9.再会
「トガちゃん。噂、本当やったんやな」
秋山さんが云った。
昨日、合併の発表があった。
今日、既に、秋山さんは擂鉢堂の本社へ来ている。
秋山さんは、「経理規程」と「経理システム操作マニュアル」のフロッピーを持参していた。
智子は、フロッピーを受け取ると、パソコンの、画面を開いて印刷した。
「梅本薬品」と社名の欄は、「新会社」と修正されている。
成程、作業は早い。
修正すべき箇所も、きっちり修正している。
梅本薬品の書類である事が、判明しないように、配慮しているのだと思った。
富樫さんが、秋山さんの事を云っていたのを思い出した。
本当は、優しい人なのかもしれない。
優しさを隠すために、軽い性格を演じているのかもしれない。
秋山さんは、合併発表の当日も、本社に居なかったそうだ。
百々津営業所に詰めていた。
いつもの会議室で、三崎課長を監禁していた。
いったい、何時、この社名を修正したフロッピーを準備したのだろう。
誰か作業を補助しているのか。
組織図上、経理部資料課に何名配属されているのか分からない。
秋山さんの説明では、秋山さん一人だ。
経営企画課の下請けが、主な仕事だと聞いている。
それも、極秘の仕事ばかりだそうだ。
作業の性格上、秋山さんに、下請けは、居ないのだろう。
何だか、孤独な人だなと思った。
合併発表の当日も、百々津営業所の会議室に居たのだ。
三崎課長は、そこの会議室で梅本薬品と擂鉢堂の合併を知った。
梅本薬品と擂鉢堂が合併すると、浅水病院との取引が再開されるかもしれないと喜んでいた。
秋山さんは、合併すると梅本薬品共々、擂鉢堂も取引停止になるかもしれない。と云って心配していた。
これは、秋山さんの本心だと思う。
すると、三崎課長は、安藤外科部長が病院を今月の十一月末で辞めると云った。
十一月一日から末日まで浅水病院には出て来ないそうだ。
栗林の岡西病院へ移るという事だ。
次の外科部長は、まだ決まっていない。
安藤外科部長の奥さん、浅水病院の内科部長は、旧姓の浅水芳枝に戻った。
つまり、離婚したのだ。
これは、噂が本来だったという事だ。
薬品購買責任者が浅水内科部長になったと云った。
秋山さんは、何故、もっと早く報告しなかったのか尋ねた。
三崎課長は、それこそ昨日、つまり十月三十一日に知ったそうだ。
しかし、その日も三崎課長を昼から会議室に監禁していた。
その時は、報告が無かった。
午前中に浅水病院を訪問している筈だ。
唐突に、秋山さんが、クイズを出した。
「トモちゃん。なんでや思う?」
智子は呆れた。
富樫さんでさえ、ふたりで食事に出掛けても、まだ「東さん」としか呼んでいない。
秋山さんは、初対面で、挨拶を交わした直後から、富樫さんを「トガちゃん」と呼んでいた。
智子は、印刷した規程とマニュアルにパンチで穴を開けていた。
「広瀬さん」
少し気に障ったが、クイズに答えた。
秋山さんは、正解とも間違いとも云わなかった。
智子は、疑念を持った。
三崎課長は、広瀬さんと高校時代の同級生だった。と云っていた。
広瀬さんは、独身だと聞いている。
「三崎課長は、結婚してるんですか」
秋山さんに尋ねた。
秋山さんが、三崎課長には、奥さんと二人の子供がいると答えた。
家庭の実情は、当たり前だが、分からない。
本当に、それだけの関係なのか。
合併発表の前日、安藤外科部長の離婚の事も浅水病院を辞める事も知らなかった。
翌日には、その情報を得ていた。
前日の夜にしか、その情報を知り得る機会は無かった。
三崎課長の情報源は、広瀬さんだ。
仕事が終わってから、三崎課長は、広瀬さんに会ったのだろう。
三崎課長は、広瀬さんから夫婦仲が悪いという噂がある事を知った。
秋山さんは、半信半疑だったそうだ。
それにしても、全部、梅本薬品の三崎課長の情報だった。
梅本薬品は、現在、浅水病院と取引停止状態だが、三崎課長は、毎日、訪問している。
営業活動が出来ないから、情報だけでも収集しているらしい。
秋山さんは、そこに期待していたそうだ。
越智課長が、五岳山営業所の竹井MSに直接、電話確認した。
竹井MSは、合併発表の当日、昼過ぎに、浅水病院を訪問して、合併の案内文書を野上事務長に手渡ししている。
その時点では、何ら情報を得られていない。
竹井MSが、夕方に再度、浅水病院を訪問して、事実だと分かった。
「あっ。忘れとった」
秋山さんが、黒いビニールのバッグからフラットファイルを六冊取り出した。
「これは、儂といっしょで、薄っぺらいし、印刷して持って来たんや」
秋山さんは、そう云って「簡易操作マニュアル」を智子に渡した。
「それとなぁ。早原のひき逃げ事故やけど」
秋山さんが、早原のひき逃げ事故の加害者は、浅水病院と無関係だと云った。
秋山さんは、ハヤブサで会合の日に休んで友達と会っていた。
その友達からの情報だ。
ただし、早原は、以前、ひき逃げ事故により死亡した付近で、襲われている。
犯人は、まだ、捕まっていない。
早原を襲った犯人が、浅水病院の関係者かもしれない。
ハヤブサ栗林支社での会合に、欠席した理由は、友達から呼び出されたからだ。
ハヤブサの大野課長が、折角、開いてくれた会合を欠席して、友達と会っていたのだ。
今日、顔を合わせた時に、何か一言あっても良さそうだが、そんな神経は無さそうだ。
智子は、少し秋山さんを見直していたのだが、それは間違いだと思った。
無頓着に、秋山さんが、話しを続ける。
三崎課長の情報。つまり、広瀬さんの情報では、安藤夫妻の夫婦仲が、良くない。
安藤外科部長は、離婚して、浅水病院を辞めて、他の病院へ移る。
ここまでの情報は、正確だった。
もう一つ。
安藤外科部長に、不倫相手の若い看護師がいる。
その看護師に浅水病院を辞めて、別の病院へ移るように求めていた。
しかし、噂になっていた看護師は辞めていない。
少し、情報が歪みかけている。
そして、広瀬さんは、警察にマークされているそうだ。
富樫さんが、広瀬さんを気にしていた。
富樫さんは、小心者だが、いや、だからこそ、勘が鋭いのかもしれない。
「お疲れさまです」
梅本薬品の岩本課長が、経理課のフロアへやって来て挨拶した。
「イワモっさん。すっかり擂鉢堂の社員みたいですね」
秋山さんが揶揄った。
「アッきゃん。お前、名刺、持っとるか」
岩本課長が秋山さんに尋ねた。
「はい。持ってます」
秋山さんは答えた。
「ほんじゃ、何枚かくれ」
焦ったように岩本課長が云った。
「どうするんですか」
富樫さんが尋ねた。
「業務課の皆に、見せるんや」
岩本課長が、妙な事を云った。
「私の名刺ですか。今朝、岩本課長の名刺。渡しましたよね」
秋山さんが、不思議そうに云った。
秋山さんは、昨日、百々津営業所から上司の経理部長に、明日、擂鉢堂本社へ行くと報告した。
秋山さんが帰宅しようとすると、社内放送で、物流課の事務所へ呼び出しがあった。
行ってみると、秋山さん宛ての封筒があった。
栗林物流センターから各営業所の物流課へ移管便が出ている。
各営業所でも、小さな商品保管所や倉庫を持っている。
各営業所で、受注した商品が足りない場合や、品薄の商品を昼便と夜便で補充している。
同時に、書類も移管便で送っている。
その書類の中に、秋山さん宛ての封筒があった。
中を見ると、岩本課長の名刺だった。
擂鉢堂本社に詰めている岩本課長に渡すように、メモが入っていた。
秋山さんは、今朝、岩本課長に名刺を渡した。
業務課の皆に名刺を配って、梅本薬品の電算課長だと云ったが、皆、信じてくれない。
業務課の誰かが、岩本さんは、器用だし、パソコンの知識も豊富だから、自分で作って、騙そうとしていると云い出した。
困った岩本課長は、秋山さんの名刺を見せ、同じ形式だと説明し、信じてもらおうとしているそうだ。
智子は、岩本課長が、まだ、梅本薬品の従業員だと、信じてもらえていない事に驚いた。
そして、また、そんな方法しか思い付かないのかと呆れた。
「イワモっさん。それで信じてもらえると思うのですか」
智子は、つい、秋山さんが岩本課長を呼ぶように云ってしまった。
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