2.動揺
「また、頼むわな」
村上所長が、富樫に云った。
ビールをコップ一杯だけ飲むと、社宅アパートへ歩いて帰った。
村上所長は、明日、得意先を訪問する約束になっているそうだ。
富樫は、居酒屋「角水」で、肱川営業所の村上所長と飲んでいた。
同期の東さんも一緒だった。
村上課長が、所長の職位に就いて、事務管理責任者になった。
事務の実務も管理も経験はない。
だから、事務処理を間違えても、仕方がない訳では無いが、無理もないと思う。
「富樫さん。会社で、何かあるん?」
東さんが尋ねた。
「いや。特に、何も無い、と思うけど」富樫は、云わなかった。
「そう。実は、所長に現金残に差が出た時に、相談したんや」
東さんが、云った。
東さんは、金銭出納帳と現金実査に、差額が発生した時に、村上所長に相談した。
村上所長も調べようとしていたが、あまり実務に詳しくはない。
もっと、はっきり云うと、会計実務については無知だ。
すぐに、本社総務部の大西部長に、報告したようだ。
「ああ、そうか。それで営業所の監査を急いだんやな」富樫は、納得した。
今回の監査を実行することになった経緯が分かった。
ただ、何故、田所本部長からだったのだろう。
東さんは、新入社員で、肱川営業所へ配属になった当初、悪い噂を立てられた。
肱川市の実家で、父親が、東自動車整備工場を経営していて、営業所の車両を整備している。
そのコネで入社した、と陰口を云われていた。
富樫は、入社二年目から決算整理業務を担当していた。
二年目といっても、一年目の半年は、新入社員研修をしていたので、実際に業務に就いてから半年だ。
それこそ、肱川営業所の経費申請書を確認していると、妙な事に気付いた。
得意先の接待に「鵜飼家」という小料理屋の領収書ばかりが、添付されていた。
得意先の接待交際費は、各MSの経費枠に納まっていれば問題は無い。
納まっているので、問題はないのだが、どのMSも「鵜飼家」の領収書だ。
決算が終って、監査に回った時に、東さんに確認した。
東さんは、何も云わなかった。
所長にどう云う事情か、確認したが、どこの得意先も、その小料理屋を指定するのだ、と云う回答だった。
富樫は、四日、肱川市のビジネスホテルへ宿泊して、執拗に所長に確認した。
東さんは富樫の同期だし、東さんに聞けば良いと、所長が開き直った。
東さんに再度確認した。
しかし、東さんは知らないと、云うばかりだった。
見かねた管理薬剤師の菅井さんが教えてくれた。
所長の浮気相手が、小料理屋の女将だという事だった。
なんとも、まあ、ばかばかしい事に、時間を費やしてしまった。
だけど、それ以降、東さんへの中傷は無くなった。
村上所長は、この四月に、石鎚山営業所の営業二課の課次長から肱川営業所に就いている。
役職は課次長の監督職から課長へ管理職に昇進している。
ただ、これは、村上所長だけではない。
擂鉢堂には、本社のある愛媛に営業所が五ヶ所と香川に一ヶ所ある。
香川にある五岳山営業所、愛媛の銅山営業所、予南営業所、そして肱川営業所の四つの営業所の所長が異動した。
「村上所長は、大真面目で、そう言ったの、」
東さんが、村上所長を褒めている。
五岳山営業所は、香川の営業拠点で、物流センターも併設し、香川業務本部を置いている。
石鎚山営業所の営業四課長が、部次長に昇進して五岳山営業所長に就いた。
物流センター長は部長職のまま留任したが、香川業務部は、石鎚山物流センター長の部次長職だった人が、香川業務本部長に昇進して異動した。
予南営業所も物流センターを併設しているが、営業所長は五岳山営業所の営業一課の課次長が、課長に昇進して所長に就いた。物流センター長は留任だった。
銅山営業所と肱川営業所の所長は、石鎚山営業所の営業課次長が課長に昇進して所長に就いた。
異動がなかったのは、本社に併設する石鎚山営業所と高知に近い西温営業所だけだった。
「菅井さんが、木下さんのダジャレが酷過ぎるって、」
東さんが他愛もない話をしている。
それでは、今まで所長に就いていた人はどうなったのか。
特に、五岳山営業所長だった部長は、優秀で営業成績を二倍近くに伸ばしていた。
他の営業所長については、課長職だった所長は別の営業所の営業課長に、部長職だった所長は、営業本部の閑職に就いた。
特に、五岳山営業所長は、次期役員との噂があった程だったが、営業本部の営業企画部長に就いた。
形式上、営業本部へ栄転したように思えるが、本人達は不満だった事は、容易に想像できる。
「富樫さんは、とっても優秀で、頼りになるって、」
今度は、富樫の事まで、得意そうに話し始めた。
勿論、四、五年ごとにMSや所長は異動になるのだが、今回のように、四つの営業所で、昇進人事異動があったのは初めてだ。
東さんも、本当は、感付いているのだろう。
だけど、それ以降、何も会社の不審な動向について、一切、話題にしなかった。
だから、東さんと飲む、お酒は、楽しいのかもしれない。
もしかすると、楽しいのは、それだけでも、無いのかもしれないと思った。
そう思って、東さんを改めて見直した。
富樫は、東さんを綺麗、というより美しい人だと思った。
何時からだろう。
そう思ったのは、何時からだろう。
まだ、富樫は酔っていない。
富樫は、ちょっと動揺した。
ちょっとだ。
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