6.急転

「それで、浅水芳枝さんは、帰されたんですね」

智子は、秋山さんに、もう一度尋ねた。


安藤先生が、絞殺体で発見された。


芳枝さんと不仲になって以来、別居していた。

安藤先生は、マンションを借りていた。

第一発見者は、マンションを訪れた浅水芳枝さんだった。

検死の結果、死後二日くらいだった。

安藤先生が、芳枝さんと会う約束になっていた日だ。

芳枝さんが、マンションを訪れた時には、亡くなっていたと思われる。


安藤先生は、先月末で浅水病院を辞めた。

この十二月中に栗林市へ引っ越す事になっていた。

来年、一月から栗林市の岡西病院の外科部長に就く筈だった。

それまでに、芳枝さんは、旭寺山の廃墟になっている保養所の土地、建物の所有権について解決したかった。


「どうして、そんな廃墟になった保養所を購入したんですかね」

智子は、不思議に思った。


市内の目抜通りならまだしも、景色だけは綺麗なのかもしれないが、辺鄙な海辺の保養所にどんな価値があるのか。


理由は、何年も前から、旭寺山の海岸線に、西から続く臨海道路の計画がある。

日の出町のフェリー通りまで、臨海道路が開通すれば、地価は上がると思ったようだ。

つまり、投資目的だった。

ただ、臨海道路敷設計画は、未だに、計画のままで、着工の見通しは立っていない。


浅水芳枝さんは、いつまでも保養所を放置している訳にも、いかないので、処分しようとしている。


安藤先生は、芳枝さんと結婚してから、浅水病院の経営を主導していた。色々な事業に手を出していた。

その一つに、浅水病院の資金で取得した旭寺山の保養所があった。

ところが、保養所の土地と建物を安藤先生の名義にしていた。

それで、浅水芳枝さんと安藤先生の間でトラブルになっていた。


しかし、安藤先生を警察は、張り込んでいた。


「何故、安藤先生を張り込んでいたのですか」

智子は、そう云ってから、ふと、思い出した。


多田が、売掛入金を返金した。

返金した現金を安藤先生が持ち出した事がある。

警察は、多田と木崎の殺人事件に何か関係していると思ったのだ。


安藤先生は、殺害される前日まで、毎日、外出していた。

出掛ける時間も、帰宅時間も、まちまちだった。

行き先は、大抵、栗林の岡西病院か、飲食店での外食だった。


殺害されたと推定された日。

午前十一時頃

浅水病院の元事務員が訪問。

安藤先生の不正に加担、または、黙認していた。

自己都合で退職する事で、病院側と合意した。

元事務員は、安藤先生と会えたそうだ。

栗林の岡西病院への就職を頼んでいた。

確約はされなかった。

四十分後、部屋を出た。


午後四時半頃

浅水病院の若い看護師。

不倫の噂になっていた看護師だ。

不倫は、本当だった。

この看護師も、栗林岡西病院へ転職したいと頼んでいた。

こちらは、約束できた。

三十分後、部屋を出た。


午後五時頃。

野上事務長が訪問した。

病院へ置いている、安藤先生のラップトップパソコンを持って来るように云われていた。

しかし、野上事務長は、安藤先生と会えなかった。

野上事務長は、パソコンを持ち戻った。

パソコンは、病院の備品だった。


午後五時十分頃

山下部長が訪問した。

山下部長は、毎日のように訪問していた。

毎日、山下部長は、安藤先生に不正を質していた。

だが、留守で会えなかった。


野上事務長が、パソコンを持って、部屋まで戻って来た。

山下部長を駐車場で見掛けたからだ。

山下部長が、安藤先生は、留守で会えなかったと伝えた。

山下部長と野上事務長は、一緒に駐車場へ出て、別々に、車で病院へ戻った。


午後六時頃

浅水芳枝さんが訪問した。

部屋からの応答は、無かった。

そのまま、帰った。


午後四時半から午後五時半頃と犯行時刻が絞られた。


「よく、そんな情報、教えてもらえましたね」

智子が感心したように云った。

「ヤッシの捜査に協力すると持ち掛けたんや」

秋山さんが云った。

ヤッシとは、秋山さんの高校時代の同級生で刑事の林さんだ。

「捜査協力?って、どんな」

あっ。智子は、広瀬さんの立ち寄り先の事だと気付いた。

「けど、関わるなって、云われていたんじゃなかったですか」

警察は、広瀬さんを疑っていた。

多田と木崎の殺人事件に、何らかの関係を持っていると思っていた。


秋山さんが、広瀬さんを見失った経緯を説明した。

広瀬さんは、十一月末日に、退職する事になっていた。

それまでは、有給休暇を三日残して、最後まで出勤予定だった。


退職日の前日、看護師二人と事務員と四人で、外へ昼食に出掛けた。

広瀬さんは、外へ昼食に出掛ける事は、一度も無かった。

しかし、その日は、誘われて出掛けた。

ささやかな、送別会だったそうだ。


昼休みが終わって、その店から出てきたのは三人だった。

広瀬さんは居なかった。

その三人に声を掛け、広瀬さんの居所を確認した。


広瀬さんは、途中で、ある人と待ち合わせをしていると云った。

店舗奥の出入口から、商業施設内に入って行った。

事務課長に、当日の早退届と翌日の有給休暇届を提出していた。


刑事が慌てて、店内に入った。

商業施設の一階で奥は、テナントの店舗街になっている。

商業施設の防犯カメラを確認した。

施設の北出入口から外へ出ている。

駐車場を横切って道路へ出ると東方面へ歩いて行った。

防犯カメラで確認できたのは、ここまでだった。

それ以降、行方が分からない。


つまり、誰かに連れ去られた訳ではない。

人が大勢いる商業施設で、連れ去られる筈がない。

そんな映像も、確認していない。

広瀬さんは、自身の意思で行方を眩ませた事になる。

広瀬さんは、知人と待ち合わせしていると云った。

本当に、待ち合わせしていたとしたら、安藤先生の可能性が高い。

ところが、安藤先生は、その日、その商業施設へ出掛けていない。


警察は、早くから、広瀬さんに注目して、張り込んでいた。

「それは、以前、広瀬さんが、安藤先生の不倫相手だったからや」

智子は、やはり、そういう事かと思った。

想像した通りだった。

早原さんは、ひき逃げ事故死だった。

解決したのは、この事件だけだ。

木崎の殺人事件、多田の殺人事件、いずれも未解決だ。

更に、張り込んでいた広瀬さんを見失った。

張り込んでいた安藤先生も、殺害された。

警察は大失態に、焦っている。


どうしても、広瀬さんを見付け出さないといけない。

だから、秋山さんに情報提供を要請したのだろう。

「秋山さん、何か手掛かりはあるんですか」

智子は、不安だった。

「無い」

秋山さんは、云い切った。

「どうするんですか」

智子は少し不安げに尋ねた。

「浅水病院の情報屋と云ったら」

秋山さんが云った。

「三崎課長」智子は、答えて「でも」疑問だった。

広瀬さんの消息が、分からなくなった時、三崎課長は、驚いていた。

三崎課長は、広瀬さんから、浅水病院の情報を得ていたが、広瀬さん自身の情報は、握っていなかった。

「でも、広瀬さんには、他に頼れる人が、居らんやろ。実家にも帰っとらんし」

秋山さんが云った。

広瀬さんの行方が分からなくなった時に、安藤先生は生きていた。

だから、広瀬さんに、何らかのトラブルが発生すれば、安藤先生に相談をする筈だ。

安藤先生が殺された以上、今、頼れる人は、三崎課長が一番有力だ。

「秋山さん。広瀬さんは、警察にマークされている事を知っていたんですか」

智子は、不思議だった。

捜査のプロが、張り込んでいたのをどうして、察知できたのか。


広瀬さんは、安藤先生から警察にマークされている事を伝えられたのか。


「お待たせ」

三崎課長が来た。

「遅かったですね」

秋山さんは、三崎課長と待ち合わせていた。

「それが、もう、訳が分からんくらい目まぐるしくってなあ」

三崎課長は、呆れたように云った。


浅水病院の支援に「津和木」が乗り出したという事だ。

「津和木」は、地元の大手食品会社で、ホテルやレストランも経営している。

その「津和木」の意向で、浅水病院の院長に浅水芳枝さんが就く事になった。

これは、以前から、象頭山銀行が、画策していた。

山下財務部長は、象頭山銀行から浅水病院へ出向していたが、浅水病院へ転籍が決まった。

「それで、経営改善、するんですか」

智子は、疑問に思った。

「それは、分からん」三崎課長が云った。「でも、梅本薬品や、擂鉢堂への風当たりが、和らぐ事になりそうなんや」

三崎課長が云った。

「どうして?」

秋山さんが尋ねた。

「あの野上事務長が、今月末で退職する事になった」

三崎課長は、少し朗らかに云った。

それもそうだ。

確かに、担当MSが不正をしていたのだから、仕方ないのだが、やたらと目の敵にされていた。

その野上事務長が、病院を辞めるとなったので、ちょっと安心したのだろう。


「広瀬さんから、何か、連絡はありませんか」

秋山さんが、三崎課長に尋ねた。

「いや。無い」

三崎課長は、さっきまでの、晴れやかな表情を曇らせて云った。


もしかすると、広瀬さんは、既に、亡くなっているのかもしれない。

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