未成年(仮)

さとぼん

第1話

子母沢寛文学賞


          *


 修二、修二―。

 誰かが自分の名を呼んでいる。冷えた部屋の中で、修二は蒲団から顔だけ出して明かりのついた襖の向こうを細目で見た。明子が食卓の前で何かしている。きっと飯の支度をしているのだ。

 修二はスマホの時間を見た。時刻は午前零時を少しまわったところだった。さっき眠ったばかりなのにもう? そう思った。疲れがたまっているせいか、至福の時間はあっという間に過ぎていった。修二は再び蒲団のなかに潜り込んだ。潜り込むとすぐに「遅刻するよ!」と明子の呼ぶ声がした。修二は止む無く鉛のように重たくなった体を起こした。

 体の節々が病んだ。仕事先は二十四時間営業のスーパーで、連日砂糖や塩の詰まった袋を持たされ、修二の肉体は悲鳴をあげていた。昼間は昼間でビルの清掃員として身を酷使していたため、修二の体が十分に休まることはなかった。修二は蒲団の上で、痛む首や肩をまわし、深く息を吐いた。

 居間に来ると、食卓には握り飯が二つ並んでいた。握り飯は修二たっての要望だった。起きてすぐにあれこれ食べられないし、出勤前は時間が無い。飯に充てる時間は出来るだけ睡眠時間に割きたかった。そこで修二は明子に握り飯を申し入れた。握り飯は食べやすくて腹持ちもよかった。明子の気分や調子によっては菓子パンやバナナなどの日もあったが、起きてきて握り飯がテーブルに並んであるのをみると、修二の顔は自然とほころんだ。

 洗面所で歯を磨いていると段々と目が覚めてきて、修二は先ほど自分の名を呼んだのが実は死んだ母だったような気がしてきた。母は昨年夏に死んだ。肺癌だった。最初熱が出たとき肺炎だと医者に言われ、母は言われるがままに肺炎の治療を受けた。しばらく注射を打ったり薬を飲んだりしていたが、一向に熱は下がらず、他の病院を数件回って最後に診てもらった国立の病院で、初めて癌だということがわかった。母はもはや手遅れ(いわゆる末期)だった。

 母は宣告を受けてから僅か一か月で逝った。葬儀を終え、初七日や四十九日、一周忌などの法要が過ぎていくうちに、修二のなかにあった母への様々な負の感情も少しずつ和らいでいき、最近ではすっかり母のいない日常のなかに埋没しきっていた。多忙のせいもあったろう、睡眠も碌にとれない生活の過酷さは故人を偲ぶ時間をも奪い去った。そんなさなか、修二は母の声を聞いたのだった。

 洗面所を出ると先ほどの握り飯はいつもの小さい巾着袋に入れられテーブルの上にあがっていた。その傍らには麦茶の入った魔法瓶と蜜柑が一つ。明子はソファに座り、テレビの天気予報を眺めていた。

 「修二が帰ってくる頃には大雪だよ多分」

 明子は食卓の蜜柑を手に取った。最近食欲がすっかり無くなったらしく、こうして箱買いした蜜柑ばかりを摘まんでは食べている。妊娠がわかったのはつい二週間前のことだった。医者の話によれば今妊娠二か月の段階にあるという。

 「何時くらいになる?」

 「まあいつも通りなら、六時にはあがれるんじゃないか」

 「道路、滑るみたいだから気を付けてね」

 「うん。なあ明子」

 「うん?」

 「さっき、俺母さんの声聞いたんだよ」

 「うそ。さっきっていつ?」

 「寝てるときだよ」

 「寝てるときなら夢じゃないの」

 「いや、今日俺母さんに起こされたんだ」

 「起こしたのは私だよ」

 「でもあれは母さんの声だった」

 「……」

 「──寝てる人を起こすみたいに静かな声だった」

 「そう。お母さん修二のこと、まだ心配なのよ。生前もそうだったじゃない。忘れ物はないかとか、何かあったら電話しなさいだとか、ごはんはちゃんと食べてるのかとか、いつまで経っても子供扱いで。でもお母さんの言うことも一理あると思う。そろそろしっかりしなきゃダメだよ。私たちももう親になるんだから」

 「行ってくる」

 「うん。運転気をつけてね。大雪みたいだから。私多分寝てると思う。家着いたら起こしてくれていいから」

 玄関に向かう修二。その後ろ姿を見て、怪訝に思った明子が再び修二に声をかけた。

 「修二、それ、何?」

 「握り飯じゃないか」

 「巾着袋じゃなくて、そのタオルに包んであるの」

 「ああ。これか。リンゴの皮を剥くんだ」

 「そんな仕事もあるの?」

 「休憩時間に食べるのにさ。一日一個のりんごは医者を遠ざけるだなんて言うだろ? 明子にも買ってきてやるよ。最近安いんだ」


         *



 アパートを出ると綿のような柔らかな雪が修二の眼前を漂った。穏やかに舞う雪のせいで時がゆったりと流れているように感じられた。

 路面は真っ白だった、車のフロントガラスにも僅かながら雪は積もっていた。修二はエンジンを掛け、車の雪を落としながら車内が暖まるのを待った。

 辺りはしんと静まり返っていた。あまりに静かだったので、修二は車のエンジン音が気になり、まだほとんど暖まっていないのにもかかわらずそそくさと車に乗り込んだ。

 車内ではサイモンとガーファンクルの曲がかかっていた。それは子供の頃よく父が車でかけていた曲だった。同じものを先日中古ショップで見つけて買い、最近ではカーステレオに入れっぱなしにしていた。

 →ボタンを数回押して曲を送る。まだ修二が十五やそこらの頃、父がよく車でかけていた「冬の散歩道」という名の曲だ。この曲を聞くと、修二はきまって父親のことを思い出した。

 修二の父は厳しい人だった。それゆえ弱い修二を詰ることも多々あった。母は修二が優しい子だからそうなのだと父を宥めた。だが父は息子の弱さを許さなかった。

 修二がまだ幼かった頃、駄々をこね、いつまでたっても泣き止まないことに痺れを切らした父が、家の裏の藪の中に修二を投げ飛ばしたことがあった。その薮は幼子ではとてもひとりでは出てこられないような所だった。修二は半日もの間、そこで助けを待たなければならなかった。

 すっかり日も落ちた頃、誰かが藪の中に割って入ってくる音がした。それは修二の母だった。母は修二を見つけると、泣きながら修二を抱きしめた。修二も母親にすがり、嗚咽するだけ泣きじゃくった。

 そんな厳しさのある父親だったが、修二に憎む気持ちは全くなかった。むしろ腹の底では強く父を慕っていた。父は修二に厳しく当たることもあったが、一方で息子を憐れみ切なく笑うこともあった。修二は父の、子に対する憐憫の眼差しに触れ、そこから父なりの愛情を感じとっていた。


 修二は父を思い出すと噎び泣いた。そうして運転席のシートを倒し、背もたれに体を沈めると、明子が用意してくれた茶を少しだけ口に含んだ。

 もう限界だ。

 修二は声を漏らした。最近では薬の量も増えていた。ブロナンセリン、ランドセン、ラモトリギン、サイレース、レスリン、アビリット、ドグマチール、レキソタン。これら精神科の薬を、医者の処方通りに飲んでいたのではもう平生を保つことなどできなくなっていた。体質のせいか耐性ができてしまったためか、飲むどの薬もほとんど修二の気休めにしかならなかった。

 修二は追い込まれていた。追い込まれると追い込まれた分だけ、修二は何かにすがりたくなった。修二は他人にも親の眼差しを求めた。自分の弱さを包み込んでくれるそんな眼差しを欲した。だが父と母以外にそんな眼差しが向けられるはずもなかった。

 職場の上司や同僚は皆修二に厳しくあたった。それは暴力的といっていいほどだった。 明子もかたちは違えど修二に対して厳しくあたった。その厳しさは父のものとはまったく別種の性質のものだった。そこには人間味も情も何もなかった。ただ機械のように冷たかった。明子は強くなること、ないしは今よりももっとずっと親らしくなること、具体的にはしっかり稼ぎ、一家の大黒柱になること等を修二に請うた。その要請は腹の子が大きくなる度ごとに強くなった。

 出勤の時刻が差し迫っていた。修二は←ボタンを押し、改めてトラックを例の曲に戻した。修二は涙を拭った。もう一度父親を思い、弱い自分を戒めた。手を合わせ、母に祈りを捧げると、修二は震える手でポケットから薬を取り出した。既定量の何倍もの薬を茶で一気に流し込むと、意を決し、修二はギアをドライブにいれた。


          *


 事務所へと続く階段を上る。事務所から声がしてくる。既に夜勤のメンバーの大半が事務所に揃っているらしい。

 修二は無言で事務所のドアを開けた。端末に出勤の打刻をしているもの、エプロンを身に着けているもの、ロッカーに私物を仕舞っているもの、お喋りに興じているもの、自販機で飲み物を買っているもの、修二はそれら目の前に広がる光景をぼんやりと眺めた。網膜こそこうした眼前の光景を捉えてはいたが、修二の頭脳はほとんど認識出来ていなかった。

 彼らはドアの前に立つ修二に気が付くと奇異の眼差しを向けた。やや間を置いてから、ひとりの男が「挨拶も出来ねえのか」と呟いた。他のもうひとりが「最近の若い奴は」と言い、続いて誰かが笑い、それにつられて事務所にいる他の連中が笑った。

 後ろから邪魔だという声がした。修二は振り返った。先輩の藤本だった。修二はぼやけた思考が一気に冴えわたるのを感じた。修二に肩をぶつけ、周りの同僚に黙礼しながら向こうに行く藤本の後頭部を、修二はじっと見つめた。

 藤本は先月修二がこのスーパーに入社してきた当初から目をつけていた。口数の少ないこと、受け答えがスムーズにいかないこと、おどおどした表情で他人の顔を盗み見ること等が藤本の気に障った。藤本は今年四十六で、修二とはひと回りほど違った。

 藤本の修二に対する態度は常軌を逸していた。藤本は修二をいびった。仕事の手順もろくに教えなかった。藤本はけして夜勤帯の責任者ではなかったし社員でさえなかったが、いつしか藤本は夜勤帯のお目付け役のような役割を担うようになっていた。そしてそれを周りの連中も追認しているらしかった。藤本は恰幅がよく、眼光も鋭かったので、修二は初手からこの男を恐れていた。

 「おい新人、段取りな」藤本はわざと声を低めて修二を威圧した。修二はエプロンに腕を通し、インカムを体に取り付けながら、藤本の声のする方に顔を向けた。するとすかさず「返事は」という声が飛んできた。修二は反射的に「はい」と返事をした。

 「段取りしとけよ。いいか、二十分でやれ」


 修二はひとり事務所の階段を下りた。それから突当りを右に折れ、食品が山積みになっている倉庫に向かった。段取りというのは台車に砂糖や塩を積む作業のことで、今ではすっかりこの仕事は修二専属のものとなっていた。砂糖も塩も一袋あたり二十キロで、それを台車に積めるだけ積んでいく。どれだけ急いでも一時間以上はかかる作業だった。たしかに修二は作業が遅かった。疲れが溜まっている最近は殊に遅かった。藤本の言うように「二十分で」こなすことは不可能だった。こんなふうにして藤本は毎度修二に無理難題を何かしら突きつけるのだった。

 修二は機械的に作業を始めた。機械的にやる他なかった。何も考えず、何も思わずただ機械のように動く。それだけがこの苦痛な時間をやり過ごす唯一の方法だった。

 修二は塩の袋を掴んだ。腕に痺れがはしった。二十キロなど大した重さではなかった。それなのに塩は全然持ち上がらなかった。薬の効き目のせいで体の感覚が損なわれているらしかった。

 眠気に屈しそうになった。目を閉じると一瞬だけ記憶が飛んだ。野原が見えた。そして犬がいた。子供の頃修二が飼っていた柴犬のソラだ。その数メートル先には修二の父もいる。ソラにはリードが付いていない。ソラはあちこち自由に走り回っている。ハッハッと息を弾ませ修二の周りをぐるぐると回り父の方へ行く。それを何度も何度も繰り返している。

 父はポケットからボールを取り出す。ボールを向こう側へ放り投げる。ソラがそれを拾いに駆け出す。ソラがボールを父の元に届ける。また投げろと言わんばかりに父の前にお座りして尻尾を振っている。父がボールを拾う。また向こうへ放り投げる。ソラが駆け出す。

 ──インカムで誰かが修二を呼ぶ。

 「新人。おい新人。聞こえねえのか」修二はその声で我に返る。見ると、塩はまだ二袋しか積んでいなかった。修二は自分が呼ばれたことに気がついて、呂律の回らぬ状態で返事をした。「ついでだから砂糖もやっとけ」ということだった。

 倉庫のシャッターを上げ外に出る。砂糖の載ったパレットを探す修二。雪が降っている。修二が家を出た後もずっと雪は降っていたらしく、建物の外に足を一歩踏み出すと、修二の靴から作業ズボンの裾までがすっぽりと雪の中に埋まるほどだった。

 修二は砂糖の載ったパレットを探した。いつもの場所にはただパレットが積んであるだけで何一つ荷物は無かった。他の場所は雪が積もっていて、どこに何があるかもはや見当のつけようがなかった。それでも修二は闇雲に雪を掃いながら砂糖を探した。そのときまた母の声が聞こえてきた。修二はインカムのイヤホンを強く耳に押し当てた。だがそれはインカムを通してではなく、倉庫の外から聞こえているらしかった。今度ははっきりと声が聞こえてきた。声の主は間違いなく母だった。

 「──ゆっくりでいいからね。ゆっくり、ゆっくり」

 修二はその声のするところまで歩いていった。建物の換気口の向こうから声は聞こえた。母の他に誰かいる。

 「焦らないで」

 隙間を覗く修二。だが暗くて中は見えない。修二はポケットからスマホを取り出し、ライトをつけて隙間の向こうを照らしてみる。

 誰かいる。姿こそはっきりしないが声で母とわかる。

 目を凝らすと、母と手を繋いだ幼子が階段を降りている。鼠色したコンクリ―トの階段を一歩一歩、躓いて転げ落ちないように注意しながら降りている。

 階段はひんやりとして冷たい。触れなくてもそうとわかる。それは修二がまだ小学生にも満たない子供の頃住んでいた団地の階段だったから。修二にはひとりで降りて、幾度となくこの階段を転げ落ちた。だから母は階段を降りる際には必ず手を差し伸べた。それは修二が大きくなっても変わらなかった。

 階段を一段降る度に、母のかさついた手はぎゅっと固くなった。よく躓いた修二も母がいれば大丈夫。修二は母の手を離さない。小学校に上がっても中学校に上がっても、高校を卒業しても社会人になっても。いつまでも、どこにいたってずっと一緒だった。

 ずっと一緒のはずだった。

 修二がじっとその様を見つめていると、誰かが修二の肩を叩いた。修二はスマホをそのまま相手の顔に向けた。

 「どうしたんです」

 声を掛けてきた男は警察官のような風貌だった。四十くらいの、人の良さそうな男だった。おそらく警備の人だろう。

 「いや、この中から声が」

 警備員はしゃがんで換気口の中を照らした。そうして「猫じゃないんですか」と言って笑った。修二は警備員の顔を黙って見つめた。見慣れない人だった。修二は頭を下げた。何も問題ないことがわかると、警備員は再び巡回のために歩いて行った。


         *


 朦朧とする意識の中、修二は塩を積む作業に再度取り掛かった。もはや無意識だった。何も考えられない。ただ盲目的に塩を積む修二。最初はひとつ塩を積むのも難儀だったが、今は腕の痺れさえ感じない。

 ただ、どういうわけか耳だけは確かだった。聴覚だけが外部との唯一のよすがとなり、その信号によって修二のなけなしの頭脳は機能していた。そのためインカムを通じて交わされるやりとりの相手方が、自分のものなのかあるいは他人のものなのかの区別が修二には出来た。

 「藤本さん、ちょっとこっち来れます?」「お客さんに聞かれたんですけど向日葵の種って在庫まだありますかね」「レジ応援お願いします」「サービスカウンターでチャージの客様がお待ちです」「雑貨担当の方、すみませんが雑貨コーナーまで来ていただけますか」「社員さん、社員さんまだいますかー?」「会計機トラブルがあったのでどなたか──」など、修二はそれら他人のものはすべて聞き流すことができた。

 他方、修二が拾ったインカムの声、たとえば「お前いつ辞めるんだよ」「生きてんのお前。死んだ魚みたいな目してるけど」「お前見てるとイライラしてくんだよなあマジで」「キモイんだよ。何なんだよ。そんな目で見るんじゃねえよ」「仕事遅すぎです。本当に迷惑です」「お前イジメにあってるとか思ってるのかもしれねえけど、何回言ってもわかんねえからこっちの言い方もきつくなってんだからな。勘違いすんなよ」「我々も人間だからね。我慢にも限界がある」「死ねやクズ」云々、こうした罵詈雑言が聞こえてくると、修二は我慢ができなくなってインカムを外すのだった。やはり先日、このことが社員の耳に入って修二は上から注意を受けた。修二は責任者に弁解した。「インカムでの誹謗中傷をどうにかしてほしい」打診を受けた責任者はその調査にあたった。だが実際インカムを通じての誹謗中傷は確認出来なかった。

 そのことがある日藤本の耳に入った。藤本は激怒した。藤本は修二を呼び出し叱責した。一体どういうつもりなのかと。それ以降修二に対する苛烈さはさらに増した。

 イヤホンから声がする。「おい新人」それは藤本の声だった。修二が答えるよりも先に藤本が続けて「段取りは終わったのか」と聞いてきた。修二は黙っていた。沈黙の後「終わってねえのか」と、やや怒りの調子を帯びた藤本の声が聞こえた。修二は答えられなかった。実際まだ終わっていなかったし、終わる目処さえついていなかった。修二の耳にはたしかに藤本の声は届いていた。意味も理解できた。ただ答えられなかった。修二はうず高く積まれた目の前の塩を見つめた。パレットに積まれたままの未着手の塩はまだ無数にあった。のみならず、砂糖に関しては一切手つかずのままだった。

 鼓動が早鐘を打った。嫌な汗が腋を伝い、声が出なかった。何か言わなければ。修二はインカムの出力ボタンを押した。だがやはり声は出ない。インカムがサーという機械音だけを発している。修二がその場でどぎまぎしていると、藤本の怒号が飛んできた。

 「終わったのか、終わってねえのか、どっちなんだ!」

 「はい!」

 藤本が倉庫に来る、修二は確信した。眩暈がする。こういうとき薬は殆ど役に立たない。修二は塩の山に手をつき、パニック状態に陥るのを防ぐべく、必死に深呼吸をして調子を整えた。隠れようか。いや隠れて一体何になる。少しの時間稼ぎにはなるが。やはり謝るべきか。いや今までずっと謝ってきたじゃないか。

 「謝れば済むと思ってやがる」「謝って済むなら警察はいらない」「もう誠意さえ感じられない」「私たちは謝ってほしいんじゃないの。ちゃんと仕事してほしいだけなの」「そう。ちゃんと仕事さえしてくれればなにも文句はないんだから」「足引っ張ってるって自覚、ありますか?」「社員さんアンタに困ってたわよ」「年下の俺が言うのもあれだけど、もう学生じゃないんだし」「ねえ聞いてるの? 口ついてるんでしょ」

 「はい──」

 修二は床に座りこんだ。もう限界だ。どうしてこんなに揶揄貶められなければならないのか。仕事が遅い、それは自分でも分かっている。でも精一杯やっているじゃないか。自分が出来るすべてを出し切っている。それなのに、どうして誰もわかってくれないのか。塩に凭れかかる修二。また声がする。

 「仕事は結果がすべてだから」「どれだけアンタが人間として終わっていても、ちゃんとやることやってたら誰も何も言わないんだよ!」「子供出来たんだって? やることだけはやってるんだな」「やることってそっち? お前、やることってそっちじゃないからね」そして大勢の人間の笑い声が聞こえる。

 「おい」という野太い声がする。修二は顔をあげた。藤本だった。あれほど様々な声が修二の耳に聞こえていたが、藤本以外には誰もおらず、倉庫はしんと静まり返っていた。藤本は言った。「手伝ってやるから。まず立ちな」修二はポケットに手を突っ込んだ。藤本が何か喋っている。もう耳に何も届かない。修二は包んであったタオルをポケットの中で解いた。それはナイフだった。立ち上がると、修二はひと思いに藤本の腹を突き刺した。ナイフはあっさり藤本のエプロンと作業着を貫いた。藤本は修二を睨みつけた。何か言おうと口をぱくぱくさせている。だが言葉にはならず、藤本は白目を剥いて膝からがっくりと崩れ落ちた。

 修二は藤本を見下ろした。藤本が動かなくなるのを確認すると、修二は狂ったようにナイフを振り下ろした。刺して刺して、藤本の青色の作業着が血で紫色に染まるまで、修二はひたすらナイフを振り翳した。


         *


 今まで何度も遺書を書いてきた。それでも遂げられなかった。どういうわけか遺書を書くと、書いたことで気持ちは収まった。だから修二は遂げないために、踏みとどまるために遺書を書いてきた。

 遺書には親のことを書いた。専ら父に書いた。父とはもう十年くらい会っていない。父は母と離婚した後、この町を出てどこか遠くに行ったという話を修二は父方の親類から聞いていた。

 修二は遺書に父への謝辞を率直に記した。それから明子について、生まれてくる子供について書いた。今までそういった遺書を何通も書いては捨ててきた。今回遺書は書かなかった。書くと決意が揺らぐことがわかっていたから、遺書は書かなかった。

 スマホの時計を見る。時刻は午前零時四十分。修二はカーステレオの音量を絞った。サイモンとガーファンクルの「明日に架ける橋」が掛っていた。修二はふと思い立って父親に電話しようと、スマホの電話帳を開いた。ほとんど「衝動的」といってよかった。真夜中だし出るはずもないが。だいたいもう何年も前の父親の電話番号だ。恐らく既に電話番号は変わっている。変わっていなかったにせよ、一体誰がこんな時間に掛けてくる電話に出るというのか。

 修二はそれでも気持ちが抑えられず、スマホの発信ボタンを押した。しばらくぷつりぷつりと何かが切れるような音がした後、電話は呼出音に変わった。修二は呼出音を数えた。

 一回、二回、三回、四回──。やはり電話には誰も出ない。それから間もなく電話が留守番電話に切り替わり、留守電サービスのアナウンスが聞こえてきた。

 「ピーという発信音の後──」

 修二が諦めかけたそのときだった。電話は再び通常の通話状態に戻り、受話口から生身の人間の声がした。

 「もしもし」

 声の主は低くくぐもった男の声だった。修二の手は震えた。何年も聞いていなくても、修二にはその声の主が父だとすぐにわかった。

 「もしもし」

 父が催促するかのように、多少の切迫感をもって再度相手方を促した。だが修二は声が出なかった。吐き出しきれぬほどの巨大な塊が、喉の奥から押し寄せてくるみたいだった。修二は嗚咽し、嗚咽が言葉を阻んだ。

 「修二、修二なのか」

 修二は電話を切った。そうしてスマホを助手席に放り、顔を覆って泣き崩れた。

 子供の頃、父は仕事に出るとき必ず「何かあったら電話しろと」と言った。修二はそのことを思い出していた。もっと早く電話すればよかったと、そう思わずにはいられなかった。

 もう何もかもが手遅れだった。自分は人を殺めた。仕事も、何もかもを失った。明子は犯罪者の妻になった。生まれてくるであろう子供も一生殺人犯の子として虐げられるはずだ。もうすべてに蹴りがついた。もういいのだ。すべて最初から望んでいたことじゃないか。

 修二は吐き気を催し買い物袋に嘔吐した。どうせならもっと薬を飲んでおけばよかった。量が中途半端だったせいか、矢鱈と吐き気がきた。

 修二は口が拭える何か布のようなものを求めて車内を見回した。あいにく車内にはそれらしいものは何もなかった。修二は自分の作業ズボンのポケットに手を突っ込んだ。ポケットの中にはタオルに包まれた例のナイフが入っていた。修二はそれを取り出した。ナイフはタオルにきれいに包んであった。修二は首を傾げた。犯行後ナイフを包んだ記憶がなかった。修二はタオルを解いた。ナイフには藤本の血は付いておらず、家から持ち出した状態のままだった。修二はまた催した。堪えられず、そのままナイフの上にもう一度嘔吐した。

 修二は何度も嘔吐した。もう内容物など胃にはなにもなくて、ただ体液だけを絞りだしているような感じだった。早く楽になりたかった。自分が生んだ因果、責任、しがらみ、桎梏から一刻も早く自由になりたかった。

 修二はギアを入れ、アクセルを踏み込んだ。幸いにして周りに車はなかった。アクセルを強く踏むとエンジンは唸り声をあげた。

 直進をしばらく走るとガードレールが見えてきた。助手席で電話が鳴った。もはや修二に電話をとる余裕などなかった。目の前にガードレールが迫ってきている。その向こうには雪を被った木々が立っている。修二はアクセルペダルをさらに強く踏み込んだ。限界まで、もうこれ以上にないほど強く踏み込んだ。

 眼前には聳え立つガードレール。歯を食いしばる修二。口の中が鉄の味で酸っぱい。

 衝撃に備えて目を閉じる。目を閉じても強烈な閃光は修二の目の奥底を貫いた。それは今まで見たどの光よりも眩しかった。

 光の中で、赤ん坊を抱く母の姿を見た。


【了】

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未成年(仮) さとぼん @sosu_2027

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