7.個室

小さな個室に案内された。

約束は、午後七時だったが、少し早かった。


指定されたお店は、「竜胆」という。

一度、歓迎会を兼ねた親睦会で入った事がある。


しかし、会社のお偉いさん方が、よく利用するという事だったので、以後、一度も利用した事がない。


経理課でよく利用するのは、「坊っち庵」という正真正銘の居酒屋だ。


「竜胆」は、小料理屋さんなのか、洋食屋さんなのか、よく分からない。

表通りに面した入口から入ると洋食屋さんだ。

しかし、お店のすぐ脇を通っている路地へ入って、奥の入口から入ると小料理屋さんになっている。

小料理屋さんの入口から入り、左手を見ると、手前と奥に暖簾が掛かっている。

暖簾越しに洋食屋さんの店内が見える。


つまり、店内で洋食屋さんと小料理屋さんが通路で繋がっている。

暖簾の間の通路の中程にトイレと階段がある。

その階段を二階に上ると小さな宴会場が一部屋と、個室が六部屋並んでいる。

一番奥の部屋に案内された。


四畳半の和室は、濃い緑色の土壁に、焦げ茶色の柱。

地味過ぎる程、落ち着いた雰囲気だ。

入口の戸襖の近くにすわって待ってる。

部屋の奥に床の間がある。

袖壁には丸窓障子がある。

板敷きに小ぶりの皿が飾られている。その右側に、何やら怪しげな、これも小ぶりの壺が飾られている。


暫く、正面の壁に掛かった丸い掛け軸の額を眺めていた。

水墨画に「和」と、何とかと書かれているが読めない。


ぼんやりと眺めていると「入ります」と声がして、富樫さんが入って来た。

「お疲れさまです」互いに挨拶を交わして智子は、安心して微笑んだ。

富樫さんは、智子の隣に膝を組んで座った。

「さっき、越智課長から連絡があって、少し遅れるんよ」

富樫さんが云った。

「後は、越智課長だけなの」

向かいに席が二つ用意されている。

「課長だけやと聞いてたけど」

富樫さんも不思議そうだった。

「もしかして、田所本部長」

智子が思い浮かんだのは。田所本部長だ。

「いや、本部長は、今日、社長と一緒やから」

富樫さんが社長や本部長の購読を何故、知っているのか不思議だった。


午後七時十五分。

「入るよ」と声がして、越智課長が、男の人を先に通して入って来た。


富樫さんは、智子を促して一緒に立ち上がった。

富樫さんは男の人に深々とお辞儀をしている。

智子も富樫に倣って深々とお辞儀をした。

「ああ。 楽にしてください」

男の人は、富樫さんの向かいの席に座った。


越智課長が、男の人の隣に座るのを確認して富樫さんと智子は席に座った。


越智課長が智子を向かいの席に来るように手招きした。


「あっ。いいよ。堅苦しい挨拶は抜きにしましょう」

男の人が手で制して云った。

それでは、と越智課長が智子を紹介した。

「はじめまして、擂鉢堂、経理課の東智子です」

越智課長が紹介した通りに、自己紹介した。

「こちらが、ハヤブサ栗林支社の鳥飼支社長です」

越智課長が緊張して紹介した。


「はじめまして、ハヤブサ栗林支社の鳥飼伸宏です」

鳥飼支社長が智子に向かって自己紹介している。

ハヤブサの支社長と同席するとは、思ってもいなかった。

擂鉢堂のメインメーカーではないが、間違いなく、取引メーカーでは最大手だ。

智子は戸惑った。

何が起こっているのか。

浅水病院の不正に関する事だろうか。


さりげなく、床の間に目を遣った。

富樫さんの様子を見るためだ。

富樫さんは落ち着いている。

それを見て、智子は安心した。

「ビールで良いですか」

鳥飼支社長が、先ず智子にビールを勧めた。

「失礼しました」

智子は、鳥飼支社長の酌を制して徳利を掴もうとした。

「ああ、ごめんなさい。今日は、東さんの接待だから、先ず、東さんから」

鳥飼支社長が、そう云ってビール瓶を差し出した。

仕方ない。

智子は、コップを両手で捧げ持ち、鳥飼支社長の酌を受けた。


続いて、富樫さんのコップにビールを注いだ。

越智課長が徳利を傾け、鳥飼支社長の盃に酌をした。

智子は、向かいの越智課長の盃に酌をした。

軽く目の高さに捧げて飲んだ。


「もう、後は手酌でいきましょう」

鳥飼支社長がそう云って、刺身に箸を付けた。


「実は、東さん。今日、来ていただいたのは、擂鉢堂さんと梅本薬品さんの合併が進んでいるという、お話しです」

鳥飼支社長がそう云った。

随分と単刀直入だ。


もう、ハヤブサの支社長と同席するという事だけで、充分、驚きだった。


だから、合併の話しを聞いても驚かなかった。

経理マニュアルの点検も合併のためだった。


既に、越智課長と富樫さんは、合併準備作業に入っている。


考えてみれば、富樫さんは鳥飼支社長に自己紹介をしていない。

既に、鳥飼支社長と富樫さんは、顔見知りに違いない。


「富樫さん。秋山さんの手綱を引き締めないと、何やら危ない方向に向かってしまいそうですよ」

鳥飼支社長は、秋山が栗林支社を訪れて、鳥飼支社長に面会の申し入れをした際の話しを伝えた。


智子は、状況が分からない。

ただ、梅本薬品の秋山さんが、浅水病院を舞台にした横領、殺人事件を調査しようとしている。

という事だ。


先に鳥飼支社長が帰った。

残った三人で、木崎の殺人事件について話題に上った。

遺体が発見されたのは、県境の道の駅の前を通っている国道の下。

崖の下のキャンプ場だ。


鳥飼支社長は、更に云った。

道の駅の展望所を挟んで、すぐ隣に廃業したレストランがある。

浅水病院で、そのレストランを購入して所有しているたそうだ。


旭寺山でも梅本薬品の元従業員が殺されて、遺体で発見されている。

殺されたのは、浅水病院を担当していた。


そして、すぐ近くの保養所も浅水病院の外科部長が取得している。

秋山さんでなくても、何かあると思うのは当然だ。


「富樫さん。手綱、引き締められるの」

智子は、少し軽口が云えるようになった。


午後十一時になったので、三人揃って、お店を出た。

支払いは、鳥飼支社長が済ませていた。


帰り際に、初めて気付いた。

智子の席の背にした丸壁に、花が飾られていた。

棚に置かれた花瓶には、沢山の紫陽花が生けられてた。


竜胆の咲く時期は、もっと先だ。

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