エピローグ

新聞一面記事 その1

 翌朝の新聞は、満面の笑顔をした健太と菜津枝が一面を飾っていた。


『高校三年生 健太&菜津枝 金メダルよりも世界新よりも尊い絆!』


 ☆


 この二人は何から何まで常識を越えている。

 

 伴走者の方が先にゴールしてしまった為に失格となってしまったが、その走りは圧巻だった。ゴールタイムは世界新記録で、女子1500mの日本新記録を大きく上回る物であった。

 スタートから全力疾走。まるで一人で走っているかのように、寸分の狂いもない二人のシンクロした動きは実に美しく、私は釘付けになった。会場を埋め尽くした観客は息を飲み、大声援を送り続けていた。


 彼らが後続を突き放してゴールした瞬間、割れんばかりの拍手が嵐のように巻き起こった。と同時に何か異様な雰囲気が生まれ、騒めきが会場全体に広がっていった。電光掲示板には世界新記録を意味するWRの文字。

 しかし、この競技をよく知るファンは唖然としていた。すぐに電光掲示板は訂正され、彼らは失格となった。伴走者が選手よりも先にゴールしてしまい、ルール違反となった。


 ゴールしたその先で疼くまる二人。しかしその数十秒後、伴走者の菜津枝が健太を引っ張り起こし、二人共手を合わせて、観客の皆に謝る仕草を見せた。そして大きく手を振った。

 落胆の色に包まれていた会場は温かな拍手に包まれた。



 二人に一体何が起こったのだろう。健太は言う。

「僕達が一番でゴール出来ると感じた時、ナツを一番にゴールさせたいと思った。彼女が一番頑張ってやってきたから。

 そう思ったらルールの事なんか頭から消えちゃって、勝手に少しスピードが緩んでしまいました。

 僕は取り返しのつかない最悪の失敗をしてしまって、どん底に突き落とされた。どうしようもない悔しさに押しつぶされそうだった。僕達だけの力でここまで来た訳じゃない。本当に沢山の人達に力をもらって、応援してもらって、それをちゃんと結果で返す事が出来なかった。

 けれど、ナツは僕の失敗を笑い飛ばしてくれた。

 結果はああなっちゃって本当に悔しいけれど、僕達は最高のレースをし、最高に楽しめた。それだけは自信を持って言える確かな事。だからナツが笑っているのに僕がくよくよしてたら負けだって思った。

 あの会場で温かな拍手に包まれて、確信出来たんです。やってしまった失敗を取り戻す事は出来ないけれど、だからって僕達は何も残せなかったわけじゃないって。だから、お世話になった方達に何も返せなかったって思わなくてもいいのかなって。

 真っ暗闇に陥ったあの場面でナツがリードしてくれたんです。ナツは僕の最高の伴走者です」と。


 健太は笑顔で、元気な声を作って一気に話した。そうしなければ泣いてしまって、話が途切れてしまうと思ったのかもしれない。気丈に話しながらも、サングラス越しにある健太の開く事のない目から溢れ落ちる涙を見て私は胸が詰まった。



 菜津枝の言葉も印象に残る。

「小学六年生の時に私は取り返しのつかない大失敗をしてしまって、私の一番大好きだった物を奪われてしまいました。

 その失敗を取り戻す事は出来ないけれど、私はその失敗に負けずにここまで来る事が出来ました。

 私の失敗に比べたら、ケンタの失敗なんて可愛いもんです。この失敗で本当に大切な物を失ってしまう事はない。今こうしてケンタと笑っていられる事を最大の誇りに思っています。

 ケンタ、支えてくれたみんな、本当にありがとう!」


 涙を堪えきれず、それでも明るく目一杯の笑顔で菜津枝は話していた。



 異色の二人だ。健太はパラリンピックの選考会では、男性の伴走者を付けていた。直前になって変更した伴走者は何と女性。トップを争う世界大会で、男性の伴走を女性が行なった前例を知らない。

 健太の伴走をもっと走力のある男性が務めたら、もっともっと速く走れそうな気がするが、そういう物でもないらしい。健太は彼女じゃないとダメなんだと言うだけで、多くを語ってくれない。


 "絆"という愛称で知られている二人を結ぶガイドロープ。通常はガイドの声とこの絆がランナーの目となる。しかし、このペアに限っては絆の張力が変わる事はない。スタートからゴールまで、絆は常に軽く弛んだままで、ガイドの菜津枝は全力疾走で声を掛ける様子もない。

 失明している事に疑いを持たせない為に、公平を記す為に、真っ黒なアイマスクを付けているにも関わらず、まるで健太には菜津枝が見えていて、菜津枝をリードしているとしか思えないような走りだ。



 二人は小学六年生の時に知り合い、そこで高校三年生で迎えるオリンピックに二人揃って出場する約束をする。

 しかし中学に入る前に山での事故で健太は失明してしまう。どうやら菜津枝の言っていた「私の一番大好きだった物」というのは健太の目の事を言っているようだ。

 健太が三年間の盲学校での生活を経て、陸上の名門「疾風学園」に入学を果たしたという事でさえ常識では不可能と思える事だ。健太は伴走者を付けてもらいパラリンピックを、菜津枝はオリンピックを目指した。

 菜津枝は直前の怪我の影響があり、オリンピック出場を叶える事が出来なかった。それをきっかけに、二人がペアを組んでパラリンピックを走る事となった。

 ちなみにオリンピックの1500m で日本新で五位に入賞した織田奈々恵は中学生の時からの菜津枝の良きライバルで親友だ。オリンピック前も健太と菜津枝と奈々恵の三人は疾風学園でお互いを高め合ってきた。



「地上では楽しんだもの勝ち」

 この言葉が二人の合言葉らしい。

 その意味も簡単には説明できないらしいが、彼らのこれからの道を聞いてみた。


 菜津枝は、まず奈々恵がオリンピックで出した日本記録を更新する事、そして四年後のオリンピックで金メダルを目指すという明確な目標を掲げた。

 二人で四年後のパラリンピックは目指さないのかという質問に健太はこう答えた。

「パラリンピックを走るのはこれが最後です。地上はこれ以上ない位最高に楽しんだから、地上を整理したら本当の自分の居場所に帰ります」と。


 本当の自分の居場所?

 この少年はどこまでも謎に包まれている。

 履いているシューズは地下足袋で、走る足音がしない。力を全く使っていないように軽々と走る姿は、まるで山犬が走っているように美しい。

 そして隣にいる少女はその全てを知っているのだろうか。不思議な受け答えをする健太を見ながら嬉しそうにクスクスと笑っていた。


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