じいちゃん

 オレはじいちゃんっ子だった。物心ついた頃には、マタギのじいちゃんの背中におぶられて山に入っていた。

 母ちゃんは小学校の先生で、産休が明けると早々と仕事に復帰した。父ちゃんは新聞記者をしていて仕事一筋という感じだった。だから一緒に暮らしていたじいちゃんがオレの面倒を見てくれていた。


 オレはじいちゃんの背中と山の中が大好きだった。三歳になる頃にはおぶってもらえなくなって、「自分の足で歩け」と言われた。

 オレはじいちゃんから遅れないように必死に付いていったが、最初の頃はそんなに長時間持たなかった。べそをかきながらも、遅れては待ってくれているじいちゃんに追い付く事を何度も繰り返した。そして遂に本当に動けなくなると、じいちゃんはおぶってくれた。

「ケンタ、よく頑張ったなぁ」

 大きな暖かい背中は心地よくて、オレはいつもすぐに夢の世界へと導かれるのだった。


 深い深い山の中でも、じいちゃんは迷う事がなかった。オレは不思議で仕方なかった。

「じいちゃんはすごいな」というオレにいつも優しい目を向けてくれていた。


「もう何十年も毎日歩いているから頭の中に地図が入っているんじゃ。それに山では色んな者達が色んな事を教えてくれる。太陽や星やこの山に生きる色んな動物や植物が。注意してよーく見てごらん。

 それから、もっと大切な事があるんじゃよ。この世界には目に見える物なんてほんの少ししかない。見るだけじゃなくて色んな物を感じてごらん。例えば風とか音とか光の温もりとか。

 最初はなぁ、一生懸命に見よう、感じようとする事が大切なんじゃ。それで色んな物が見えたり感じたり出来るようになるじゃろ。そしたら今度は、見よう、感じようとしないようにするんじゃ。自分を透明にして自分から求めないようになれば、自然は向こうから色んな事を教えてくれるようになるんじゃよ。

 今はまだじいちゃんの言う事がよく分からんだろうが、ケンタにも少しずつ分かってくるはずじゃ」


 家ではほとんどしゃべらないじいちゃんが、山の中では色んな事を教えてくれた。



 まだ小学校に上がる前に衝撃的な出来事があった。

 ある日、大きな茶色い兎が何かに引っかかって大暴れしている所に出会でくわした。オレはちっちゃい時から動物が大好きだったから、助けてあげたいと思った。

「たいへんだ。じいちゃん、うさぎをたすけなきゃ」


 そう言うオレにじいちゃんはこう言った。

「これはじいちゃんが仕掛けた罠じゃ。じいちゃんの仕事は野生の動物を狩る事なんじゃ」

 

 オレは信じられなかった。大好きなじいちゃんの仕事が、オレの大好きな動物を殺す事だなんて。

「何でだよ。じいちゃんなんて大嫌いだ!」


 じいちゃんは無言で、暴れる兎を捕まえたかと思うと、突っ立っているオレに背を向けた。

 

 次の瞬間、じいちゃんはぐったりとした兎を抱えてこっちを向いた。

 オレはこれまで信じていた物が一気に無くなったような気がして、その場から逃げ出した。


「ケンタ! 待て!」

 これまで聞いた事のないじいちゃんの大きな怖い声が響いた。オレはビクッとして動けなくなり、その場に固まった。

 

 じいちゃんがゆっくりと歩いてきてオレをギュッと抱きしめてくれた。

 今までこらえていた物が一気にあふれ出た。じいちゃんのお腹に顔を付けて声を上げて泣いた。


「山の中で一人になる事がどれだけ危険な事か分からんじゃろ。じいちゃんの許しが出るまで、二度とじいちゃんから離れたらいかん。

 ケンタは優しい子だから、じいちゃんにはお前の気持ちがよく分かる。でもな、人間や動物は他の命を食べないと生きていけないんじゃ。

 ケンタは家で肉や野菜を食べているじゃろ。それらはこの兎と同じように生きていた命なんじゃよ。生きるという事はそういう事じゃ。辛いだろうけど、これからじいちゃんがやる事をしっかりと見ておけ」


 じいちゃんは何度も祈りを捧げ、その兎をきれいにバラバラにすると、火で炙ってそれを食べた。


「ケンタも食え」

 そう言って串刺しした肉を差し出したがオレは首を横に振った。それがさっきまで暴れていた兎だと思うと、とても食べる気になれなかった。じいちゃんはこっちをチラチラうかがいながら、美味そうに食べ続けている。


「無くなるぞ。ほれ」

 腹ペコのオレのお腹がグーと音を立てた。オレは恐る恐るその串刺しに手を伸ばした。


「ごめんなさい。いただきます」

 そう言って、目をつぶってその肉に食いついた。何度も何度も、肉が溶けるまでかんだ。こんなに大切に物を食べたのは初めてだったし、その味は特別だった。さっきの兎がジワジワと自分の血や肉になっていく感じがした。

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