8.異質
「これが登記簿、これが公図」
秋山さんは、二通の書類を見せた。
「安藤光雄。つまり、浅水病院の安藤外科部長なんや」
秋山さんは、そう云ったものの、この後どうしたら良いのか分からないようだ。
それで、富樫さんに相談しているらしい。
秋山さんが、栗林市へ引越した時、世話になった不動産屋さんに依頼して登記簿と公図を取ってもらった。
法務局へ行けば、登記簿も公図も取れると、不動産屋さんから教えてもらったが、そんな事は知っていた。
智子は、擂鉢堂の五岳山営業所へ富樫さんと出張している。
内容は、智子を梅本薬品の経理部資料課の秋山さんを紹介する事だった。
今後、密に連絡を取る事になるという事だった。
五岳山営業所の駐車場で待っていた。
「来た」
富樫さんが云った。
すぐに、車が入って来て、富樫さんの隣に駐車した。
「おはようございます」
富樫さんに会釈して、挨拶したのが、秋山さんだった。
秋山さんは、薄っぺらい手提げ鞄と、分厚いチューブファイルを二冊抱えて車から下りて来た。
「ああ。持とか?」
富樫さんが気を遣って尋ねた。
「ありがとう」
秋山さんが、二冊のファイルを富樫さんに渡した。
「私。持ちます」
慌てて智子は、富樫さんからファイルを抱えるように奪い取った。
駐車場から営業所の玄関まで、かなり遠い。
三人は、営業所の二階、小会議室へ向かった。
部屋に入ると、名刺交換無しに、自己紹介を済ませた。
「お茶、淹れようか」
富樫さんが、秋山さんに、そう云ったので、智子は立ち上がった。
「いや、後で、自販機のカップコーヒーで良いわ」
秋山さんが、そう云うと、ファイルを指差した。
背表紙には「経理規程」「経理マニュアル」と印字テープが貼られていた。
梅本薬品の経理部のマニュアルだ。
智子がファイルを開き、ページを捲ると、社名らしき箇所が全て●に置き換わっていた。
しかも、ちゃんて●も印字している。
秋山さんから、簡単な説明があったが、余りにも簡単過ぎて、良く分からない。
まあ、一通り目を通してください。
と云って、合併準備についての話しは、終った。のか?
秋山さんは、かなり自由に行動できる立場にある。
ただし、それは、合併準備の業務に限っての事だ。
多田の殺人事件に首を突っ込むなと釘を刺されている筈だ。
それなのに、合併準備の打ち合わせは、ものの十分足らず。
あの薄っぺらい手提げ鞄から、いきなり、登記簿やら公図やら引っ張り出して、浅水病院の内情の話しだ。
「秋山さん。鳥飼支社長から深入りするなと、言われませんでしたか」
富樫さんが指摘する前に、智子が躍起になって云った。
それについて、秋山さんから反論があった。
合併は、既に決定している。
販売管理システムも業務システムも経理システムも梅本薬品のシステムを採用する。
そのように、擂鉢堂さんから了承をいただいている。
会計についても、各社で全く違う筈が無い。
簿記さえ知っていれば、特に問題は無い。
合併の会計処理も特に難しい箇所はない。
仮に、問題が生じても、その時に、顧問の会計事務所に相談すれば良い。
鳥飼支社長から、不正事故が起こらない仕組み作りに、注力するよう助言された。
しかし、今回の不正が起こったのは、決してマニュアルに沿って業務を遂行していないからでは無い。
いくら、マニュアルを整備して規則通り処理していても、必ず不正事故は起こり得るし、発見も難しい。
不正が起こらないような、仕組みを考えるのも大切だが、不正が起こった時に、どのように、対処するかが大切だ。
ところが、対処方法にマニュアルなんかは、無い。
不正事故が起こった時に対処する人物の力量による。
そうなると、コツコツと人材を育てるしかない。
秋山さんは、そう云うと、照れたように笑った。
更に秋山さんは、続けた。
越智課長と横田課長は、今回の不正事案と殺人事件への対処を担当するという事だ。
しかし、不正事故について、その処理は、一応、終わっている。
それでは、殺人事件については、どうなのか。
当然、犯人捜しは、警察が捜査している。
だから、課長二人には、それこそ手も足も出ない。
だから、越智課長や横田課長は、本来打ち合わせすべき、給与体系のすり合わせをしている。
トップ人事は、おそらく、既に決まっている。
役員人事は、社長二人で決めるだろう。
部長クラス、課長クラスの人事は、役付役員が決定した段階で決まるだろう。
智子には、秋山さんが、何を考えているのか良く分からない。
秋山さんと会ってから、ずっと思っていた。
飄々としていて、つかみ所がない。
話しをしている時も、良く云えば、ずっと、微笑んでいる。
悪く云えば、ニヤニヤと、にやけている、あるいは、ニタニタとふざけている。
微妙に表現すれば、いつもニコニコ笑っている。
更に、秋山さんの思いは続く。
合併処理が電算課のデータ移行以外、さほど現場では、混乱しないだろう。
「アッきゃん。何で、そこまで殺人事件に拘るんよ」
ぽつんと、富樫さんが尋ねた。
梅本薬品は、今、浅水病院と取引停止状態だ。
今後、もし、梅本薬品が浅水病院と、取引再開になって、もし、何か浅水病院の何かを知った時に、被害者にならないのか。
擂鉢堂さんは、辛うじて取引停止になっていない。
今の擂鉢堂の担当者が、同じように、誰かに殺されないという、保証は無い。
浅水病院に勤めている人を含めて、我々の従業員を守る必要がある。
秋山さんは、とうみても、にやけて話している。
多田さんとは、さほど親しなかったそうだ。
「それでも同期や」
それなりに衝撃的だし、動揺もしていた。
おそらく、横田課長も同じだろうと云った。
よりによって、合併話の最中に殺されるとは。
「もう、こんな事は、二度と、させん」
そう云った時は、何かを我慢するように無表情だった。
もう三人死んでいる。
これで終わるとは、思っていないようだ。
その時は、確かに、秋山さんの不安を自分のものとして感じた。
智子は、首を振った。
確かに、不安ではあるが、何の根拠もない。
智子は、そう秋山さんに伝えた。
「それじゃ。ちょっと行ってみるんな」
秋山さんは、何処かへ誘った。
行き先は、云わずに、さっさと会議室を出て、駐車場へ向かった。
秋山さんは、やはり、飄々と自家用車へ向かい、二人を手招きしている。
智子は、富樫さんとか顔を見合わせて、唖然とした。
ただ智子は、すぐに富樫さんを見て、安心した。
何故だか分かった。
智子は、富樫さんを好きなのは、間違いない。
それは、富樫さんに対する安心感からだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます