ケンタの回想
イノシシ事故直後
真っ黒い大きな物体がものすごい勢いでこっちに突進してきた所までは記憶にある。もうお
だけどオレは死んでいなかった。
ある日、オレは強烈な痛みを持ってこの世界に誕生したような気がした。今すぐに殺してくれ! って叫びたかった。だけど声は出ず、何も聞こえず、何も見えなかった。世界は真っ暗で、そこにあるのは痛みだけだった。
何度も何度も同じ怖い夢を見ていた。オレの大好きなナツが、恐ろしい獣物に襲われる夢だ。
獣物は真っ黒で大きくて鋭い牙を持ち、頭にツノが二本生えていて三つの黄色く光る目を持っている。動きは素早く、時々消えて人魂のような光になったかと思うと、また恐ろしい姿を現す。
「ナツ、逃げろ!」
オレは
オレは何かにつまずいてひっくり返り、遂に獣物に噛みつかれた。痛みも分からないまま気を失った。
目が覚めるとオレ自身が恐ろしい獣物になっていた。訳が分からず、自分自身の意に反して、ナツを襲ってしまうんだ。
「やめろ! やめろ!」
心の声が叫んでいるのに、勝手に襲ってしまう。
「頼む! ナツ、逃げてくれ!」
ビクッ!
身体が跳ね、ナツに噛みつく寸前でいつも目が覚める。いつも汗びっしょりになって、目が覚めるとオレ自身が痛みに襲われる。
オレは獣物になっていない事に安堵すると同時に、また激しい痛みに耐えなければならない。
何度同じ夢を見ただろう。心身共に衰弱しきっていた。
どうする事も出来ず、ただただ耐える事しか出来なかったが、そのうちに少しずつ平穏な時間が訪れるようになっていった。何かの薬が効いている間だけは痛みや悪夢から解放されるようになった。
真っ暗闇の中、何かの音が聞こえる。現実の音だ。聞き覚えのある声がしてハッと我に返る。
「ケンタ! ケンタ!」
母ちゃんの声だ。
オレは「母ちゃん」と言おうとしたが、声が出てこなかった。
少し時間がたって、知らない人の声がした。
「ケンタくん、ケンタくん。分かりますか? ここは病院です。もう大丈夫ですよ。声が聞こえてたらこの手を握り返してみて」
オレは言われるがままにその手を握り返した。
少しずつ思い出してきた。オレは今病院にいるんだ。イノシシに襲われ、でもオレはこうして生きている。そしてハッと思った。
ナツは? ナツは大丈夫なんだろうか?
聞きたかったけれど、声が出なかった。痛みとの戦いはずっと続いていたけれど、ほんの少しずつマシにはなっていった。
誰かが部屋にいる気配がある時、いつもオレは必死に声をだそうとしていた。
「ナ」
遂に小さな声を出す事が出来た。
「ナツは?‥‥‥
ナツは大丈夫?」
「ケンタ」
母ちゃんの優しい声がした。
「良かった。ケンタ、話せるようになったのね」
「母ちゃん。ごめん。こんな事になって」
オレは声を絞りだした。
「良かった。大丈夫よ。もう大丈夫。生きていてくれてありがとう」
母ちゃんは泣いているようだ。
え? 母ちゃん、泣いてくれてるのか? オレは心に熱い物を感じた。でも答えてくれよ。もう一度オレは聞いた。
「ナツは?」
「大丈夫よ。ナツエちゃんは怪我一つ無かったよ。ケンタは私の恩人だって。毎日電話をよこしてケンタの状態を聞いてくるの。
今日はケンタが話せるようになって、自分の事よりナツエちゃんの事を心配してたって言っておくね。
事故の時ね、ナツエちゃんが救急車を呼んでくれて、救急車が到着するまで必死に応急処置をしてくれたんだって。
救急隊の指示を聞きながら、自分の着ているシャツを脱いで、ケンタの顔に巻いて、流れ落ちる血を止めてくれていたらしいの。それがなかったらケンタはたぶん助からなかっただろうってお医者さんが言ってたよ」
「ナツ、ありがとう。母ちゃん、ありがとう」
さっきまでは振り絞って必死に声を出していたのに、今度は自然に声が出た。
胸が熱くなった。父ちゃんと母ちゃんにはいい加減、見限られると思っていたから。
涙が出そうになったけれど、涙が出る代わりにまた猛烈に目が痛くなった。オレは掛けていたシーツを引っ張って顔を隠した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます