第7話 真実の愛情

 三途さんずの川への扉に案内しようとしていたところで、柏木かしわぎさんが拓真たくまに「あの、さ」と少し言いづらそうに声を掛ける。


「もう時間無いかな?」


「どうしました?」


「うん……、最後に自分の身体を見ておきたいなって思って。駄目かなぁ」


 柏木さんはそう言って苦笑する。拓真の勤務時間はとうに終わっているので、時間は問題無いが。


「大丈夫ですけど、どうしてか聞いても良いですか?」


「うん。自分を生かしてくれた身体とちゃんとお別れしたいと思ってね。拓真くんが来てくれた時、俺ぼーっとしちゃってて、自分の身体をまともに見てもなかったから」


「分かりました。じゃあ行きましょうか。えっと」


 拓真は死神手帳を広げ、1番上の欄にある柏木さんの項目を突く。するとまずは柏木さんの霊体が、そして遠くで1ヶ所が白く光った。


「あっちですね」


 拓真が指差す方を柏木さんも見るが、「そうなの?」と首をひねる。光は死神にしか見えないのだ。


「行きましょう」


 拓真が飛んで行き、柏木さんはそれを追った。




 到着した先は、界隈かいわいでは大きな規模の葬儀場だった。四角く白い建物の一部から白い光が漏れている。


 拓真は光を追い、柏木さんが付いて来る。閉じられている窓をすり抜けて中に入り、その部屋を出たら廊下を進んで階段を降りる。


 着いた先は、いくつかある安置室の一室だった。


 中に入ると濃いお線香の香りが鼻をくすぐり、小さな祭壇の前には白木で造られた箱型の棺が大きな台に置かれ光っている。


 柏木さんの身体はすでに納棺されていた。しかし上から見ると窓が開かれていて、目を閉じた柏木さんのお顔を見ることができた。


 そしてひとりの年老いた女性が椅子に掛け、紫色のハンカチを手に棺に寄り添っていた。


「……中田さん?」


 柏木さんが驚いた様に声を漏らす。


「お知り合いですか?」


「俺を育ててくれた家政婦だよ。なんでこんな時間にこんなところに」


 中田さんはゆっくりと顔を上げて祭壇を見る。涙で濡れたその顔はすっかりと焦燥しょうそうしていて、刻まれたしわが拓真の目には痛々しく映った。


「まだ、大丈夫ね……」


 中田さんは言って、また視線を棺に移す。そしてはらはらと涙をこぼした。


雅樹まさき坊っちゃま……こんなにお早くこの世を去られるなんて……」


 中田さんは時折詰まりながらそう呟く。


「坊っちゃまに素敵なご家族ができるまで、お側で見守って差し上げたかった……おひとりで逝かれてしまうなんて……」


 中田さんは溢れる涙をハンカチで拭う。そして「ひくっ」と小さくしゃくり上げ、細い腕をそっと伸ばして棺に触れた。


「坊っちゃま、私ねぇ、独り身で子どもがおりませんでしたから、旦那さまと奥さまに坊っちゃまのお世話を言いつかった時には、本当に嬉しかったんですよ。でも私は家政婦という立場でしたからねぇ、おおやけに愛情なんてものをね、出すわけにはいかなくて。そこはね、私がきちんとわきまえないといけませんからねぇ。甘えたい盛りに誰にも甘えられない坊っちゃまを見るのは、本当に辛かったですよ。でも私が甘えさせてあげるわけには行きませんでしたからねぇ……。ああ、そろそろお線香を代えて差し上げないとね」


 中田さんはのろのろと立ち上がると祭壇に近付き、短くなったお線香から新しいお線香に火を移し線香立てに刺した。


 今は2本のお線香から煙がそよいでいるが、間も無く1本になるだろう。


 中田さんはまた椅子に戻ると、「ふふ」と小さく微笑む。


「ああ、でもお食事ぐらいは、こっそりと一緒に食べて差し上げれば良かったかも知れないわねぇ。やっぱりね、おひとりのお食事は味気ないものですからねぇ。せっかくご家族がおられるのにおひとりなんてねぇ……。お側で見ていて悲しくなってしまったものですよ」


 また中田さんの目からほろりと涙が落ち、それをハンカチで押さえた。


「特にお鍋をおひとりでお食べになられるのはねぇ。ひとり鍋なんていうものがあるのは存じてりますけども、やっぱり数人でお召し上がりいただくのが楽しいものだと、中田は思うんですよ。就職もされて、これからそうした楽しいお食事もたくさんされたでしょうにねぇ。……ねぇ、坊っちゃま」


 中田さんは棺越しに柏木さんに優しく語り掛けると、まるであやす様に棺をそっと撫でた。


「坊っちゃまはとてもご聡明そうめいな方でしたから、中田のうるさい話も良く聞いてくださいましたね。本当に良いお方に育ってくださいました。中田は本当はもっと坊っちゃまに、目に見える情を差し上げたかったのですよ。そして今日事故のご一報があった時も、真っ先に病院に駆け付けたかったのですよ。でも奥さまが許してくださらなくて……。お仕事が終わってようやく来ることができました。葬儀場の決まりもありますので寝ずの番はできませんけども、こうして少しでもお側にいることができて、本当に嬉しゅうございます。事故の時は大変痛い思いをされたでしょうけども、今は穏やかなお顔でほっといたしました」


 中田さんはそっと目元を拭うと、柔らかな笑みを浮かべた。


「坊っちゃま、来世はどうか、暖かなご家族の元にお産まれになってくださいましね。中田はそれだけを願っておりますよ。……どうか、安らかにお眠りくださいね」


 その時、安置室のドアが控えめにノックされ静かに開いた。上下黒のスーツを着た若い男性が顔を覗かせ「中田さま」と落ち着いた声を掛ける。葬儀場のスタッフさんだろう。


「申し訳ありませんがお時間です」


「はい。無理を申しまして、申し訳ありませんでした」


 中田さんは言って立ち上がると、スタッフさんに深々と頭を下げた。


「いいえ。ご事情がご事情でしたから」


「本当にありがとうございました。お陰さまで雅樹坊っちゃまと最後のお別れをさせていただくことができました」


「それはようございました」


 スタッフさんは微笑んだ。中田さんはまた頭を下げると、棺の窓から柏木さんの顔を優しい表情で見て静かに囁いた。


「坊っちゃま、ごゆっくりお休みくださいませね」


 中田さんは棺の窓をそっと閉じると、棺に深く一礼し、スタッフさんにも礼をして安置室を出て行った。スタッフさんは祭壇でまだ長いお線香を確認してから部屋を出た。


「……柏木さん」


 中田さんのほんの側で中田さんの語り掛けを聞いていた柏木さんは、とうとうと涙を流していた。


 拭わないのでしずくは落ちて行くのだが、霊体なので下まで届かず途中ですぅと消えてゆく。


「拓真くん、さっき真守まもるくんが「愛情不足で子どもが歪んで育つ」って言ってたよね。俺もそう思うし聞いたこともあるんだけど」


「はい」


「主観だけど、俺が歪まずに育つことができたのは、中田さんの情を受けられたからなんだって思ったよ。物理的には確かに一線を引かれてたけど、俺は中田さんに大事にされていたんだね。中田さんは俺に本当の子どもの様に接したいって思ってくれていたんだ。俺はそれに気付くことができなかったけど、感覚で感じていたのかも知れない。だから俺はあの家でちゃんと大人になれたんだ。俺は、あの家でひとりじゃ無かったんだね」


「はい」


 柏木さんの喜びが溢れるせりふに、拓真はただ短く応える。


 柏木さんの言う通りだと思った。中田さんはその立場でできる限りのことをし、柏木さんはそれを確かに受け取っていたのだ。それはなんと幸いなことなのかと拓真は思う。


 柏木さんは手の甲で雑に涙を拭った。


「まさか中田さんの心が知れるなんて思わなかった。知れて本当に良かった。俺にはちゃんと思っていてくれる人がいた。それだけでこの短い人生も報われるよな」


「はい」


「もちろん拓真くんと真守くんがしてくれたことも、この人生のご褒美だって思ってる。死んでから幸せだって思うことが起こるんだから不思議なものだね。もう本当に心残りは無いよ」


 柏木さんは棺を見つめる。ふたは閉じられているし窓も閉まっているので、顔すら見ることもできないが、柏木さんは満足げだ。


「拓真くんありがとう。今度こそ行こうか」


「はい。行きましょう」


 拓真は安置室のドアを通り抜け、廊下や階段、窓を通って外に出ると、そのまますぅと上に登って行く。


 柏木さんもしっかりと付いて来る。そして三途の川への扉に着くとそれを開いた。


 扉の中を見て、柏木さんが「暗いね」と呟く。


「はい。これをくぐると三途の川の河原に出ます」


「分かった。じゃあ行くよ。拓真くん本当にありがとう。真守くんにもよろしく伝えてね」


「はい。伝えます」


「じゃあね」


「はい。できれば少しでもゆっくり休んでくださいね」


「うん。ありがとう」


 柏木さんは爽やかな笑顔で軽く手を振ると、ためらいも無く扉に入って行った。すると扉は自動的に閉じられる。


 見送った拓真が死神手帳を見ると、柏木さんの項目が消えて行き、ひとつ下の人が繰り上がった。


「無事着いたな」


 拓真は一安心したら手帳を閉じてボトムのポケットに突っ込むと、地上に向かって下って行った。

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