい。
絵本のほかに外国製のタロットカードもたくさんあり、ねだると並べて見せてくれたものだ。絵柄も意匠も国によってまったく異なり、ただ並べて眺めるだけでも楽しかった。
昔は一枚ずつ職人が手書きで製作するため高価な美術品だったタロットカードも、この頃では印刷技術の向上にともなって大量生産されるようになり、比較的かさばらないこともあって旅の土産としては手頃だったのだろう。
ジーメンス家の子ども部屋には、たいそう立派な木馬も置かれていた。その名のとおり木製の馬なのだが、遊具にしては写実的で精巧に作られていて、尾やタテガミには本物の毛が使われていたし、手綱はもちろん、鞍やあぶみも革製の本格的なものが取り付けられていた。
レーナが興味津々に近づいてタテガミをなでると、イザベルが「乗ってみる?」と尋ねた。それはもちろん、乗ってもよいなら乗ってみたいに決まっている。手伝ってもらいながら木馬の背によじ登り、鞍にまたがると目線が高くなって、まるで本物の馬に乗っているような心持ちがした。
「お姫さま。さあ、どちらにまいりましょうか」
イザベルはまるで従者のように馬の横に姿勢よく立って首に手を置くと、振り返って馬上のレーナを見上げ、朗らかに尋ねる。
いつだってイザベルは「小さい子」のレーナにお姫さま役をゆずってくれた。自分のほうがよほどお姫さまにふさわしいのに。交代しようと申し出ても「レニーはお姫さまはいやなの?」と返されると、決して嫌なわけではないのでそのままうやむやになってしまうのだった。
レーナはこの木馬に夢中になった。なぜならレーナの家には木馬がない。
レーナの父ヨゼフは実践主義で、男児には幼いうちから当たり前のように馬に乗らせた。レーナより八歳上の長兄パトリックはとっくに馬を所有しており、二歳上の次兄ヴァルターも六歳の誕生日祝いに馬を与えられていた。しかも自分の馬を持つ前から乗馬を始めていたから、木馬になど用はなかった。
ヴァルターの馬がうらやましくて、自分が六歳になるときレーナも父にねだってみたが「あれは女の子の乗る物ではないし、そもそもレーナはまだ小さすぎる」と渋い顔をされて終わってしまった。だから、たとえ木馬であろうと本物そっくりの馬に乗れてうれしかったのだ。
イザベルにそのことを話すと、彼女は自分の小馬を持っていると教えてくれた。
「女の子だって馬には乗れるから、大丈夫」
「ほんとう?」
「うん。でも、レニーはまだ小さいからちょっと難しいかもね」
「大きくなれば乗れるの?」
「うんとね、見ててね」
イザベルはあぶみに足をかけると、ひらりと木馬にまたがった。
「こうやって、ひとりで乗れようになれば大丈夫」
そうしてまた何でもないことのように軽やかに馬から降りる姿に、レーナは口を閉じるのも忘れて見とれた。かっこいい。手伝ってもらいながら踏み台を使ってやっとのことでよじ登るレーナとは、まるで違う。
イザベルの小馬は、当然ながらこの木馬よりは大きい。けれども踏み台を使えば、小さな子どもでも乗り降りができると言う。木馬で乗り降りの基本を練習しておけばきっと本物の馬にも乗れるようになるだろうと聞いて、レーナはすっかりその気になってしまった。しかも「木馬にひとりで乗れるようになったら、小馬に乗せてあげる」という約束までとりつけたのだ。
レーナは決して運動神経が悪いわけではない。むしろ年齢の割によい方だったが、いかんせん小柄だった。
馬に乗りたい一心でなかなか木馬から離れようとしないレーナに、イザベルは少しもいやな顔をすることなく付き合った。あぶみの長さを調節したり、踏み台を用意したりと世話を焼き、ときにはお手本を見せながらアドバイスをする。最初の日はさっぱり形にならなかったが、次の訪問時には最初から木馬にかじりついていたおかげか、何とかひとりで乗れるようになった。
「できた!」
「おめでとう!」
思わず快哉を叫ぶと、イザベルも手を叩いて我がことのように喜んだ。もちろん馬に乗せる約束も覚えてくれていた。
「今日はもう乗る時間ないけど、馬を見ていく?」
「いく!」
手をつないで屋敷を出て厩舎まで歩き、馬丁に声をかけてから中に入る。自分の家では「危ないから」と厩舎に近づくことを禁止されているため、厩舎に入るのは初めてだ。馬車を引く馬にも決して近寄ってはいけないときつく言い含められていたので、間近に馬を見るのも初めてだった。
大きいのは知っていたけれども、近くで見ると本当に大きい。小馬でさえ大きいではないか。「小馬」というから木馬より少しだけ大きいものを想像していたのに、まったく違った。木馬の背中はレーナの胸くらいの高さだったのに、小馬の背中はレーナの頭よりも少し上にある。
イザベルが名前を呼ぶと、小馬は頭をさげて顔を寄せてきた。頭も大きければ目も大きいし、口も大きい。何もかもが大きい。
イザベルの真似をして鼻づらをなでていると、彼女はくるりと馬に背を向けて片手でレーナの肩を抱き寄せ、反対の手のひらを広げて小さな白いかたまりを見せた。秘密の宝物を見せるようなしぐさに、思わず声をひそめてレーナは尋ねた。
「これ、なあに?」
「馬の大好物の、角砂糖。見てて」
同じくささやき声で返事をしたイザベルは小馬に向き直り、角砂糖ひとつを載せた手のひらを差し出した。すると小馬の頭が近づいてきて、器用にパクリと食べる。
「やってみる?」
「うん!」
「はい、どうぞ」
渡された角砂糖をおっかなびっくり差し出すと、馬の大きな頭が近づいてきて角砂糖にかじりついた。食べ終わるとペロリと口の周りをなめてから、またレーナのほうに頭を寄せてくる。「レニー、もっとちょうだいって言ってる」とイザベルは笑い、両手のひらを馬に向けてヒラヒラさせた。
「もうないの。あれでおしまい」
「おしまい」
レーナも真似をして手のひらを見せると、小馬は素直に頭を引いた。
「小馬さん、ばいばい。またね」
イザベルに手を引かれて、その日はそれで厩舎を後にした。
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